17.妹の面影
朝靄が谷間に立ち込め、世界の輪郭を曖昧にしていた。古い石橋へと続く街道は、まるで過去と現在を繋ぐ回廊のように、薄墨色の霧の中へと消えていく。橋の下を流れる川は秋の長雨で水嵩を増し、茶色く濁った水が岩肌を削りながら流れていた。その音は、大地が刻む太古の記憶を呼び覚ますような、深く重い響きを持っていた。
セラフィーヌは足を止め、その音に耳を傾けた。水の匂いに混じって流れてくる土と腐葉土の香りが、彼女の記憶の扉を静かに叩く。かつて、ミレイユと共に渡った小川の記憶。あの時、妹は裸足で水に入り、冷たさに悲鳴をあげながらも笑っていた。
「この辺りは、灰の修道会の影響が強いな」
ユリウスが地図を畳みながら呟いた。街道沿いの木々に結ばれた黒い布が、風に揺れている。
「ノエル、何が感じる?」
レオンの問いかけに、ノエルは首を振った。
「いえ、ただ……空気が重い、としか。まるで、何かが息を潜めているような……」
谷底へと下っていくと、斜面に寄り添うように建つ村が見えてきた。石造りの家々は古く、壁面には蔦が這い、屋根瓦の隙間から雑草が顔を覗かせている。時の流れから取り残されたような、静謐な佇まいだった。しかし、煙突から立ち昇る白い煙は、確かに人々がここで暮らしていることを物語っていた。
村の入り口の石段に、一人の少女が座っていた。
その瞬間、セラフィーヌの世界が止まった。
栗色の髪を二つに結び、膝を抱えて座るその姿。朝の光を受けて輝く髪の色、華奢な肩の線、そして何より、その座り方――すべてが、記憶の中の妹と完璧に重なって見えた。
「この村の子か?」
ユリウスの声が、凍りついた時間を動かした。
少女が顔を上げる。その年端もいかない顔は青白く、浅く不規則な呼吸を繰り返し、時折咳に襲われていた。明らかに病を抱えている。しかし、その青い瞳には、不思議な二重の光が宿っていた。水面に映る月と、水底に沈む別の月を同時に見ているような、奇妙な深さがそこにあった。
「はい、お兄さんたちは旅の方ですか?」
か細い声だった。立ち上がろうとして、よろめく。膝が震え、今にも崩れ落ちそうだった。
レオンが素早く駆け寄り、少女を支えた。
「大丈夫? 具合が悪そうだよ?」
「えへへ……慣れていますから」
少女は力なく微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、セラフィーヌは心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。唇の端の上がり方、目を細める角度、すべてがミレイユの最期の笑顔と同じだった。
「私、リリィといいます。母が宿屋をやっているので、ご案内しますよ!」
リリィ。その名前を聞いて、セラフィーヌの中で何かが軋んだ。違う名前。当然だ。ミレイユは、もうこの世にいないのだから。しかし、その声の奥に、確かに聞き覚えのある響きが潜んでいた。
セラフィーヌの視線を感じたのか、リリィは小さな籠を見せた。中には青い花が丁寧に並べられている。
「これ、村では『空の雫』って呼んでます。朝露が花びらに宿ると、まるで空から零れた雫みたいに光るから」
空の雫。その名前を聞いて、セラフィーヌの胸が締め付けられた。ミレイユなら、きっとそんな風に名付けただろう。美しいものに、優しい名前をつけるのが好きだった妹。
「素敵な名前ですね」
ノエルが優しく微笑んだ。
「名前に因んだお話でもあるのですか?」
リリィの顔が少し明るくなった。
「はい! この花には言い伝えがあるんです。昔、天に昇った女の子が地上の家族を想って流した涙が、この花になったって。地上の幸せを……家族の幸せを祈って流した涙だから、幸せを呼ぶ花ともいわれてるんですよ!」
