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灰に眠る光  作者: 東達
灰に眠る町
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4.裏切りの噂

 夜明けの名残りが草葉の先で震えながら、最後の一滴となって落ちていく。その透明な雫の中に、世界のすべてが映り込んでは、一瞬で砕け散った。

 東の村――カグリス村への道は、まるで過去への回廊のようにセラフィーヌの記憶を呼び覚ましていく。足元の石が軋む音さえも、かつて仲間たちと歩いた道の残響のように響いた。風が髪を撫でるたび、妹の指先が優しく髪を梳いてくれた感触が蘇る。その幻の温もりが、今は冷たい風となって頬を切る。


 前を歩いているレオンとユリウスの二人の歩調は自然に合い、まるで長年連れ添った双子の影のようだった。その親密さがセラフィーヌの胸に古い釘を打ち込んだ。

「灰翔って知ってるか」

 不意にユリウスが口を開いた。振り返ることなく、ただ風に言葉を投げるように。

 セラフィーヌの足は、一瞬、石畳に縫い付けられたように止まる。胸の内側で封じ込めていた過去が突然目覚め、激しく壁を叩き始めた。それは閉じ込められた記憶が、再び陽の光を求めて暴れ出したかのようだった。

「……傭兵団の名前ね」

 言葉は淡々と紡がれたが、その声の裏では過去に築いた壁が静かに、でも確かに崩れ落ちる音がした。

「ただの傭兵団じゃない。ヴァルディアン王国でも指折りの実力を持っていた」

 ユリウスは歩きながら続ける。その声には試すような響きがあった。

「過去形で語るのね」

 セラフィーヌの唇に苦い笑みが浮かぶ。それは毒を含んだ花のような美しくも致命的な表情だった。

「二年前に内部分裂があったらしい。詳しくは知らないが、一人の女が仲間を裏切ったとか」

 風が急に冷たくなった。いや、セラフィーヌの血が凍てついただけかもしれない。

 レオンが歩みを緩め、振り返る。そして、じっとセラフィーヌを静かに見つめた。その眼差しには責めるような色はなかった。ただ、深い湖のような静謐さがあるだけだ。

「ユリ。誰だって見えないところに傷はあるし、誰にも聞こえない声で泣いてるものなんだよ」

 レオンが紡ぐ言葉は憐れみや揶揄するのではなく、春の陽だまりが凍えた心に寄り添うような温もりに満ちていた。その響きの奥では誰かの痛みを知る者だけが持つ、静かな優しさが息づいている。

「綺麗事ね」

 セラフィーヌは吐き捨てるように言った。だが、その言葉の鋭さは、自分自身に向けられた刃のようでもあった。


 道端に小さな花が咲いていた。白い花びらが風に震えている。まるで何かに怯えているかのように。


「妹がいたのよ」


 唐突にセラフィーヌは話し始めた。自分でも驚くほど自然に言葉が零れ落ちる。

「名前はミレイユ。私より三つ年下。笑うと、目尻に小さな皺ができる子だった」

 記憶の底で、妹の顔が水底の月のように揺らいでいる。その愛しい輪郭を私は震える指先で何度もなぞろうとする。けれど妹の輪郭に触れるたび、砂のようにその面影は指の間から零れ落ちていく。時という無慈悲な風が一息ずつ彼女の微笑みを私の内側から静かに、そして容赦なく奪い去っていく。

「灰翔にいた頃は幸せだった。仲間がいて、居場所があって、守るべきものがあった」

 セラフィーヌの指が、無意識に左耳の耳飾りに触れる。銀の雫が、涙のように冷たい。

「でも、灰の修道会が現れた」

 灰の修道会――その四文字が、まるで古い傷口を抉る刃のように、静寂を切り裂いた。ユリウスの指先が杖を握る力を無意識に強め、周囲の空気が重く、重く、纏わりついていく。

