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灰に眠る光  作者: 東達
灰に眠る町
6/18

6.器の村

 カグリス村が朝靄の向こうに姿を現した。


 最初に感じたのは静寂だった。それは単なる音の不在ではなく、生命そのものが息を潜めているような沈黙だった。村というものは、例えどんなに小さくとも生活の音に満ちているはずだ。鶏が朝を告げる声、井戸の釣瓶が軋む音、母親が子供を呼ぶ声。しかしこの村からは、そのどれもが聞こえてこない。ただ風だけが、家々の隙間を通り抜けていく音がするばかりだった。その風の音さえも、どこか空虚で、まるで誰もいない廃墟を吹き抜けていくような寒々しさがあった。

 村の入り口に立つと、石畳の道が奥へと続いているのが見えた。その道の両側には、かつては商いをしていたであろう家々が並んでいる。看板は朽ち、文字は判読できない。扉は閉ざされ、窓には厚い板が打ち付けられていた。それは単に人が住んでいないというだけではなく、何かを封じ込めるため、あるいは何かから身を守るための、必死の防御のようにも見えた。


 セラフィーヌの指が銃のグリップを撫でた。無機質なひんやりとした感触が掌に馴染む。長年の傭兵生活で培った本能が全身に警告を発していた。筋肉が緊張し、呼吸が浅くなる。ここには何か尋常ではないものが潜んでいる――その確信が彼女の神経を研ぎ澄ませていた。

「妙だな」

 ユリウスが杖を握り締めながら呟いた。黒木の杖に埋め込まれた魔石が、微かに、しかし確かに脈動している。青白い光が明滅し、まるで生き物の鼓動のように規則的なリズムを刻んでいた。間違いなく魔力の乱れを感じている。彼の瞳が細められ、額に薄く汗が滲んだ。

 村の入り口に立つ古い石柱を、レオンはじっと見つめていた。風雨に晒されて角が丸くなった石の表面には、かつて村の名を刻んでいたであろう窪みがあった。しかし、文字は何者かによって意図的に削り取られていた。まるでこの村の存在そのものを歴史から、記憶から、世界から消し去ろうとしたかのような執拗さが感じられた。


 ノエルが聖印を握りしめた。古い銀の十字架が朝の光を受けて鈍く光る。彼の瞳は深い憂いを浮かべた。巡礼者として多くの村を訪れてきたが、これほどまでに生気を失った場所は初めてだった。


 レオンは一歩、村の中へと足を踏み入れた。その足音は静寂の中で異様に大きく聞こえ、まるで村全体が四人の侵入を見つめているかのような錯覚を覚えさせた。

 家々の壁を見ると、蔦が這い回り、まるで緑の手が建物を締め上げているかのようだった。壁の漆喰は剥がれ落ち、下地の木材が露出している箇所もある。窓という窓には板が打ち付けられ、その板には釘が何本も、まるで見えない恐怖に駆られたかのように乱雑に打ち込まれ、奇妙な閉塞感が漂っている。


 そして、臭いがあった。


 ただの腐敗臭ではない。もっと別の、名前のつけようのない臭い。焦げた灰の匂いに、何か化学薬品のような刺激臭が混じり、そして底に流れる甘ったるい香り――それは身体の芯から朽ちていくような、生命が徐々に失われていくような、不吉で重苦しい香りだった。セラフィーヌは思わず鼻を覆いそうになったが、それでは警戒が緩むと思い直し、浅い呼吸を繰り返す。


 村の中央には小さな広場があった。かつては市が立ち、人々が集い、子供たちが遊んでいたであろう場所。だが、今は雑草が石畳の隙間から生え、噴水は枯れ果てていた。噴水の縁には緑の苔がびっしりと生え、水盤の底には黒い澱のようなものが溜まっている。

 

「住人が……」

 ノエルが小さく呟いた。その声には緊張と、そして微かな希望が混じっていた。もしかしたら、まだ救える者がいるかもしれない――そんな祈りにも似た感情が彼の声を震わせていた。

 彼の視線の先である井戸の傍に一人の老婆が立っていた。灰色の髪を後ろで束ね、擦り切れた茶色の服を着ている。背を丸め、ゆっくりと、水の中を歩くような重い足取りで水を汲んでいる。その動作は妙にぎこちなく、まるで体の動かし方を忘れてしまった者のようだった。


 レオンが慎重に近づいていく。革靴の砂利を踏む音が静寂の中に響いた。老婆との距離が縮まるにつれ、違和感が強くなっていく。老婆は水を汲む動作を繰り返しているが、桶はとうに一杯になっているのに、まだ釣瓶を上げ下げし続けている。水が溢れ、地面を濡らしているのに、それに気づく様子もない。

 レオンが声をかけようとした瞬間、老婆が振り返った。

 

 その瞳を見て、四人は凍りついた。


 虚ろだった。瞳孔は異常に開き、焦点は定まらず、まるで目の奥に広がる空洞を覗き込んでいるようだった。それは生きている人間の目ではない。魂が肉体から引き剥がされ、ただ肉の器だけが残されたような、恐ろしい空虚さがそこにあった。瞳の色さえも薄れ、灰色がかった白濁した色をしている。

