16.焚き火の誓い
夜明け前の森は、まだ闇の懐に抱かれていた。焚き火の残り火が時折爆ぜ、火の粉が螺旋を描いて立ち昇る。その赤い光がセラフィーヌの頬を照らし、彼女の瞳に宿る不安の色を浮かび上がらせた。彼女は眠れずに銃を磨いていた。指先が慣れ親しんだ金属の冷たさを確認するたび、心のどこかが安堵する。油の匂いが鼻腔をくすぐり、布が銃身を滑る感触が、彼女をかろうじて現実に繋ぎ止めていた。
左耳の飾りが炎の光を受けて青く輝く。ミレイユが最後に贈ってくれた、小さな青い石。その重さは実際の重量をはるかに超えて、セラフィーヌの心に食い込んでいた。石の冷たさが耳たぶに触れるたび、妹の笑顔が脳裏をよぎり、胸の奥が締め付けられる。
背後の茂みから枝が折れる音がして、セラフィーヌは反射的に銃口を向けた。長年の傭兵生活が染み込ませた本能。しかし、闇から現れたのはレオンだった。彼の足取りは静かで、まるで森の一部のように自然だった。
「眠れないの?」
レオンの声は夜の静寂を破らないよう、低く抑えられていた。彼は焚き火の向かい側に腰を下ろす。その動作には、相手を警戒させない配慮が滲んでいた。
「……見張りの交代はまだよ」
セラフィーヌの声は、普段の鋭い調子を失っていた。夜の闇が彼女の心の防壁を少しずつ溶かしているかのようだった。
レオンは何も言わず、懐から革の水筒を取り出した。蓋を開けると、薄荷の香りが漂ってくる。
「飲んで。ちょっと前にユリが淹れたやつだけど」
差し出された水筒を受け取ると、まだほのかな温もりが残っていた。口に含むと、薬草の苦味が舌を刺激し、その奥から優しい甘みが広がる。それは灰翔時代に痛みを忘れるために飲んでいた安酒とは違う、心を落ち着かせる味だった。
「リオスの言葉が気になる?」
レオンの問いかけは探るようなものではなく、ただ寄り添うような響きを持っていた。
セラフィーヌは首を振った。髪が肩に触れ、夜露の冷たさが首筋を濡らす。
「違う。私が思い出していたのは……」
言葉が途切れた。森の奥から梟の鳴き声が響いてくる。ホウ、ホウという寂しげな声は、まるで亡くなった者たちの魂が彷徨っているかのようだった。夜風が頬を撫で、土と腐葉土の匂いを運んでくる。
「昔の仲間のこと」
セラフィーヌは銃を膝に置き、両手で包み込むように抱えた。焚き火の炎が揺れ、オレンジ色の光が彼女の顔に複雑な影を作り出す。
炎の揺らめきに、かつての夜営地が重なる。あの時も、焚き火の煙は同じ匂いを放っていた――
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三年前、傭兵団「灰翔」の夕食後。焚き火の周りでは仲間たちが賑やかに酒を酌み交わし、明日の戦いなど忘れたかのように笑い合っている。肉の焼ける匂いと、安酒の甘ったるい香りが入り混じり、独特の熱気を作り出していた。
焚き火の輪の外、セラフィーヌは黙って銃を磨いていた。油の匂いに紛れて、焼けた肉と安酒の甘ったるい香りが鼻を刺す。仲間たちの笑い声は騒がしくも温かいのに、彼女の耳には遠い世界のざわめきのようにしか届かない。
「また一人か、セラ」
影が落ち、顔を上げればカインが立っていた。褐色の腕には無数の古傷。手にした水筒を振ると、中で酒が波打ち、微かな音を立てる。
「その調子じゃ、いつまでも一人だぞ」
彼の笑い声に、輪の向こうの歌と踊りが呼応する。セラフィーヌは唇を歪めた。
「……私はあの子たちみたいに馬鹿騒ぎできる性分じゃないの」
セラフィーヌは銃から目を離さずに答えた。しかし、口元には微かな笑みが浮かんでいた。
カインは彼女の隣に腰を下ろす。地面が彼の重さで少し沈み、枯れ草が音を立てた。
「その調子じゃ、いつまでも一人だぞ」
差し出された水筒からは、強い酒精の匂いが立ち昇る。北の地方で作られる蒸留酒。喉を焼くような強さだが、体の芯から温まる。
「ミレイユが心配してたぞ。姉さんはいつも一人で戦ってるって」