「奴らはミレイユを『実験体』に選び、攫っていった。獣の魂を植え付ける器としてね」

 セラフィーヌの声が震える。それは怒りか、悲しみか、それとも後悔か。おそらく、その全てが混ざり合った、名前のない感情だった。

「今すぐミレイユを助けに行こうって皆に言ったわ! でも、団長は危険すぎる、今はまだ待て、と。作戦を立てるってね」

 歩きながらセラフィーヌは過去を語る。一歩進むごとに記憶の棘が心臓を貫いていく。

「私は待てなかった。妹が……あの化け物たちの手で何をされるか想像するだけで気が狂いそうだった」

 ユリウスが何か言いかけたが、レオンが手で制した。今は聞くべき時だと、その仕草が語っていた。

「単独で救出に向かった。仲間の制止を振り切って。そして――」

 言葉が途切れる。喉に、見えない手が巻き付いているかのように、声が出ない。

 風が三人の間を通り抜けていく。その風はどこか血の匂いを含んでいるような気がした。

「遅かった。ミレイユはもう、ミレイユじゃなかった」

 セラフィーヌの瞳から一粒の涙が零れ落ちる。それは夜明けの雫のように透明で、そして星の欠片よりも重かった。

「獣の魂が妹の体を蝕んでいた。人の形をした、獣。獣の心を持った、妹」

 左手が腰の銃を撫でる。その金属の冷たさが現実に引き戻してくれる唯一の錨。しかし、口は堰を切った川のように止めることができなかった。

「助けに来た灰翔の仲間をミレイユが――いやミレイユ『だったもの』が殺した」

 セラフィーヌの声は、もはや囁きに近かった。風に攫われて消えてしまいそうなほど儚い。

「そして私は――」

 銃声が記憶の中で響く。何度も、何度も、永遠に響き続ける。

「撃ったのよ、妹を。この手で」

 沈黙が世界を包み込む。鳥の声も、風の音も、全てが止まったかのような静寂。

「それは裏切りじゃない」

 レオンの声が静寂を破った。それは断罪でも、慰めでもない。同じ傷を抱える者へ差し出す痛いほどの優しさ。

「セラは選んだんだ」

 レオンは一度言葉を切り、深く息を吸った。その呼吸に彼自身が抱える重みが滲む。肩が微かに震え、そして静かに下ろされる。

「この世で最も残酷で、最も優しい選択だ」

 彼の指先が無意識に剣の柄に触れ、すぐに離れた。まるで、自分もいつか同じ選択を迫られるかもしれない恐れと、その覚悟が指先に伝わっているようだった。

「でも、灰翔の仲間は私を許さなかった。当然よ。命令違反で仲間を死なせた。それが事実」

 苦い笑みが、再び唇に浮かぶ。

「つむじ風。仲間を裏切り、独りで彷徨う者。それが今の私」

 足を止めたユリウスが、初めて振り返った。彼の表情からは皮肉で固めた仮面が剥がれ落ち、藍色の瞳に映るのは、もはや「つむじ風」への軽蔑ではなかった。そこには理解したくないものを理解してしまった者の苦い諦め、そして自分も同じ立場だったらと想像してしまう恐怖が複雑に絡み合っていた。

「だから、灰の修道会を追うのか」

「復讐? それとも贖罪? 自分でも分からないわ」

 セラフィーヌは肩をすくめる。その仕草は諦めと抗いが混ざり合った奇妙な優雅さがあった。

「ただ、奴らを放っておけない。それだけ」

 

 道は続いている。東の村までまだ距離がある。だが、三人の間の距離は少しだけ縮まったような気がした。

 セラフィーヌは、ふと空を見上げた。雲が流れている。それは時の流れのように止めることのできないものだった。

「ミレイユはよく言っていたわ」

 独り言のように、セラフィーヌは呟く。

「お姉ちゃんは強いから、いつか一人になっちゃうって。だから、私がずっと一緒にいるよって」

 風が赤茶の長い髪を揺らす。それは見えない誰かの手が優しく撫でているかのようだった。

「約束、守れなかったなぁ」

 その言葉は風に攫われて、どこか遠くへ消えていった。

 レオンとユリウスは何も言わなかった。ただ、歩調を少しだけ緩めてセラフィーヌが追いつくのを待った。

 

 三つの影が道に長く伸びている。それぞれ別の方向を向いていた影が、少しずつ同じ方向へと向き始めていた。

 東の村が遠くに見え始めた。煙が上がっている。それが炊事の煙なのか、それとも別の何かなのか、まだ分からない。

 ただ確かなことは、三人の風紡ぎが同じ風に導かれて、同じ道を歩いているということだけだった。


 セラフィーヌの心の中で凍りついていた何かが微かに震え始めた。それは希望なのか、恐れなのか。あるいは、もう一度何かを信じることへの躊躇いがちな鼓動なのかもしれない。

 陽が高くなり始めた。影が短くなっていく。過去の長い影も、少しずつ現在の光に溶けていくかのように。

 だが、セラフィーヌは知っている。影は消えない。ただ形を変えるだけだ。そして時に、その影こそが進むべき道を教えてくれることもあるのだと。


 風が三人の背中を押すように吹いた。

 それは新しい物語への静かな序曲だった。

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