その物語を聞いて、セラフィーヌはふらりと身体が大きく傾いた。足が地面につく感触さえ、現実のものとは思えなかった。
宿屋「青雫亭」への道すがら、リリィは時折立ち止まって呼吸を整えた。その度に、レオンかユリウスが彼女を支える。セラフィーヌは、ただ黙って後ろからついていくことしかできなかった。目の前の少女から、目が離せなかったのだ。
宿の扉を開けると、薬草と蜂蜜の匂いが漂ってきた。古い木造の建物は、長い年月を経て飴色に変わり、床板は歩くたびに優しい音を立てる。
奥から女将が現れた。リリィと同じ青い瞳だが、その奥には深い疲労と、何か重い秘密を抱えた影があった。セラフィーヌを見た瞬間、女将の表情が微かに変わった。まるで、記憶の糸が引っかかったような、そんな表情だった。
「リリィ、また外に出ていたのね」
叱責ではなく、諦めに近い心配の声だった。
「ごめんなさい、お母さん。でも、お客様をお連れしたよ」
リリィは誇らしげに言った。女将は娘の額に手を当て、熱を確認する。リリィの体調が変わり無かったことが分かると、改めてレオンたちに向き直った。
「お待たせして申し訳ございません。すぐにお部屋をご用意いたしますので、少しお待ちください」
食堂で茶を待つ間、セラフィーヌは女将の視線を肌で感じていた。給仕の手を止めることなく、女将は器用に角度を変えながら、こちらを窺っている。その視線が頬を撫で、髪筋を辿り、そして耳元で止まる。無意識に髪を耳にかける自分の仕草さえ、じっと見つめられているのが分かった。
左耳の青い石が、まるで女将の視線に応えるように微かな重さを増していく。この耳飾りは、ただの装飾品ではない。ミレイユとの絆の証。
そして今、女将の中で何かが繋がろうとしている。茶碗を置く音、足音、衣擦れの音——すべての動作の合間に、女将の息遣いが変化していくのをセラフィーヌは感じ取っていた。まるで、長い間探していた何かを、ついに見つけたかのような。あるいは、恐れていた真実が、目の前に現れたかのような。
女将の瞳に宿る複雑な感情が、空気を通じて伝わってくる。それは、セラフィーヌ自身の記憶の底に眠る、説明のつかない既視感と響き合っていた。
リリィが震える手で茶を運んできた。薬草茶の苦い香りに、蜂蜜の甘さが優しく混じっている。
「温まりますよ」
リリィがカップを置く。その手つき、困った時に見せる表情、首を傾げる角度――すべてが、ミレイユそのものだった。
「お姉さん、どうかしましたか? 顔色が――」
リリィの心配そうな声に、セラフィーヌは我に返った。
「いえ、少し疲れているだけよ」
しかし、手は震えていた。カップを持つことさえできない。
「セラ、どうしたの?」
レオンが小声で尋ねた。彼の灰青色の瞳には、深い心配が宿っている。
「なんでもないわ」
嘘だった。目の前の少女を見ているだけで、心臓が張り裂けそうだった。
窓から差し込んでいた昼の光が、いつしか西に傾き始めていた。食堂の木目のテーブルに、斜めに伸びる影が刻まれていく。時間の経過とともに、その影は少しずつ角度を変え、やがて部屋全体を琥珀色に染め始める。
リリィが小さく咳をした。その音に、セラフィーヌははっと我に返る。少女の青白い顔に、疲労の色が濃くなっていた。昼過ぎから続いた給仕と会話が、病弱な体には負担だったのだろう。
「リリィ、もう休みなさい」
女将が娘に優しく声をかける。
「でも、お客様が」
リリィは名残惜しそうにセラフィーヌを見つめた。その瞳の奥で、また何かが揺れた。説明のつかない懐かしさ、まだ言葉にならない想い。
「大丈夫ですよ。また後で会いましょう」
ノエルが優しく微笑んだ。リリィは小さく頷き、ゆっくりと立ち上がる。その足取りは、朝よりも更に頼りなかった。階段を上る音が、少しずつ遠ざかっていく。一段、また一段。その音を数えながら、セラフィーヌは息を潜めていた。