妹の名前を聞いた瞬間、セラフィーヌの手が止まった。磨いていた銃身に、自分の顔が歪んで映る。
「あの子は優しすぎるのよ」
声に込めた軽さとは裏腹に、胸の奥で何かが疼いた。
「それは、お前も同じだろう」
カインの大きな手が、セラフィーヌの頭を軽く撫でた。子供扱いするような仕草だったが、そこには深い愛情があった。
「強がるな。仲間を頼れ。それが、生き残る秘訣だ」
「……そうね、ミレイユのためにも努力するわ」
「おいおい! そこは俺のためって言うところだろ!」
カインの豪快な笑い声が夜空に響いた。
その時は、この笑い声が二度と聞けなくなるなんて、思いもしなかった。
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レオンが新しい薪を焚き火にくべた。乾いた木が炎に包まれ、パチパチと音を立てて燃え上がる。立ち昇る煙が、セラフィーヌの目を刺激し、涙が滲んだ。
「どんな仲間だった?」
レオンの問いかけは静かで、そこに判断や同情は含まれていなかった。ただ、彼女の話を聞きたいという純粋な思いだけがあった。
「死んだわ。私のせいで」
セラフィーヌの声は、砂が指の間から零れ落ちるように力なかった。喉の奥が締め付けられ、言葉を紡ぐのが苦しい。
「妹を救おうとして、仲間の制止を振り切った。結果、妹も仲間も失った」
森が息を潜めたかのように静まり返った。風さえも止み、まるで世界全体が彼女の告白に耳を傾けているかのようだった。
「カイン……副団長は最後まで私を庇ってくれた。暴走した妹の爪から、その大きな背中で」
言葉が詰まった。喉の奥に、あの日の血の味が蘇る。鉄と塩の味、そして火薬の苦い後味。今でも引き金を引いた時の反動が、掌に残っているような気がする。
「それで、つむじ風になったのか」
セラフィーヌは深く頷いた。
「誰とも組まない。誰も頼らない。そうすれば、もう誰も失わずに済むと思った」
その時、複数の足音が夜の闇に紛れて響く。ユリウスとノエルが、眠そうな顔をしながら焚き火に近づいてきた。
「何だ、坊ちゃんも起きてたのか」
ユリウスが欠伸を噛み殺しながら言った。髪が乱れ、いつもの皮肉屋の仮面が剥がれている。
「星が綺麗ですね」
ノエルが空を見上げた。雲の切れ間から、無数の星が瞬いている。
レオンが微笑み、皆には語り掛ける。
「眠れないなら、みんなで見張りをしようか。一人より四人の方がいい」
その言葉には、単なる見張りの交代以上の意味が込められていた。
四人は焚き火を囲んで座った。それぞれの顔に、炎の光が異なる表情を作り出す。時折、薪が爆ぜる音が静寂を破った。
夜明けが近づくにつれ、東の空が藍色から紫へ、そして薄い桃色へと変わっていく。最初の鳥が目覚め、澄んだ声で朝の歌を歌い始めた。それは希望の調べのようでもあり、新しい始まりを告げる合図のようでもあった。
「なあ」
ユリウスが膝を抱えながら口を開いた。その声には、普段の皮肉な調子はなく、むしろ兄が妹に語りかけるような優しさがあった。
「俺たちは過去を変えることはできない。でも、これからのことは違うだろ?」
「そうですよ」
ノエルはせラフィーヌの顔を覗き込み、続けた。朝露が巡礼服の裾を濡らし、冷たさが肌に染みる。
「私も、ただ祈るだけでは終わらせません。歩き続け、その先々で人々を救うことが、せめてもの償いだと信じています」
セラフィーヌは三人の顔を見回した。彼らはカインや灰翔の仲間たちとは違う。でも、だからこそ――
「ありがとう」
その言葉が唇から零れた瞬間、朝日が森を黄金に染め始めた。木々の間から差し込む光の筋が、まるで天からの祝福のように地面に模様を描く。
突如、ユリウスが鋭く立ち上がった。杖を構え、青白い魔力が先端に宿る。
「誰だ」
緩みきった温かな空気が一瞬で戦場の張り詰めたものに変わった。全員が武器に手をかける。
森の奥から、ゆっくりと人影が現れた。朝靄の中から姿を現したのは、一人の男だった。
