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灰に眠る光  作者: 東達
灰に眠る町
7/18

7.血の臭い

 村人たちの赤く光る瞳が、じわじわと四人を追い詰めていく。その歩みは緩慢だが、確実に距離を縮めてくる。逃げ場を奪いながら、静かに、しかし抗いようもなく近づいてくる。


 レオンの双剣が鞘から抜かれた。刃が薄い陽射しを受けて鈍く輝く。しかし、その切っ先は震えていた。目の前にいるのは敵ではない。魂を奪われた、ただの村人たちだ。罪もない人々。彼らにも家族がいて、昨日まで普通の暮らしがあったはずだ。その現実がレオンの心を締め付けた。

「待て、レオン」

 ユリウスが制止の声をかける。その瞳はリオスから一瞬も離れることなく、状況を分析していた。額に汗が滲み、杖を握る手に力が入っている。

「この男が操っている。元を断たなければ――」

「その通り。賢明な判断だね」

 リオスが手を叩いた。その音に反応して村人たちの動きが止まる。糸が切れた人形のように、その場に立ち尽くしていた。

「でも、キミたちには選択肢なんてないよ。ボクの実験に協力するか、それとも――」

 言いかけた瞬間、セラフィーヌの銃声が響いた。

 弾丸はリオスの頬を掠め、後ろの壁に突き刺さる。煉瓦が砕け、粉塵が舞う。

「黙れ」

 セラフィーヌの声は震えていた。怒りで全身が熱くなり、憎しみで視界が赤く染まりそうだった。銃口から細い煙が立ち昇る。瞳には純粋な殺意で染まっている。妹の記憶が蘇り、胸が激しく痛んだ。

「次は外さない」

 リオスは頬に手を当てた。指先に血が付着していようが、その顔には恐怖の色はなかった。むしろ、愉悦に満ちた表情を浮かべていた。それが余計に腹立たしかった。

「実に素晴らしいね。その怒り、その憎しみ。まさに人間の本質だ」

 彼が指を鳴らすと、村人たちが再び動き始めた。今度は先ほどよりも速い。赤い瞳が獲物を狙う獣のように輝いた。

 石畳を蹴る音が静寂だった広場に響き渡る。レオンの双剣が空を切った瞬間、世界が変わった。刃が描く銀の軌跡。それは美しくも悲しい光景だった。

「くそっ、動くな!」

 レオンは叫びながら、剣の腹で最初の村人――かつては鍛冶屋だったであろう大柄な男の脇腹を打ち据えた。鈍い音が響き、男はよろめいた。しかし、痛みを訴える様子は微塵もない。その無表情さが、レオンの心を抉った。

「頼む、正気に戻ってくれ!」

 レオンの声に絶望が滲む。殺さずに無力化する――それが精一杯だった。剣術の全てが人を殺すためのものだった。それなのに今、必死にその技を人を生かすために使おうとしている。この矛盾に、胸が苦しくなる。

 倒れた村人は、ぎこちなく、しかし確実に起き上がる。肩が外れたような不自然な角度で腕がぶら下がっているにも関わらず、痛みを感じる素振りもない。骨が軋む音さえも、彼らには届いていない。その光景に、吐き気がこみ上げてきた。

「坊ちゃん、後ろだ!」

 ユリウスの警告と同時にレオンは身を翻した。小さな少女が――まだ七つか八つほどの少女が、赤い瞳で彼を見上げていた。その小さな手には、錆びた包丁が握られている。

「こんな子供まで……」

 レオンの声が震えた。剣を振るうことができない。相手が子供では――胸が張り裂けそうだった。この子にも親がいたはずだ。この姿になる前は無邪気に笑っていたはずだ。

「レオン、迷うな!」

 セラフィーヌが叫んだ。彼女の声にも苦悩が滲んでいた。

「その子はもう――今は器よ! 迷えば、あんたが!」

 その瞬間、ユリウスの杖から青白い光が迸った。

「縛鎖の術式――展開!」

 魔力が幾何学模様を描きながら広がっていく。地面に浮かび上がった魔法陣から見えない鎖が立ち上り、村人たちの四肢に絡みついた。青白い光の鎖が蠢き、獲物を捕らえていく。

「これで動きを――」

 ユリウスの声が恐怖で途切れる。目の前の光景に血の気が引いていくのが分かった。

 村人たちは止まらなかったのだ。束縛の術式が彼らを縛り上げているにも関わらず、なお前進しようとする。肉が裂ける音。骨が軋む音。皮膚が引き千切れ、血が石畳を濡らしていく。それでも彼らは前進をやめない。自らの肉体を破壊してでも、四人に向かって進もうとする。

「なんて執念……いや、執念ですらないのか」

 ユリウスの額に汗が滲んだ。恐怖と困惑が入り混じり、手が震え始めた。魔力を更に注ぎ込み、鎖を強化する。しかし、村人たちは自らの腕を引き千切ってでも、足を折ってでも、這いずってでも近づいてくる。

