8.灰の影
地下空間に満ちる青白い光が、まるで死者の魂が放つ最後の輝きのように、石壁に不規則な影を落としていた。百を超える硝子容器の中で揺らめく光はそれぞれが異なる周期で明滅し、まるでこの場所全体が巨大な生き物の体内にいるかのような錯覚を生み出していた。湿った石の臭いと古い血の臭い、そして魂が朽ちていくような名状しがたい臭いが混じり合い、四人の肺を重く満たしていく。
リオスと名乗った男は白衣の裾を翻しながら、ゆっくりと歩を進めた。その足音は規則正しく、まるで葬送の鐘のように地下空間に響く。彼の手にした奇妙な杖――赤く光る石を頂く杖は、周囲の魂たちに呼応するかのように脈動していた。
「君たちには分からないだろうね」
リオスの声は静かな水面に落ちた一滴の雫のように空間全体に広がっていった。その声には深い孤独と、そして理解されることを諦めた者特有の諦観が滲む。
「この世界がどれほど不完全か。肉体という魂を摩耗させる囚獄に閉じ込められ、どれほど苦しんでいるか」
彼の視線が硝子容器の一つに向けられた。その中で揺れる青白い光は、まるで助けを求めるように激しく明滅していた。リオスの顔には慈愛とも狂気ともつかない複雑な表情が浮かび上がる。
「ボクはただ、彼らを解放したいだけなんだ」
レオンは双剣を構えたまま、じっとリオスを見つめる。この男の中に深い闇を感じた。それは単なる狂気ではない。もっと根源的に刻まれた傷のようなものだった。
「解放?」
レオンの声が静寂を破る。
「これが解放だというのか? 魂を肉体から引き剥がし、硝子の牢獄に閉じ込めることが!」
リオスは微笑んだ。それは悲しみに満ち、壊れた人形のような笑みだった。
「肉体は魂を刻々と蝕む棺だ。病に削られ、老いに崩れ、やがて腐土へと還る。そんな朽ちゆく器に魂を押し込めることを、君たちは生と呼ぶのか?」
ユリウスが杖を握り締めた。魔石が激しく脈動し、青白い光を放っている。その表情は険しいながらもある種の理解を示しているようだった。魔術師として魂と肉体の関係性について学んできた彼には、リオスの言葉の一部は否定しきれない真実でもあるからだ。この世界には確かに不条理が存在する。その不条理と向き合った時、人はどこまで正気でいられるのか。
「だが、それは他人が決めることじゃない」
ユリウスの声は低く、感情を抑えながら続ける。
「魂と肉体の結びつきは、この世界の本質的な法則だ。それを勝手に切り離すことは――」
「法則?」
リオスが嘲笑を浮かべた。
「法則だと? それは神の落書きにすぎない! ならば問おう、その神はどこにいる! 沈黙し、背を向け、嘲るだけの虚ろな偶像に過ぎぬではないか!」
ノエルが震えながら前に出た。マリアの魂が入った容器を抱きしめたまま、彼は必死に言葉を紡ぐ。
「神は……神はいます。たとえ沈黙し、私たちには理解できなくても」
その言葉にリオスの表情が一変した。飄々としていた顔に、深い憤りが浮かび上がる。それは、かつて神を信じていた者だけが持つ、裏切られた者の怒りだった。
「じゃあ何故あんなことが起きる!」
彼の叫びと共に地下空間全体が共鳴した。百を超える魂たちが一斉に反応し、硝子容器の中で青白い光が渦を描き始める。それは悲鳴のようでもあり、慟哭のようでもあった。失われた者たちの声が空間に満ちていく。
セラフィーヌは銃を構えたまま、その光景を見つめていた。妹のミレイユの最期が脳裏に蘇る。獣の魂を植え付けられ、人でも獣でもない存在になってしまった妹。その苦しみを終わらせるために自らの手で撃ち抜いた、あの瞬間。引き金の重さが、今も指に残っている。
「あんたも……」
セラフィーヌは低く静かに続ける。
「大切な誰かを失ったの……?」