やがて、上階で扉が閉まる音がした。
食堂に残された四人と女将。窓の外では夕暮れの気配が濃くなっていく。山の端に太陽が近づき、空が薄紫からオレンジへと移ろい始めた。その光の変化が、女将の顔に複雑な陰影を作り出す。
長い沈黙があった。
女将は何度か口を開きかけ、そのたびに言葉を飲み込んだ。テーブルを拭く手が止まり、エプロンの端を無意識に握りしめる。その仕草の一つ一つが、重大な決意へと向かっていることを物語っていた。
夕陽が、セラフィーヌの耳飾りを照らし出す。青い石が、血のような赤い光を反射し、また青に戻る。その光の明滅を、女将はじっと見つめていた。まるで、その光の中に、探していた答えを見つけたかのように。
ついに、女将が深く息を吸った。覚悟を決めた者だけが見せる、静かな決意の表情で。
「お客様、失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「セラフィーヌですが――」
その名前を聞いた瞬間、女将の手から盆が滑り落ちた。皿が床に落ちて砕ける音が、静寂を破った。破片が床に散らばり、その音が長く響いた。
「やはり、あなたが……セラフィーヌ様」
女将の声は震えていた。
「どうして私の名前を」
セラフィーヌが立ち上がった。ユリウスも杖を握り、警戒の色を見せる。
女将は震える手でエプロンを握りしめ、深く息を吸った。
「リリィのことでお話があります。どうか、ついてきてください」
四人は顔を見合わせた。そして、女将の後について上階の部屋へ向かった。
部屋ではリリィが苦しそうに眠っていた。薄い布団が不規則な呼吸で上下し、額には汗が浮いている。枕元には空の雫が一輪、水を入れた小瓶に挿してあった。
「実は、この子は……」
女将が震え声で語り始めた。窓の外では、夕陽が山の稜線を赤く染め始めている。
「生まれつき体が弱く、医者には十歳まで生きられないと言われました。薬も祈りも、何も効かなくて」
ノエルが身を乗り出した。
「それならどうして――」
「半年前のことです。リリィが危篤状態になった夜、灰の修道会と名乗る方々が現れました」
その名前に、全員が身を固くした。
「彼らは言いました。実験的な治療があると。他者の生命力――魂を注ぐことで生き長らえるかもしれないと」
セラフィーヌの顔から血の気が引いていく。
「まさか」
「……はい。彼らは、ある少女の魂を持ってきました。その魂は、自ら志願したと言っていました」
女将は小さな手紙を、震える手で取り出した。
「治療の後、リリィが握っていたものです。そこには、あなたの名前が」
セラフィーヌが手紙を受け取った瞬間、世界が揺らいだ。
見慣れた文字。丸みを帯びた、優しい筆跡。インクの滲み方まで、記憶の中にしかないものが手元にあるのだ。
『姉さんへ
私は今、リリィという女の子と一緒にいます。
灰の修道会は実験と言ったけど、
私にとっては、最初で最後の命を懸けた戦いです。
でも、私の魂はもう限界です。
もし会えたら、伝えたいことがあります。
愛してる。ずっと、ずっと。
ミレイユ』
涙が、文字を滲ませていく。
その時、ベッドのリリィが目を覚ました。
青い瞳が真っ直ぐセラフィーヌを見つめる。その瞳の奥で二つの光が複雑に絡み合い、揺れていた。
「姉さん」
その声は、リリィのものでありながら、確かにミレイユの響きを持っていた。二つの音が重なり、不思議な和音を作り出している。
「ミレイユ? 本当にミレイユなの?」
セラフィーヌはベッドに駆け寄り、震える手でリリィの手を取った。小さく冷たい手だったが、握り返す力には確かな温もりがあった。
「私はリリィ。でも、ミレイユでもあったの」
少女は弱々しく、しかし優しく微笑んだ。
