3.つむじ風
夜明け前の静寂が街を包む頃、酒場「銀狼の牙」の片隅で、一人の女が硝煙の匂いを纏いながら冷えた麦酒を傾ける。
赤茶の長髪が薄暗い室内の灯りを受け、まるで燃え尽きかけた炎のような色となった。横にまとめられたその髪は、時折、彼女の動きに合わせて生き物のように揺れる。青緑色の瞳は深い湖の底を思わせる冷たさを湛えながらもそれでいてどこか嵐の海のような激しさを秘めていた。
セラフィーヌ――風紡ぎたちの間では、もはや「つむじ風」と呼ばれる女だった。
彼女の指先が無意識に腰の銃を撫でる。冷たい金属の感触が掌に馴染むのだ。彼女にとって銃は人間よりも確実な相棒だった。引き金を引く重み。弾丸が空気を切り裂く音。そして、標的に命中する瞬間の微かな振動。その全てが彼女の記憶に刻まれている。
誰と話す訳でもなく残りの酒をあおろうとすると扉が開き、朝の冷たい空気が流れ込んできた。どこぞの放蕩息子と飼い犬が森での一件を酒場の主人に報告しているようだった。
セラフィーヌは僅かに目を細めた。
あの二人は最近噂になっている風紡ぎだ。仲の良い相棒同士。信頼し合う仲間――かつての自分にもあった、そして失ってしまった存在。
胸の奥で古い傷が疼き、妹の顔が脳裏を掠める。左耳の耳飾りが微かに震えた気がした。妹が誕生日に贈ってくれた、小さな銀の雫。今も彼女を縛り付ける、甘く苦い杭。
「昨日の森で妙な人形を見つけたんですよ」
レオンは席に着くなり主人に話し掛けた。
「人形?」
酒場の主人が訝しげに聞き返す。
「藁で作られていて、なんだか呪術が絡んでそうで……」
リオンに続き、ユリウスが懐から人形を取り出す。セラフィーヌが横目に見た先には黒く焦げた藁人形。胸に開いた小さな穴。そして――
途端にセラフィーヌの表情が凍りついた。
あの形、あの焦げ跡。かつて仲間といた頃に見たことがある。いや、正確には妹が「器」にされる直前に見た、あの忌まわしい術式の痕跡と同じだった。
がたりと立ち上がる大きな音が静かな酒場に響く。
革のブーツが床を踏む音。ジャケットが風を切る音。彼女の声が冷たく、そして鋭く切り込む。
「その人形、見せてもらえる?」
レオンとユリウスが振り返った。二人の視線が、セラフィーヌを捉える。
「あんたは――」
セラフィーヌの噂を知ってか、はたまた、魔術師の直感が目の前の女の危険性を感じ取ったのか、ユリウスは即座に構えた。無理もない反応である。
「セラフィーヌ。ただの『つむじ風』よ」
自嘲的な笑みがセラフィーヌの唇に浮かぶ。
つむじ風――仲間を裏切り、独りで彷徨う者。その烙印を敢えて自ら口にした。
「つむじ風が何の用だ」
ユリウスの声に、明らかに声色は拒絶をしている。
一方、レオンは違った。じっとセラフィーヌを見つめている。その眼差しには警戒よりもむしろ興味、そして僅かな共感を滲ませた。
「その人形に見覚えがあるんです?」
レオンの問いかけにセラフィーヌは言葉を詰まらせた。
見覚えがある? いや、それ以上だ。この人形はセラフィーヌの人生を狂わせた、あの夜の記憶そのものだった。
「……ある」
短く答える。それ以上は言えない。言いたくない。
沈黙が三人の間に流れる。薄暗かった室内が少しずつ明るさを蓄えて行く。
「灰の修道会を知っているのか」
ユリウスの問いが、静寂を破った。
灰の修道会。セラフィーヌの全身が怒りに震える。
「知っている。奴らは――」
寸でのところでセラフィーヌは口を噤む。
奴らは妹を奪った。仲間を殺した。そして自分をこの孤独な道へと追いやった。だが、全てを語る資格が裏切り者の自分にあるだろうか。
「……奴らは人を『器』にする」
絞り出すように言葉を紡ぐ。
「器?」
レオンが聞き返すとセラフィーヌは言葉を選びながらゆっくりと話し始めふ。
「魂を別の肉体に移し替える。……例えば、獣の魂を人の体に。人の魂を、獣の体に。そうやって、化け物を作り出す」
