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灰に眠る光  作者: 東達
魂を縛る鎖
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20.祈りの限界

 箱庭の町を離れ、一行は深い森の中にある古い巡礼路に辿り着いた。かつては聖地へ向かう者たちが歩いた道も、今は落ち葉に埋もれ、所々に倒木が横たわっている。夕陽が木々の間から斜めに差し込み、黄金の槍のように地面を貫いていた。その光の筋の中を、無数の虫たちが舞い踊り、まるで小さな星々が降りてきたかのようだった。


 ノエルは立ち止まり、道端に朽ちかけた石の祠を見つめていた。苔むした表面には古い聖句が刻まれている。文字は風化して読めないが、指でなぞると、かつてここで祈りを捧げた人々の想いが石の冷たさの中に残っているような気がした。

「ノエル、どうしたの?」

 レオンが振り返った。

「いえ、少し休憩を」

 ノエルは力なく微笑んだ。しかし、その笑みは仮面のように薄く、今にも剥がれ落ちそうだった。

 セラフィーヌが黙って水筒を差し出すと、ノエルは控え目の笑みと共に受けとった。ノエルが水を飲む様子を見ながら、セラフィーヌは箱庭での出来事以来の彼の様子に思いを巡らせた。祈りの言葉は相変わらず紡がれているが、それは習慣の惰性のようで、かつての熱はない。

「そろそろ補給が出来そうだな」

 ユリウスが地図を確認した。古い羊皮紙は、湿気を吸って波打っている。

「日が暮れる前に着きたいところだが……」

 森は次第に深くなっていく。頭上を覆う枝葉は幾重にも重なり、昼なお暗い回廊を作り出していた。足元の落ち葉は踏むたびに湿った音を立て、腐葉土の匂いが立ち昇る。それは生と死が混じり合った、森特有の香りだった。


 突然、前方から子供の泣き声が聞こえてきた。


 四人は顔を見合わせ、足を速めた。声のする方へ進むと、小さな空き地に出た。そこには一人の少年が倒れた老人に寄り添って泣いていた。

「おじいちゃん、起きて!」

 少年は必死に老人を揺すっている。老人の顔は土気色で、呼吸は浅い。明らかに危篤状態なのが手に取って分かる。

 ノエルは反射的に駆け寄り、膝をついた。聖印を掲げ、祈りの言葉を紡ぎ始める。しかし、いつもなら感じる神聖な力の流れが、今日は途切れ途切れで、まるで千切れた糸のようだった。

「どうしたの?」

 セラフィーヌが少年に優しく尋ねた。

「お、おじいちゃんが、急に倒れて」

 少年は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら答えた。

「薬草を探しに森に来たんだ。でも、急に……」

 ノエルは老人の手首を握り、脈を取る。

「脈が……いや、治癒の祈りさえと届けば――」

 ノエルは老人の手を握り必死に祈った。その額には汗が浮かび、手が震える。この程度の衰弱であれば、治癒の祈りによって一時的な回復は出来るはずなのだ。しかし、どんなに祈っても神の恩寵は降りてこない。まるで、天が扉を閉ざしたかのようだった。

「何故ですか」

 ノエルの呟きは、掠れていた。

 握っていた老人の手が、力なくこぼれ落ちる。

「何故、力が……」

 その時、老人が薄く目を開けた。霞んだ瞳が、ノエルの聖印を見つめる。

「……神父様」

 老人の声は枯れ葉が地面に落ちる音よりも儚く、今にも風に攫われてしまいそうだった。土気色の唇が震え、言葉を紡ぐたびに命の炎が少しずつ小さくなっていく。

「もう、いいのです……私の時は、来ました」

 その諦観は、長い人生を歩んできた者だけが持つ、静かな受容だった。死を恐れるのではなく、古い友人を迎えるような穏やかさ。しかし、それがかえってノエルの心を激しく揺さぶった。

「そんなことを言わないでください!」

 ノエルは老人の手を両手で包み込んだ。皺の刻まれた手は冷たく、その冷たさは死の使者の足音のように、ノエルの全身を駆け巡る。指先から伝わってくる微かな脈動は、まるで遠い太鼓の音のように頼りなく、今にも途切れてしまいそうだった。