「おや、旅の方かね」

 老婆の口が動いた。唇は機械的に開閉し、声帯が音を発する。だが、その声には感情というものが完全に欠落していた。抑揚がなく、温度がなく、まるで壊れた人形が録音された音声を再生しているような不気味さがあった。顔の筋肉も笑顔を作ろうとしているのか、口角が不自然に引き上げられているが、目は全く笑っていない。

「ええ、少し水を分けていただけませんか」

 レオンが慎重に答えた。声だけでも平静に保とうとしているが、微かに震えている。老婆は小さく頷いた。その動作も妙にカクカクとしていて、首の関節が錆びついているかのようだった。彼女は井戸から桶を引き上げ、レオンに差し出した。その動作の一つ一つが、まるで見えない糸で操られているような不自然さを帯びていた。

 水を受け取ったレオンは、老婆の手に触れて息を呑んだ。異様に冷たい。まるで水に浸かっていたかのような、生きている人間の体温とは思えないほどの冷たさだった。その一方、皮膚は妙に乾燥していて、まるで枯葉のような感触がある。血の通っていない、ただの肉の塊に触れているような感覚にレオンは思わず手を引きそうになった。

「この村で何かあったのですか?」

 ノエルが一歩前に出て静かに問いかけた。聖職者としての使命感が彼を突き動かしている。もし何か異常があるなら、それを正さなければならない――その思いが恐怖を押し殺して前に出る勇気を与えていた。

 老婆の動きが、一瞬止まった。まるで質問の意味を理解できないかのように首を傾げる。そして突然、同じ言葉を繰り返し始めた。


「いいえ、何も。いいえ、何も。いいえ、何も――」


 その声は次第に大きくなり、そして小さくなり、まるで壊れた機械が同じ音を繰り返すような不気味さがあった。老婆の口は動き続けているが、もはや言葉として成立していない。ただの音の羅列が虚しく空気を震わせるだけだった。


 その光景を見てセラフィーヌの顔から血の気が引き、全身が震え上がる。これは、この光景は――


 記憶が蘇る。


 妹のミレイユが獣の魂を入れられた時の、あの恐ろしい瞬間。人間でありながら人間でなくなっていく過程。その最初の兆候が、まさにこれと同じだった。瞳から光が失われ、言葉が意味を失い、ただの音となって繰り返される。


「器だ」


 セラフィーヌの声が震えていた。怒りと恐怖と、そして深い悲しみが入り混じり、胸が締め付けられるように痛む。拳を握りしめ、爪が掌に食い込むほど力を込めた。

「この老婆は、もう『器』になっている。きっと魂を抜かれて、何かを入れられるのを待っている。空っぽの器よ」

 その言葉が終わると同時に、村の奥から鐘の音が響いてきた。

 それは教会の鐘ではない。もっと低く、重く、まるで地の底から響いてくるような不吉な音色だった。その音は単に耳に届くだけでなく、体の芯まで振動が伝わり、骨を震わせ、魂を縛り付けるような重苦しさがあった。

 すると、鐘の音に呼応するように変化が起き始めた。

 閉ざされていた家々の扉が、ぎい、と軋みながら開き始めた。一軒、また一軒と、まるで見えない手が内側から押し開けているかのように。暗い家の中から、人影が現れる。

 最初に出てきたのは、中年の男だった。かつては農夫だったのだろう、日に焼けた肌と太い腕を持っている。しかし、その目は老婆と同じように虚ろで焦点が定まっていない。続いて、若い女性、老人、そして――


 レオンの息が止まった。

 子供だ。まだ十歳にも満たないような少年が同じ虚ろな目をして立っている。


 一人、また一人と村人たちが姿を現す。男も女も、老人も子供も、皆一様に虚ろな目をして、ゆらゆらと体を揺らしながら立っている。まるで風に揺れる稲穂のように全員が同じリズムで左右に揺れていた。

 その数は二十を超えていた。いや、もっと多いかもしれない。家の影から、路地の奥から、次々と現れてくる。

 彼らは無言だった。誰一人として声を発さず、ただ虚ろな瞳で四人を見つめている。いや、見つめているという表現も正しくない。彼らの視線は四人を通り越して、もっと遠い何か――この世界の外側にある何かを見ているかのようだった。

「囲まれたか」

 ユリウスが苦笑を浮かべた。いつもの皮肉めいた笑みだが、その額には汗が滲み、杖を握る手に力が入っている。恐怖を隠そうとしても体は正直だった。素早く周囲を見回し退路を探すが、どこを見ても村人たちが立ちはだかっていた。

 ノエルの顔は青ざめ、頭を抱える。聖職者として人々を救うことが使命のはずなのに、目の前の人々を救う術が分からない。祈りは彼らに届くのか? いや、魂のない器に祈りが届くはずもない。その絶望的な現実に、膝が震える。