セラフィーヌは必死に感情を押し殺していた。だが、隠し切れない程の激しい怒りの炎が燃えているレオンは感じた。
「何故――」
「信じるも信じないも好きにして頂戴」
吐き捨てるように言うと、セラフィーヌは人形に手を伸ばした。
指先が藁に触れた瞬間、記憶が蘇る。
仲間たちが制止する喚声と妹「だったモノ」の悲鳴。そして自分が放った一発の銃声。妹とは認めたくないモノを撃ち抜いた光景。引き金を引いた指の永遠に消えない感触。
「この人形は忌々しい術具。魂を抜き取るための媒介」
「昨日の盗賊たちも――」
「おそらくね」
レオンの言葉を遮って、セラフィーヌは人形を机に置いた。
「で、あんたたちはこれからどうする?」
挑発的な視線を、二人に向ける。
「灰の修道会を追うつもり? それとも、見なかったことにして平和な冒険者ごっこを続ける?」
「それは――」
レオンが言いかけた時、新たな依頼人が酒場に入ってきた。
商人風の男だった。顔は青ざめ、額には汗が浮いている。明らかに怯えている様子だった。
「頼む、誰か助けてくれ!」
男の叫びが酒場に響く。
「東の村で獣が暴れているんだ! いや、獣じゃない……獣のような何かが人を襲っているんだ!」
セラフィーヌの瞳が、鋭く光った。
獣のような何か。それはまさに追い求めている忌まわしき新たな爪痕。
「僕たちが行こう」
レオンが立ち上がった。
「だが坊ちゃん――」
「ユリ、放っておけないだろう」
レオンの正義感の強さに、セラフィーヌは内心で舌打ちした。甘い。甘すぎる。この世界はそんな綺麗事では回っちゃくれない。だが同時に酷く羨ましくも思えた。世の中は善か悪の二種類で、そして自分は仲間と共に正義であろうとした頃を思い出した。
「私も行く」
気がつけば、言葉が口を突いて出ていた。
レオンとユリウスが驚いたように振り返る。
「つむじ風が何故――」
「金よ」
ユリウスの問いを冷たく切り捨てる。
「依頼料の山分け。経験者の知恵があれば片付けるのも楽になるはずよ。悪くない話でしょう?」
嘘だった。金など、どうでもよかった。ただ、灰の修道会の影を感じた以上、放っておけなかった。そして、もしかしたら――
もしかしたら。
この二人となら。
もう一度、何かを信じられるかもしれない。
そんな甘い期待をセラフィーヌは即座に心の奥底に封じ込めた。今のセラフィーヌにとって信じることは、裏切られることと同義だ。自身の立場くらい痛いほど知っている。
「勝手にしろ」
ユリウスが不機嫌そうに言った。
だが、レオンは違った。微かに笑みを浮かべて、セラフィーヌに手を差し伸べた。
「よろしく、セラフィーヌ」
その手をセラフィーヌは取らなかった。
代わりに、腰の銃を軽く叩いて、皮肉な笑みを浮かべた。
「セラでいい。足手まといにはならないわ。次期領主様」
レオンの表情が一瞬だけ凍りつく。
そして、セラフィーヌはその反応を見逃さなかった。やはり、この青年には何か秘密がある。それを暴くのは今ではない。
三人は酒場を後にすると、街はすでに活気に満ちていた。しかし、セラフィーヌの心は、まだ夜明け前の闇の中を彷徨っている。
東の村へと続く道を歩きながら、セラフィーヌは思った。を失った時と同じ風がまた吹き始めている、と。それが吉と出るか凶と出るか、まだ誰にも分からない。ただ確かなことは、孤独な旅がここで一つの転換点を迎えたということだけだった。
街はすでに朝のざわめきに包まれていたが、セラフィーヌの胸にはまだ夜明け前の闇が沈殿していた。
かつて全てを失った時と同じ風が、いま再び頬を撫でている。その風が彼女を導くのか、あるいは再び奈落へ突き落とすのか、誰にも分からない。
石畳は三人の足音を淡く吸い込み、濡れた道に小さな波紋を広げては静けさへと溶けていった。影と影が交わり、離れ、また寄り添う。その揺らぎの先には、まだ名もない物語がひそやかに芽吹いていた。