その言葉にリオスの動きが止まった。一瞬、その瞳に深い悲しみが浮かぶが、すぐに消え、代わりに鋼のような決意が宿る。
「失われた者を苦しみから解き放ち、もう二度と壊れぬ器に迎え入れる……それが叶うなら、君たちも望むだろう?」
リオスが杖を高く掲げた。赤い石が激しく輝き始める。その光に呼応するように、壁面に刻まれた古代文字が一つずつ目覚めていく。それは世界の理を歪める禁忌の術式だった。
「さあ、始めようか。新しい世界への第一歩を」
地下空間の空気が変質した。重く、濃密な魔力が渦を巻き始める。それは単なる魔術ではなかった。魂そのものを操作しようとする、神の領域への侵犯だった。
硝子容器の一つが激しく振動し始めた。中の魂が苦しそうに身をよじっている。容器に亀裂が走り、そこから青白い光が漏れ出す。
「やめろ!」
レオンが叫びながらリオスに向かって駆け出した。双剣が空を切り、銀の軌跡を描く。しかし、リオスの周囲に見えない壁が現れ、剣を弾き返した。
「無駄だよ。ボクの聖域って言っただろ?」
リオスの声と共に床に刻まれていた魔法陣が目覚めた。複雑な幾何学模様が蠢き、広がっていく。その光は血のように赤く、不吉な輝きを放っていた。
尋常ではない様子に対抗しようとユリウスが詠唱を始めた。古代語の響きが地下空間に満ちていく。
「封印の鎖よ、歪みし術を縛れ――」
青白い光が杖から放たれ、赤い魔法陣と衝突した。二つの魔力がぶつかり合い、激しい閃光が生まれる。壁が軋み、天井から小石が降り注ぐ。
その隙を突いて、セラフィーヌが銃を撃った。弾丸は正確にリオスの杖を狙う。しかし、またも見えない壁に阻まれ、弾丸は虚しく床に落ちた。
「もっと、もっと抗ってくれよ」
リオスが恍惚とした表情が浮かぶ。
「君たちの魂は実に素晴らしい! その輝きを持つ器こそ我らに相応しい!」
突如、ひび割れた容器から魂が解き放たれた。青白い光は宙を舞い、
レオンの体に飛び込んできた。
刹那、レオンの意識が弾け飛ぶ。自分ではない誰かの記憶が激流のように流れ込んでくる。幼い頃の思い出、初恋の記憶、そして――灰の修道会に捕らえられた時の恐怖。魂を抜かれる瞬間の言葉にできない虚無。
「レオン!」
ユリウスの叫び声が、遠い岸辺から聞こえるようだった。レオンは答えることができなかった。他者の魂と自分の魂が溶け合い、境界が曖昧になっていく。人が人でなくなる――
「迷える魂よ、安らぎを。苦しむ者よ、解放を。主の御名において――」
ノエルの祈りが、古い聖歌のように響き、金色の光がレオンを包み込んだ。それは温かく、優しい光だった。母の腕に抱かれているようなぬくもりを感じる。混乱していた意識が少しずつ自分を取り戻していく。
名も無き魂が、ゆっくりとレオンの体から離れていった。青白い光は宙を漂い、そして――静かに薄れていく。それは消滅ではなく解放だった。この世界の束縛から、ようやく自由になったのだ。
「ありがとう……」
風のような囁きがレオンの耳に届いた。それは解放された魂の最後の言葉だった。
レオンは膝をついた。全身から力が抜け、剣を支えることさえ困難だったが、その瞳だけは前を見据えることを止めなかった。
「リオス、お前は間違っている!」
ぴたりとリオスの動きが止まった。
レオンはまだ飛び込んできた魂の残滓が混ざり、意識が混濁している。だが、今だからこそはっきりと分かるのだ。
「魂と肉体は確かに不完全かもしれない。だけど、その不完全さこそが人間ってものだろ!」
レオンはゆっくりと立ち上がった。ユリウスが支えようとするが、彼は首を振ってそれを断る。
「病や老い、死。それらは確かに恐ろしい。でも、限りある命だからこそ、必死に生きようって思えるんだ。愛し、憎み、喜び、悲しむ。それが人間だ」