 その時、村の奥から足音が聞こえてきた。

 こつこつと規則正しい、軍靴の音。それは、この異常な村の中で唯一、意志を持って歩く者の足音だった。他の村人たちのような、ぎこちない動きではない。確固たる目的を持ち、自らの意志で歩を進める者の足音。


 朝靄が薄れ始めた村の通りに、一人の人影が現れた。

 灰色の法衣を纏い、フードを深く被っている。その歩き方には、ある種の優雅ささえあった。まるで舞台の上を歩く役者のような計算された動き。法衣の裾が風を切り、かすかな衣擦れの音を立てる。

 村人たちが、その人物に道を開けた。まるで海が割れるように、左右に分かれていく。その様子は彼らがこの人物から絶対的に支配されていることを如実に物語っていた。

「はじめまして、風紡ぎの諸君」

 男の声が響いた。それは氷のように冷たく理性的でありながら、その奥底に狂気を孕んだ声だった。そして何より恐ろしいのは、そこに愉悦が含まれていたことだ。この状況を、村人たちの姿を、四人の恐怖を――全てを楽しんでいる。

「ボクの実験場へ、ようこそ」

 実験場。その言葉に、ノエルの全身が激しく震えた。顔が真っ赤になり、怒りで血管が浮き出る。聖印を握る手に、血が滲むほどの力が込められていた。

「この村が――この村全体が、実験場だというのか!」

 ノエルの叫びが静寂を破った。聖職者とは思えぬほどの激しい怒りの声だった。

「貴様、灰の修道会の者か」

 ユリウスが杖を構えた。黒木の杖の先端で魔石が激しく光を放ち始める。青白い光が明滅し、周囲の空気が震える。魔力が渦を巻き、今にも爆発しそうな緊張感が漂った。

「なぁに、しがない研究者さ。魂と肉体の、新たな関係性を探求してるだけのね」

 男がゆっくりとフードを下ろした。

 現れたのは、驚くほど若い顔だった。二十代半ばといったところか。煤けた茶髪が無造作に額にかかり、眼鏡の奥で暗灰色の瞳が光っている。一見すると、どこにでもいる若い研究者のような風貌だが、その瞳の奥には年齢にそぐわない深い闇と、そして隠す気すら感じられない狂気が滲み出ていた。

「ボクはリオス。この村で素晴らしい研究を進めている」

 リオスと名乗った男は両手を広げて村を示した。まるで自分の作品を誇示する芸術家のような仕草だった。

「研究ですって?」

 セラフィーヌの声が怒りで震えた。全身の筋肉が緊張し、今にも銃を抜きそうな勢いで前に出る。

「これが研究? 人の魂を奪い、抜け殻にすることが?」

 妹の顔が脳裏に浮かび、胸が張り裂けそうになる。あの時の無力感、絶望、そして怒りが、すべて蘇ってきた。

「ふざけるな! これは人殺しよ! その上、魂を奪うなんて――」

「抜け殻? とんでもない」

 リオスは首を振った。その動作には、どこか芝居がかった大げささがあった。レオンは、この男の一挙一動に違和感を覚えた。まるで台本を読んでいるような、何かを演じているような不自然さ。

「これは進化だ。弱き魂を取り除き、より強き魂を宿すための聖なる儀式なのだよ」

 リオスの声に陶酔したような響きが混じった。自分の研究に心酔し、それが絶対的に正しいと信じ込んでいる狂信者の声だった。

「見たまえ、この完璧な器たちを。もはや苦しみも、悲しみも、痛みもない。ただ純粋な、空の器として存在している」

 その言葉と共に、村人たちが一斉に動き始めた。

 全員が同じタイミングで一歩前に出る。その足音が重なり、地面を震わせた。まるで一つの巨大な生物が動いているかのような、不気味な統一感があった。

「さて、諸君もボクの実験に協力してもらおうか」

 リオスが右手をゆっくりと上げた。その動作に合わせて、村人たちの目が変化し始める。虚ろだった瞳の奥で、赤い光が灯り始めた。最初は小さな点のような光だったが、次第に大きくなり、ついには瞳全体が赤く燃え上がった。

 それは、もはや人間の目ではなかった。

 レオンの心臓が激しく鼓動した。恐怖と怒りが同時に湧き上がり、全身が震える。双剣の柄に手をかけたが、相手は元々罪のない村人たちだ。斬ることはできない。だが、このままでは――

 

 この男は人間を道具としか見ていない。魂を持つ存在としての尊厳を完全に無視している。その事実に激しい憤りと、そして深い悲しみを感じた。

 

 風が吹き、灰の臭いがさらに強くなった。それは死の匂いではなく、もっと恐ろしい、存在そのものが消えていく匂いだった。

 鐘が、再び鳴り響く。

 その音は魂なき者たちの行進を告げる、重く、苦しい音色だった。そして同時に、四人の風紡ぎたちにとって、新たな試練の始まりを告げる音でもあった。


 戦いが始まろうとしていた。


 だがこの戦いは、単純な力と力のぶつかり合いではない。それは人として生きることの意味を問う、魂の在り方を巡る、痛ましく、そして避けることのできない戦いだった。

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