19.マルケシアの箱庭
山間の道は、幾世代もの旅人たちが踏みしめた記憶してにるかのように、優しく、そして厳しく四人を導いていた。
セラフィーヌは護符に触れた。空の雫の押し花は、朝の冷気の中でも不思議な温もりを保っている。それはミレイユとリリィが残してくれた、目に見えない絆の証。生と死の境界を超えて繋がる、魂の架け橋だった。
山肌を縫う細い川の音が、古い子守唄のように響いている。その水面に映る空は、真珠貝の内側のような光沢を帯びていた。ノエルはその空を見上げ、深い溜息をついた。
「神は本当にこの世を見てくださっているのでしょうか」
その呟きは、風に溶けて消えた。レオンが振り返る。
「ノエル?」
「いえ、何でもありません」
しかし、ノエルの手は震えていた。聖印を握る指に、疑いという名の毒が染み込んでいく。かつては温かかった信仰の光が、今は氷のように冷たい。
「この先に、古い宿場町があるようだ」
ユリウスが地図を確認しながら言った。羊皮紙の古い匂いが、山の湿った空気と混じり合う。
「人の気配は、あるようだが……」
彼の杖が感じ取る魔力は、奇妙な規則性を持って脈動していた。
山道が大きく曲がり、眼下に集落が見えた瞬間、全員が息を呑んだ。
一見すると、そこは絵画のように美しい町だった。白いレンガで作られた家々が綺麗に整列し、広場の噴水は澄んだ水を湛えている。しかし、その完璧さこそ、まるで誰かが理想の町を描き、現実に押し付けたかのような不自然極まりない町だった。
「これは――」
セラフィーヌの声が震えた。町から漂ってくる甘い香り。それは百合と薔薇を混ぜたような芳香だったが、その奥に潜む金属的な苦味が、本能的な警戒心を呼び起こす。
町への石段を下りていくと、水汲み場で一人の女が佇んでいた。
農婦の装いをしているが、その所作には舞踊のような優雅さがある。振り返った女の顔を見て、セラフィーヌは凍りついた。瞳は開いているのに、何も映していない。まるで、魂の抜け殻に別の何かが宿っているような。
「旅のお方」
女の声は、楽器のように正確な音程を保っていた。
「ようこそ、マルケシア様の箱庭へ」
箱庭。その言葉が持つ意味を理解した瞬間、ユリウスの顔が青ざめた。
「まさか、ここは実験場なんじゃ――」
「いいえ」
女は微笑んだ。しかし、その笑みは顔の表面だけで、目の奥には深い井戸のような虚無が広がっている。
「ここは楽園です。永遠に美しい、完璧な世界」
女に案内されて町を歩く。すれ違う人々は皆、同じような虚ろな目をしていた。しかし時折、その瞳の奥で何かが必死にもがいているように感じる者もいた。それは、閉じ込められた本来の魂の声なき叫びなのか――その答えを四人は後回しにして、今は女の後を着いていくことにした。
四人は町の中央にある大きな屋敷に案内され、広々とした応接間に通された。どこからかハープの音が聞こえてきては同じ旋律を機械のように繰り返している。その単調な響きが、かえって狂気を感じさせる。
そして、扉が開いた。
現れたのは白磁のような肌を持つ美しい男だった。金髪は絹糸のように輝き、身に纏う衣服は襟の大きなコートから僅かに顔を覗かせるシャツに至るまで、どれもが全て高級品であることが遠目に見ても分かった。しかし、その優雅な外見とは裏腹に、瞳には残酷な愉悦が宿っていた。
「ようこそ、我が箱庭へ」
男――マルケシアは恭しく一礼した。その動作は完璧に計算されており、まるで演技をしているかのようだった。
「おや、君が噂の聖職者だね」
彼の視線が、ノエルに固定された。その目は、珍しい蝶を見つけた収集家のように輝いている。
「なんと美しい! その苦悩に満ちた魂! 信仰を疑い始めた聖職者ほど、壊し甲斐のある玩具はない」
「……黙りなさい」
ノエルの声は震えていたが、それは恐怖ではなく、怒りだった。
「人の魂を玩具と呼ぶなんて――」
「ああ、その怒りも素晴らしい」
マルケシアは恍惚とした表情を浮かべた。
「正義感と疑念の間で揺れる魂。神を信じたいのに信じられない。救いたいのに救えない。その矛盾こそが、芸術の極致だ」
マルケシアが指を鳴らすと、町の人々が次々と応接間に入ってきた。全員が同じ歩調、同じ表情。まるで一つの意志に操られる糸人形のように。
「見たまえ、ノエルくん」
マルケシアはノエルをまるで恋人を呼ぶように甘く誘う。
「これが私の創った楽園だ。苦しみも、悩みも、疑いもない。完璧な世界」
「これが楽園だって?」
レオンが剣の柄に手をかけた。