旅装束は所々破れ、泥と血の跡がこびりついている。腰の曲刀は使い込まれ、鞘には無数の傷。顔の左側を走る深い傷跡、そして左目を覆う黒い眼帯。
「久しぶりだな、セラ」
その声を聞いた瞬間、セラフィーヌの全身から血の気が引いた。心臓が早鐘のように打ち、手が震え始める。
「ヴァルド……」
名前が、掠れた声で唇から漏れた。
男――ヴァルドは灰翔の生き残り、そして三年間、セラフィーヌを裏切り者として追い続けている復讐者だった。
「こんなところにいやがったか、この裏切り者が」
ヴァルドは憎悪に塗れた声で吐き捨てるように言った。片方だけ残った目が、執念の炎を帯びている。手が曲刀の柄にかかり、金属が擦れる音が静寂を切り裂いた。
「待つんだ」
レオンが素早く前に出た。双剣は抜かず、両手を広げて見せる。それは戦意がないことを示すと同時に、仲間を守る壁となる覚悟の表れだった。
「君の怒りは分かる。でも、まず話を――」
「部外者は引っ込んでろ!」
ヴァルドの怒鳴り声が、鳥たちを飛び立たせた。
「これは俺とこの女の問題だ。仲間を裏切った報いを――」
「彼女は僕たちの仲間だ」
レオンの声は静かだったが、その中には揺るぎない決意があった。
「仲間の問題は、僕たち全員の問題だ」
仲間――その言葉を聞いた瞬間、ヴァルドの顔が醜く歪んだ。
「仲間だと? 笑わせるな! こいつは仲間を見捨てた。カインも、ガルドも、みんな死んだ。こいつが勝手な判断をしたせいで!」
セラフィーヌはゆっくりと立ち上がった。膝が震えているが、それを押し殺す。銃は腰に下げたまま、両手を見せる。朝露に濡れた草を踏みしめ、一歩、また一歩とヴァルドに近づく。
「その通りよ。私のせいで、みんな死んだ」
彼女の告白は、朝の静寂に重く響いた。ヴァルドの目が見開かれる。
「でも、私は生きてる。生きて、この罪を背負い続けなければならない」
懐から何かを取り出す。それは銀のバッジ。灰翔の紋章が刻まれた団章だった。朝日を受けて、鈍く光る。
「これを見て。カインが最後に握りしめていたもの」
ヴァルドの呼吸が荒くなった。
「覚えてる? カインが最後に言った言葉」
長い沈黙。風が二人の間を吹き抜け、枯れ葉を舞い上げる。
「『仲間を……守れ』」
ヴァルドの声は、絞り出すようだった。
「あの時は守れなかった」
セラフィーヌの声が震えた。涙が頬を伝い、朝日にきらめく。
「でも今は違う! 新しい仲間がいる。そして今度こそ、今度こそ守ってみせる!」
ヴァルドの手が、曲刀の柄を握りしめた。金属が軋む音がする。しかし、その視線が一瞬、セラフィーヌの耳飾りに向けられた。青い石が朝日を受けて輝いている。それはミレイユの形見であり、同時に灰翔での日々、まだ皆が生きていた頃の記憶の証でもあった。
「……カインなら、どうしただろうな」
呟きは、風に流されそうなほど小さかった。
ヴァルドは踵を返した。その背中は、三年間の憎しみと、それでも消えない哀しみを背負っているように見えた。
「次に会った時は、容赦しない」
そう言い残して、彼は朝靄の中へと消えていった。
彼の残した憎悪は、なお森の中に滲んでいた。だが同時に、どこか取り残された寂寥の匂いもあった。
張り詰めていた糸が切れたように、セラフィーヌはその場に崩れ落ちた。
レオンが素早く彼女を支える。その腕は温かく、震える彼女をしっかりと抱きしめた。
「よく耐えたね」
ユリウスも駆け寄り、不器用に彼女の肩を叩く。
「ったく、心配させやがって」
ノエルはヴァルドが去った方角へ静かに祈りを捧げた。生者のためでも死者のためでもなく、すべての魂の安らぎのために。
朝日が完全に昇り、世界が新しい光に包まれた。風が吹いた。それは昨日までの不穏な風とは違う、希望を運ぶ朝の風だった。
セラフィーヌは仲間たちに囲まれながら、小さく呟いた。
「ありがとう、仲間と呼んでくれて」
新しい一日が始まった。過去の影はまだ消えない。しかし、彼女は一人ではない。共に歩む仲間がいる。その事実が、彼女に前を向く勇気を与えていた。