「灰の修道会の人たちは、私たちを実験材料としか見ていなかった。でも、私たちにとっては違った。リリィは生きたがっていた。私は姉さんに会いたかった。だから、二つの願いを一つにしたの」
「……なんだと」
ユリウスが息を呑んだ。
「魂の共生。理論上は可能だが、成功例は聞いたことがない」
レオンが鋭い視線を向けた。
「これは灰の修道会にとって、貴重すぎる成果だ。もし他の者に知られたら――」
「知られたら、どうなるんですか?」
リリィの母親が青ざめた。
「恐らくこの子は連行されるだろう。……次の実験のために」
ユリウスの言葉が、部屋の空気を凍らせた。
リリィが震える手で、セラフィーヌの頬に触れた。
「姉さん、泣かないで。でも、聞いて。私、もう長くはいられない」
「何を言っているの」
セラフィーヌは必死でリリィの手を握りしめた。
「せっかく会えたのに、また離れるなんて」
「違うの」
リリィ――いや、その中のミレイユが語り始めた。
「私の魂は、リリィを生かすために、ほとんど使い果たしてるの。もう少ししたら、完全に彼女と一体になる。そうしたら、ミレイユという意識は消えて、リリィだけが残る」
「そんな」
セラフィーヌの涙が、止まらなかった。
「でも、それでいいの。リリィは優しい子。きっと、私の分――ううん、みんなの分まで幸せに生きてくれる」
リリィが枕元から青い花を取った。空の雫が、夕陽を受けて金色に輝いている。
「これ、姉さんに。最後の贈り物」
花を受け取った瞬間、セラフィーヌは気づいた。リリィの瞳の中で、ミレイユの光が薄れ始めている。まるで、朝霧が陽光に溶けていくように。
「ミレイユ、待って」
「大丈夫。私は消えるんじゃない。リリィの一部になるの。彼女が笑う時、きっと私も一緒に笑ってる」
ミレイユの声が、次第に遠くなっていく。
「姉さん、ありがとう。守ってくれて。愛してくれて」
「ミレイユ!」
「リリィを、よろしくね。この子は、私たちの希望だから」
最後の言葉と共にリリィの瞳からミレイユの光が完全に消えた。
残されたのはリリィという少女だけ。彼女は困惑したような、それでいて不思議に安らかな表情で、セラフィーヌを見つめている。
「お姉さん? なぜ泣いているの? 私、何か悪いことした?」
それは、純粋にリリィだけの声だった。ミレイユの響きは、もうどこにもない。しかし、その優しい問いかけの中に、ミレイユが残した最後の贈り物があった。この少女の中で生き続ける、他人を愛するという贈り物が。
セラフィーヌは震えながら、リリィを抱きしめた。
「いいえ、何も悪くない。あなたは、とても大切な子」
レオンが静かに言った。
「セラ、この子は守らなければならない。灰の修道会からも、すべての脅威からも」
「分かってる」
窓の外で最初の星が瞬き始めた。空の雫のように、小さく、しかし確かな光を放つ。それはまるで、天に昇った魂が、地上の愛する者たちを見守っているかのようだった。
セラフィーヌはリリィを抱きしめ、深く息をついた。震える手を握り返す小さな温もりに、これまでの喪失と痛みが少しずつ溶けていくのを感じる。
「リリィは、ミレイユが命を賭けて守った子。私も、命を賭けて守る」
その言葉と共に、胸の奥に新しい決意が灯った。悲しみは消えない。だが、過去の影に縛られることもない。
レオンがそっと頷き、ユリウスとノエルも静かに彼女を見守る。四人の間に生まれた、言葉にできない信頼と絆。
そしてセラフィーヌは心の中で誓った。どんな困難が訪れようとも、ミレイユの想いを胸に、リリィの笑顔を守り続ける――それこそが、新しい命の始まりであり、希望の光なのだと。
夕暮れの山並みに、星々がきらめく。空の雫の花のように、小さくても確かな光が、未来を照らしていた。




