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灰に眠る光  作者: 東達
灰に眠る町
5/18

5.祈りの旅路

 カグリス村への道が、夜明けの残り香に包まれて、まるで真珠の粉を振りかけたように白く息づいていた。石畳の一つ一つが、生まれたばかりの陽射しを受け止め、静かに、しかし確実に目覚めていく。大地そのものが、長い眠りから覚めた子供のように、ゆっくりと瞼を開けていくかのようだった。


 三人が歩みを進めるにつれ、遠くから鈴の音が響いてきた。それは風鈴のような軽やかさではなく、もっと重く、もっと深い響きを持つ音だった。巡礼者が身に着ける聖鈴――人々の心を鎮め、清めるための古い音色。

 やがて、道の向こうから一人の人影が現れた。

 淡い藤色の髪が朝の光を受けて、まるで薄紫の霧のように揺れている。白と薄紫を基調とした巡礼服は、長い旅路を物語るように所々にほつれや修繕の跡があった。しかしそれは見窄らしさではなく、むしろ歩いてきた道のりの重みを静かに語る威厳のようなものを纏っていた。

 灰銀色の瞳の持ち主が三人を見つめる。その目は静かで落ち着いていたが、奥底に別のものを潜ませている雰囲気を漂わせていた。まるで厚い氷の下で、息を潜めてじっと春を待っているような深みを感じさせる。

「風紡ぎの方々ですね」

 声が凛と響く。それは聖堂の鐘が遠くで鳴る音のように澄んでいて、それでいてどこか物悲しい音色だった。男は立ち止まり、小さく会釈をした。その仕草には長年の習慣として身についた優雅さがありながら、どこか重いものを背負っているような疲労感が漂っていた。

「私はノエル。巡礼の者です」

 首から下げた小さな聖印がきらりと光る。それは古い銀で作られた簡素な十字架だった。その表面に刻まれた無数の細かな傷が、彼がどれほど多くの祈りと共に歩んできたのか静かに語っていた。

 レオンが一歩前に出て、じっとノエルを見つめる。その灰青色の瞳の奥で、警戒という名の壁が音もなく崩れ落ち、代わりに静かな好奇心が生まれていた。レオンの瞼が一度、ゆっくりと閉じられ、そして開かれる。

「僕たちはカグリス村へ向かっています。獣が暴れているという話を聞いて」

 ノエルの表情が、微かに曇った。

「あぁ……その話なら耳にしました」

 それは雲が太陽を隠すような、一瞬の翳りだった。

「実は私もそちらへ向かうところでして。もし、ご一緒させていただけるなら……」

 言葉がしりすぼみに消えてゆく。ノエルは黙り込み、視線を逸らした。言いたいことがあるのは明らかだったが、結局飲み込んだ言葉があるようだ。

「路銀稼ぎか」

ユリウスの声には相変わらずの皮肉が込められていた。しかし、その言い方には妙な硬さがあった。彼なりの居心地の悪さとでも言うものだろうか。目の前の人間は偽善者とも本物の聖人かも分からない。そんな判断のつかなさと言ったところだろう。

「はい、お恥ずかしながら」

 ノエルの口元に苦い笑みが浮かぶ。いや、笑おうとして失敗した、という方が正確かもしれない。口角は上がっているのに目から感情が読み取れない。まるで貼り付けたような笑顔でちぐはぐな表情になってしまっている。自分でもその不格好さに気づいたのか、慌てて手で顔を覆った。