「これは……人間じゃない。もはや人間として扱えない」

 その言葉を口にした瞬間、ユリウスは激しい嫌悪感に襲われた。魔術師として理解はしていた。魂を失った肉体は、もはや人ではない。しかし、その事実を受け入れることが、こんなにも辛いとは思わなかった。

 

 広場の端でノエルが膝をつき、聖印を胸に抱いて必死に祈りの言葉を紡いでいる。

「主よ、迷える魂に安らぎを。苦しむ肉体に解放を――」

 彼の周囲に淡い金色の光が広がっていく。温かく、優しい光だった。聖なる光が村人たちに触れると、その動きが僅かに鈍くなる。赤い瞳の輝きが、一瞬だけ弱まる。

 しかし、ノエルの顔は苦痛に歪んでいた。祈りを捧げる唇は震え、額には脂汗が浮かんでいる。これは救済ではない。ただの時間稼ぎに過ぎない。その現実が彼の心を深く抉った。彼の祈りは魂なき器には届かない。それでも祈らずにはいられない。祈ることしかできない自分への、痛切な自己嫌悪が彼を苛んでいた。

「神よ、なぜですか」

 ノエルの呟きは誰にも聞こえないほど小さかった。涙が頬を伝い始めた。

「なぜ、このようなことを許されるのですか」

 その時、一人の老婆がノエルに向かって歩み寄ってきた。先ほど井戸で水を汲んでいた老婆だった。虚ろな瞳は赤く染まり、しわだらけの手には古い鎌が握られている。

「お願いです、止まってください」

 ノエルは祈るように手を差し伸べた。声が震え、必死に涙を堪えていた。聖なる光が、より強く輝く。老婆の足が止まる。いや、止まったように見えた。しかし――

 老婆の口が、ゆっくりと開いた。そして、壊れた音を発し始めた。


「たす……けて……」


 それは老婆の魂の最後の叫びだったのか。それともリオスが仕組んだ残酷な演出だったのか。ノエルには分からなかった。ただ、その一言が、彼の心を完全に打ち砕いた。

「助けたい……助けたいんです!」

 ノエルの叫びが広場に響いた。絶望と悲しみと怒りが、すべて声になって溢れ出した。聖なる光が爆発的に広がる。それは彼の魔力の限界を超えた、魂の叫びだった。


 銃を構えたまま、セラフィーヌは全身が震えていた。引き金に指をかけるが撃つことが出来ない。相手は罪のない村人たち。妹を撃った時の記憶が鮮烈に蘇り、胸が激しく痛んだ。あの時に味わった感情のすべてが、一気に押し寄せてきた。

「また……また同じことを」

 彼女の手が震えた。銃口が定まらない。恐怖と悲しみで、視界が歪んでいく。

「セラ、しっかりしろ!」

 レオンが叫んだ。村人の一撃を剣で受け流しながら、必死に声を張り上げる。

「あの時とは違う!」

「分かってる! 分かってるけど――」

 セラフィーヌの瞳から涙が流れた。悔しさと無力感で、心が千切れそうだった。レオンに「器」と言ったものの、自分自身も割り切れていないことに嫌悪した。それでも銃は下ろさない。構えたまま、ただ震えているのだった。


 戦いはまだ始まったばかりだった。しかし、すでに彼らは理解し始めていた。これは単なる戦闘ではない。人間の尊厳と、魂の在り方を巡るもっと根源的な戦いなのだと。


 血の臭いが風に乗って広場を満たしていく。それは村人たちの血であり、同時に、失われた魂たちの悲鳴のようでもあった。その臭いが、四人の心をさらに苦しめる。


 混戦の中、リオスの姿が消えた。


「逃げたか!」

 ユリウスが舌打ちをする。

 その時、地面が震えた。

 重い音と共に、広場の中央にある枯れた噴水が横にスライドし始めた。その下から、地下へと続く階段が姿を現す。暗い穴から、濃密な血の臭いが立ち昇ってきた。

「来たまえ、風紡ぎ諸君」

 リオスの声が、地下から響いてくる。

「ボクの本当の実験室を見せてあげよう」

 村人たちの動きが止まった。赤い光が消え、彼らはその場に崩れ落ちる。操り糸が切れたのだ。

 四人は顔を見合わせた。これは明らかな罠だ。しかし――

「行くしかない」

 レオンが言った。その瞳には覚悟の色が宿っていた。

「この村の真実を知らなければならない」

 地下への階段を降りていく。一段、また一段と。深く潜るほどに、血の臭いは強くなっていった。それは単なる血ではない。何か別のもの――魂が腐敗したような、名状しがたい臭いが混じっていた。