セラフィーヌが、レオンの言葉に続いた。
「完璧な器なんて存在しない。たとえ作れたとしても、そこに宿る魂は……もう人間じゃないわ」
彼女の声には妹を失った深い悲しみと、それでも生きていくことを選んだ強さがあった。
リオスの表情が歪んだ。怒りか、悲しみか、それとも別の何かか。
「綺麗事だ」
彼の声は震えていた。
「君たちは何も分かっていない。本当の絶望を」
その瞬間、リオスの姿が揺らいだ。陽炎のように輪郭がぼやけ、そして――
別の人間の姿が、リオスに重なった。
長い銀髪の青年。深い紫の瞳の奥に底知れない悲しみと憎しみを灯す。しかし、それは幻のように消え、再びリオスの姿に戻った。
「なんだ、今のは……」
ユリウスが呟いた。
「これは魂の重なりか……?それとも――」
魔術師としての直感がリオスという存在の裏に隠された、もっと大きな何かを感じ取り、存在そのものに警笛を鳴らしている。
突如、地下空間全体が大きく揺れた。古い術式が暴走し始めたのか、それともリオス自身が引き起こしたのか。確実に言えることは崩壊の前兆だった。天井から巨大な石塊が落下し、床に深い亀裂が走る。
「ここはこれで仕舞いにしよう。でも、これは終わりじゃない。始まりだ」
彼の姿が霧のように薄れていく。幻術か、それとも別の魔術か。
「待て!」
レオンが叫んだが、既にリオスの姿は完全に消え、後には崩れ始めた地下空間だけが残された。
「逃げるぞ!」
ユリウスの鋭い声が、全員を現実に引き戻した。 天井の崩落が本格的に始まった。巨大な石塊が次々と落下し、床を砕いていく。地下空間を支えていた古い柱が、悲鳴を上げるように軋み、折れていく。硝子容器が次々と砕け散り、解放された魂たちが青白い光となって宙を舞う。それは美しくも哀しい、最後の舞踏のようだった。
ノエルはマリアの魂が入った容器を胸に抱きしめ、必死に駆け出した。他の魂たちも救いたかった。しかし、それは不可能だった。せめて、マリアだけでも――その一心でかけぬける。
背後では轟音が響き、地下空間が次々と崩壊していく。
「右よ! 左の天井が落ちるわ!」
セラフィーヌが先陣を切り、後続に警告すると同時に、左側の天井が崩れ落ちた。間一髪で回避した四人は、さらに上を目指す。
階段は傾き、今にも崩れそうだった。段差は崩れ、手すりは折れている。それでも四人は必死に登るしかなかった。
最後の階段を駆け上がり、地上への扉を押し開けた瞬間、背後で最後の崩落が起きた。地面が陥没し、巨大な穴が開く。百の魂たちが眠っていた地下空間は、永遠に地の底へと沈んでいった。
地上に出た時、陽はすでに西に傾いていた。橙色の光が廃墟と化した村を照らしている。村人たちの姿はどこにもなかった。魂を奪われた者たちは、どこへ消えたのか。風だけが、空っぽの家々の間を吹き抜けていた。
「終わったの……?」
セラフィーヌが息を整えながら呟いた。しかし、誰もその問いに答えることはできなかった。これは序章に過ぎない。リオスという男の真実、灰の修道会の真の目的、そして、この世界に迫る脅威。全ては、まだ始まったばかりだった。
風が吹いた。灰の臭いを含んだ、重い風が。まるで、これから訪れる嵐の前触れのようだった。
四人は無言で立ち尽くす。それぞれが、今日起きたことの意味を心の中で反芻していた。魂と肉体、生と死、完璧と不完全。それらの境界線が確かに揺らいだ。そして、その揺らぎの向こうに、まだ見ぬ真実が潜んでいることを誰もが感じ取っていた。
陽が沈みかけた空に、一番星が輝き始めた。
それは希望の光のようでもあり、同時に、迫り来る闇を告げる警告のようでもあった。
この世界には、まだ彼らの知らない物語が、深く、静かに、根を張っているのだった。