「まだ、まだ助かります。私が――」

 言葉が喉の奥で凍りついた。いつもなら自然に湧き上がってくる祈りの言葉が、干上がった井戸のように、どこからも汲み上げることができない。

 頭の中で、マルケシアの声が毒蜜のように甘く、そして残酷に響き渡る。


『神に見捨てられた聖職者ほど、美しい玩具はない』


 その声は、ノエルの信仰の土台に深い亀裂を走らせていた。手が震え始める。それは寒さのためではない。自分の中で、何か大切なものが音を立てて崩れていく恐怖。

 聖印が指の間から滑り落ちた。

 金属が地面の石に当たる音が、まるで教会の鐘が最後の時を告げるように、森の静寂を破って響いた。その音は、ノエルの心の中で何度も反響し、信仰の終焉を告げる葬送の調べとなって鳴り続ける。

「ノエル!」

 レオンがノエルの両肩を掴んだ。その手の温もりが、凍りついたノエルの意識を現実に引き戻す。

「しっかりするんだ!」

「……私には、できない」

 ノエルの声は古い糸が切れる時のような、乾いた絶望の音を立てた。

「祈っても、何も起きない」

 額には冷や汗が浮かべながら青白い唇で言葉を続ける。

「神は……本当にいるのでしょうか……」

 その問いかけは、聖職者としての自分の存在そのものを否定する、魂の慟哭だった。


 少年が祖父の顔を覗き込み、小さな手で必死に頬を撫でている。涙と鼻水で顔中がぐしゃぐしゃになりながら、震え声で問いかける。

「おじいちゃん、死んじゃうの? やだよ、死なないで……」

 その純粋な悲しみが鋭い刃となって四人の心を切り裂いた。


「……レオン、あそこに生えている苔!」

 セラフィーヌは倒木の陰を指差した。

「あれを少し剥がして。それから、ユリウス、あなたの水筒の水を温めて」

「何をする気だ?」

「傭兵の知恵ってやつよ! いいから早く!」

 セラフィーヌはテキパキと動き、苔を細かくちぎって温めた水に浸す。それを清潔な布に染み込ませ、老人の胸に当てる。同時に、老人の手足を血の巡りを少しでも良くするために優しくさする。

「坊や」

 セラフィーヌは少年に向き直った。

「おじいちゃんに話しかけて。君が大好きな話でも、なんてことない話でも。とにかく声を聞かせてあげて」

 少年は涙を拭いながら、震える声で語り始めた。

「おじいちゃん、昨日見た夢の話するね。大きな鳥が来て、一緒に空を飛んだんだ――」

 その幼い声が、老人の意識を繋ぎ止める糸となる。レオンは老人の上体を少し起こし、呼吸を楽にした。ユリウスは自分の上着を脱いで老人の体を温める。


 ノエルはただ、その光景を見つめていた。神の奇跡ではない。人の知恵と、思いやりと、諦めない心が、今、老人を死の淵から引き戻そうとしている。聖職者である自分だけが、何もできずにいる。


 やがて、老人の顔に僅かな血の気が戻ってきた。呼吸も、少しだけ深くなる。完全な回復ではない。しかし、村まで運べる程度には、持ち直したようだった。

 老人が薄く目を開け、震える手で少年の頭を撫でた。

「いい子だ……。皆様方ありがとうございます……」

 そして、ノエルを見つめた。その眼差しには、責めることも失望の色も浮べることなく言葉を続けた。

「それに神父様……あなたがいてくれて本当によかった」

 ノエルは言葉を失った。自分は何もしていない。祈ることさえできなかった。なのに、老人は感謝している。

 それは、ノエルにとって、新たな問いかけとなった。信仰とは何か。救いとは何か。そして、自分は何者なのか。


 地面に落ちた聖印が、夕陽を受けて鈍く光っている。それを拾い上げるには、まだ少し、時間が必要だった。


 神が沈黙していても、人は歩き続ける。それが、生きるということなのかもしれない。

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