 階段の壁には奇妙な文字が刻まれている。古代語のようでもあり、呪術の記号のようでもある。その文字は、まるで生きているかのように、微かに脈動していた。

「これは……」

 ユリウスが壁の文字を指でなぞる。

「魂を縛る術式だ。それも、かなり高度な」

 階段を降りきると、そこには想像を絶する光景が広がっていた。

 巨大な地下空間。その中央に無数の硝子の容器が並んでいる。容器の中には青白い光が漂っていた。それは――

「これは……魂……?」

 ノエルが震え声で呟いた。

 容器の中で光はゆらゆらと揺れている。時折、人の顔のような形を作り、すぐに崩れていく。それは閉じ込められた魂が必死に外へ出ようともがいている姿だった。


 その数は、百を超えていた。


 部屋の奥には手術台のようなものが幾つも並んでいる。台の上には褐色の染みがこびりついていた。それが血であることは誰の目にも明らかだった。

 壁には無数の道具が掛けられている。メスやペンチ、見たこともない奇怪な形状の器具。その全てに血がこびりついていた。

「ここで……」

 セラフィーヌの声が震えた。全身が怒りで震えている。

「ここで、人々を実験台に……」

 床には何かを引きずった跡があった。その先には鉄格子で仕切られた牢のような空間が続いている。牢の中には、ぼろぼろになった衣服の切れ端や人骨らしきものが散乱していた。

「ようこそ、ボクの聖域へ」

 リオスが部屋の奥から姿を現した。白衣を羽織り、手には奇妙な形をした杖を持っている。その杖の先端には赤く光る石がはめ込まれていた。

「ここでボクは新しい人類を創造している。魂と肉体の、理想的な融合を」

「狂ってる……」

 レオンが双剣を構えた。怒りで手が震えている。

「これが理想? 人を殺し、魂を奪い、実験材料にすることが?」

 リオスは首を振った。その顔には狂信者特有の陶酔した表情が浮かんでいる。

「ボクは彼らに強い魂を与えるだけさ。それこそが真の救済だ」

 彼が杖を振ると容器の一つが光り始めた。中の魂が激しく震え、苦しそうに身をよじっているように見えた。

「見たまえ。これはかつて病弱だった少女の魂だ。でも、もうすぐ強靭な戦士の肉体を得る。素晴らしいと思わないかい?」

「やめてください!」

 ノエルが叫んだ。聖印を掲げ、祈りの言葉を紡ぎ始める。しかし、リオスは嘲笑を浮かべただけだった。

「祈り? 神? そんなものに何の意味がある?」

 リオスの瞳は深い闇に染まる。そこには底知れない孤独と、そして憎悪が渦巻いているように思えた。

「神は何も救わない。だからボクが救うんだ」

 その時、セラフィーヌは気付いてしまった。部屋の隅に小さな容器が置かれている。その中の魂は、他とは違う色をしていた。純粋な白ではなく、どこか灰色がかっている。


 そして、その容器には名前が刻まれていた。


 『マリア』


 ノエルが話していた、修道会に連れ去られた少女の名前だった。

「マリアが……そこに」

 セラフィーヌの視線を追ってノエルが容器に駆け寄り、震える手で硝子に触れた。中の魂が微かに反応する。まるで、ノエルを認識したかのように。

「まだ、まだ大丈夫……マリア、大丈夫ですから……」

 自分に言い聞かせるようにノエルは言葉を繰り返し、強く容器を抱きしめる。

「面白いものを見つけたね」

 態とらしく靴を鳴らしながらリオスが近づいてくる。

「その子は普通の魂とは違うからね、特別な器を用意しているのさ」

 彼が指差した先には、人ひとりが優に入る大きさの硝子容器があった。その中には何か形になりかけているものが浮かんでいる。それは――

「造ってるのか……人間を」

 ユリウスが息を呑む。

「人ではなく器として、か」

「その通り。完璧な器だ。病も老いも超越した新しい人類の器」

 リオスの顔に狂気の笑みが広がった。

「そして君たちの魂も素晴らしい器の材料になる」

 

 地下空間の天井は思いのほか高く、暗闇が深い淵のように広がっていた。壁面には松明が灯されているが、その光は青白い魂の光と混じり合い、不気味な影を作り出している。石造りの床は湿気を含み、足を踏み出すたびに、じっとりとした感触が靴底から伝わってきた。


 戦いが再び始まろうとしていた。

 しかし今度は、逃げ場のない地下での戦いだ。入口から続く階段は今や唯一の退路。その狭い通路は罠のように四人を閉じ込めていた。地下特有の冷たい空気が肌を刺し、呼吸するたびに肺が冷えていく。水滴が滴り落ちる音が不規則に響いては、緊張感をさらに高めていった。

 百を超える魂たちが、硝子の牢獄から解放されるのを待っている。整然と並べられた容器は、まるで墓標のように見えた。それぞれの容器の中で、青白い光が脈動している。時折、光は人の形を作っては、すぐに崩れる。その繰り返しが生者と死者の境界を曖昧にしていく。容器の表面には結露が付着し、それが松明の光を反射して、無数の小さな虹を作り出していた。美しくも恐ろしい光景だった。

 

 血の臭いが、さらに濃くなっていく。

 それは過去の犠牲者たちの血であり、そして、これから流れるかもしれない血の予兆でもあった。古い血の臭いは床や壁に染み込み、新しい血の臭いと混じり合って息苦しいほどの濃密さで地下空間を満たしていた。その臭いは喉の奥に絡みつき、吐き気を催させながらも、これから起こる戦いの現実を否応なく四人に突きつけていた。

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