「人々から意志を奪っておきながら――」
「私はノエルくんに話しているんだが……行儀の悪いお方だな」
マルケシアは嘲笑した。
「意思なんてものがあるから、人は苦しむ。選択するから、後悔する。私は彼らを解放したのだよ」
町の人々が、一斉に口を開いた。
「我々は幸せです」
百の口から、同じ声が響く。それは一つの魂が、百の体を使って語っているようだった。
「でも、それは本当の幸せじゃないわ」
セラフィーヌが前に出た。護符を握りしめ、マルケシアを睨みつける。
「押し付けられた幸せに、何の価値があるの」
「おや、口を挟むとはお転婆なお嬢さんだ」
マルケシアは肩をすくめた。
「では、聞こう。苦しみながら生きることに、どんな価値がある? ねえ、ノエルくん」
再びノエルに視線を向ける。その目は、獲物を追い詰める蛇のように冷たい。
「君は祈り続けてきた。でも、救えなかった人々がいる。マリアという少女もその一人だったね」
ノエルの顔から血の気が引いた。
「なぜ、その名を」
「君のことなら何でも知っている。苦悩も、後悔も、隠してるつもりの欲望も、すべて」
マルケシアは一歩、ノエルに近づいた。
「君の魂は罪悪感で千々に引き裂かれている。美しい。実に美しい!」
「やめなさい……」
ユリウスが聖印を向けたが、マルケシアは意に介さない。
「ノエルくん、君も私の箱庭の住人になれば、その苦しみから解放される。永遠に美しいまま」
その時、一人の女性が前に出た。水汲みをしていた女だった。表情は微笑んだままだが、その目から一筋の涙が流れた。
「見たまえ」
マルケシアが女性の頬に手を添えた。まるで、芸術品を愛でるように。
「肉体は私のもの。でも、元の魂はまだここにある。押し込められて、叫んでいる。この二重性こそが、私の求める美」
女性の口が、震えながら開いた。
「た……すけ……て」
それは、閉じ込められた魂の必死の叫びだった。
「素晴らしい」
マルケシアは恍惚とした表情を浮かべた。
「苦痛と恍惚が共存する、究極の芸術」
その瞬間、セラフィーヌの護符が光を放った。
淡い青い光が、部屋を満たす。それは空の雫が持つ、純粋な生命の輝きだった。光に触れた人々の動きが止まり、虚ろだった目に、一瞬だけ本来の光が戻る。
「まさか」
マルケシアの優雅な仮面に、初めて亀裂が入った。
「魂の共鳴だと? 何故そんなものを――」
突然のことに驚きながらも、セラフィーヌは護符を高く掲げた。
「これは、愛する者たちが残してくれた希望。あなたには分からないでしょうけど」
人々の中から、小さな声が漏れ始めた。本来の魂たちが、光に応えようとしている。
「おもしろい」
マルケシアは後退しながら、なお笑みを浮かべていた。
「特にノエルくん。君の揺れる魂は必ず手に入れる。神に見捨てられた聖職者ほど美しい玩具はない」
「私は見捨てられてなどいません!」
ノエルの声は、震えながらも力強く叫ぶ。
「たとえ神が沈黙していても、私は信じ続けましょう。人の魂の尊さを!」
「ああ、その健気さだよ……堪らない」
マルケシアの体が煙のように揺らぎ始めた。
「次に会う時を楽しみにしているよ。特に君とはね、ノエル」
消える直前、彼は意味深な言葉を残した。
「君の信仰が完全に砕けた時、最高の作品ができるだろう」
マルケシアが消えた後、人々は再び人形のような日常に戻っていった。しかし、その目の奥には護符の光が呼び起こした小さな希望の火が燻り始めていた。
「……みんな、行こう」
レオンの言葉に、全員が頷いた。しかし、ノエルの足取りは重い。マルケシアの言葉が、毒のように心に染み込んでいく。
町を出る時、セラフィーヌはノエルの肩に手を置き、言った。
「ノエル、あいつの言葉に惑わされないで」
「分かっています。でも……」
ノエルの声は枯れ葉のように乾いていた。
「もし、本当に神が私たちを見捨てていたら――」
「それでも」
セラフィーヌは護符を見せた。
「私たちには互いを信じる心がある。それで十分じゃない?」
山道を登りながら、風が四人の頬を撫でた。それは冷たい風だったが、どこか清らかさを含んでいる。箱庭に閉じ込められた魂たちが、かすかな感謝を送ってきたかのように。
ノエルは聖印を握りしめた。マルケシアの言葉は、確かに彼の信仰を揺さぶったが、それでも前に進まなければならない。たとえ神が沈黙していても、救いを求める人々がいる限り。
夕暮れの光が、山の稜線を赤く染め始めた。
それは血の色でもあり、希望の色でもあった。