「すみません、少し笑うのが下手みたいでして……」

 自虐的にそう呟くと、耳まで赤くなっていた。 決まりが悪そうにするもノエルは言葉を続ける。

「巡礼とは歩くことが仕事のようなもの。ですが、歩くだけでは腹は満たされません」

 セラフィーヌの視線がノエルに突き刺さった。何かがおかしいと長年の傭兵生活で培った直感がそう告げる。相手の嘘を見抜こうとじりじりとノエルを追い詰める。

「本当にそれだけ?」

 セラフィーヌの問いが、ノエルの心臓を鷲掴みにした。隠していた本当の理由を見透かされた恐怖と、やっと話せるかもしれない安堵が胸の中でぶつかり合っていた。

「……いいえ」

 気まずい沈黙が流れた。誰も何も言えない。風がノエルの髪をふわりと揺らしたが、それさえも今は重苦しく感じる。

「私は、救えなかった者たちの影を追っているのです」

 今まで誰にも言えなかった本当の理由を口にしてしまった。目が潤み、唇が震えている。後悔と自責の念が、彼の全身から滲み出ていた。

「母の名を呼ぶ小さな声を聞いて――その声に手を伸ばすことしかできなかった」

 震える声でそう言うと、ノエルは歩き始めた。その一歩一歩が、過去という重い鎖を引きずっているかのようだった。三人も言葉もなく歩調を合わせる。

「私は、ある村で病に倒れた子供たちを前にしていました」

声が途切れ途切れになり、言葉の間に長い沈黙が挟まりながらもノエルは紡ぐ。

「熱に浮かされ、苦しみ、母親の名を呼ぶ子供たち。その傍らで私は祈ることしかできなかった」

 ノエルの手が無意識に聖印を握りしめた、その指の節々が白くなるほど強く、ぎゅっと。

「祈りは熱を下げません。祈りは痛みを和らげ下げません。祈りは――」

 言葉が途切れる。喉に見えない石が詰まったかのように。そして、一呼吸置いて絞り出す。

「命を救いません」

 ノエルが放った三つの言葉。それは信仰者が決して口にしてはならない真実。 

 レオンがゆっくりと、まるで壊れやすいものに触れるように言葉を紡いだ。

「だけど、あなたは今も祈っている」

 問いかけではなかった。それは、同じ矛盾を抱える者だけが持つ、深い理解の響き。

 すると、ノエルの目が大きく見開かれた。見透かされた驚きと、理解された安堵が、複雑に絡み合って瞳の中で揺れている。

「はい……矛盾していると、自分でも」

 言葉が喉に詰まり、ノエルは俯いた。口元に浮かんだ笑みは、泣き顔との境界が曖昧で見ている者の胸を締め付けた。

「ですが、祈ることをやめたら――」

 声が割れた。両手が無意識に聖印を握りしめ、指の節々が白くなる。

「私は本当に、何も持たない人間になってしまう」

 その告白を聞いて、セラフィーヌの硬い表情に変化が生まれた。瞳の奥の氷が少しだけ溶けたような。彼女は知っているのだ。妹を撃ったその手で今も銃を離せない自分の姿をノエルに重ねていた。

「灰の修道会を知っているか」

 ユリウスの声が、静寂を切り裂いた。

 その名前を聞いた瞬間、ノエルの足が地面に縫い付けられたように止まった。顔から血の気が引き、全身が小刻みに――いや、激しく揺れ始める。

「……知って、います」

  怒りか、恐怖か、それとも深い悲しみか。おそらくその全てが、ノエルの声を引き裂いていた。

「彼らは魂の浄化を謳っています。病を治し、苦しみを取り除くと」

 ノエルの拳が握りしめられる。巡礼服の裾がその動きに合わせて揺れた。

 「しかし、それは全て偽りです!」

 ノエルの声が突然大きくなった。今まで押し殺していた怒りが溢れ出す。顔が紅潮し、拳を握る手には爪が食い込むほど力が込められていた。

「彼らは魂を弄んでいる。玩具のように……実験材料のように! 何も救ってなどいない!」

 先程までの穏やかな表情が完全に消え、代わりに現れたのは純粋な憤怒だった。その瞳はまるで嵐の海のように荒れ狂っている。聖職者という仮面の下で、これほどの激情が燃えていたとは誰も想像していなかった。

「私が救えなかった子供たちの中に――」

 声が詰まる。額に汗が滲み、呼吸が乱れた。

「マリアという女の子が、灰の修道会に連れ去られました」

 風が止んだ。いや、世界そのものが息を潜めたかのような静寂。ノエルの告白を、天も地も、全てが聞いていた。

「もし生きているなら――」

 ノエルの顔が歪んだ。想像したくない光景が脳裏に浮かんでいるのが分かる。

「もはや人間の姿など……」

 言葉が途切れた。喉が締め付けられ、目から涙が溢れそうになる。それでも必死に堪えていた。

 四人は無言で歩いた。それぞれの心に、重い石が沈んでいるかのように。

 

 道端に誰かが供えたであろう小ぶりの花束が置かれていた。白い花だった。それは、希望とも、諦めとも、祈りともつかない、曖昧な美しさを持っていた。

 ノエルが立ち止まり、花束の前で膝をつく。

「この者たちに神の御加護があらんことを」

 静かな祈りの言葉が風に乗って流れていく。それは、もはや神に向けられたものではなく、名も知らぬ旅を終えた者たちへ、そして自分自身への密やかな語りかけのようだった。

 レオンの手が、そっとノエルの肩に置かれた。その重みは、ただの手の重さではなかった。理解と受容、そして共に歩もうという決意の重みだった。

「一緒に行きましょう」

 短い言葉だったが、ノエルの全身を稲妻のように貫いた。それは単なる同行の申し出ではない。同じ闇を知る者だけが交わせるであろう無言の誓いだった。

 ノエルがゆっくりと顔を上げると瞳から涙が一筋、また一筋と頬を伝う。

「ありがとう――」

 言葉は最後まで紡げなかった。感謝という単純な言葉では表現できない、もっと深いものが胸の奥で渦巻いていた。


 遠くに見える煙が、風に流されて形を変えていく。それは不吉な予兆のようでもあり、同時に何かの始まりを告げる狼煙のようでもあった。

 聖鈴の音が、規則正しく響く。それは鎮魂歌であり、同時にまだ生きている者たちへの呼びかけでもあった。失われた者たちの記憶と、これから救われるかもしれない者たちへの祈りが、その小さな音の中に全て込められていた。


 三人だった旅が四人となり、それは新しい意味を持ち始めていた。それぞれが背負うものが、この道の上で交差し始めたのだ。


 救済を求めて。

 贖罪を求めて。

 あるいはただ、生きることの意味を求めて。


 風が優しく、そして残酷に四人の背中を押していた。

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