ex.無垢な旅立ち
ノエルがどうして巡礼の旅に出たのか、というお話。
ノエルは自分の境遇を「不幸」と思ったことは、一度もなかった。
物心ついた時から孤児院で育ち、優しい母の顔も、暖かい父の手も知らない。けれど、彼には屋根があり、食事があり、共に遊ぶ子供たちがいた。路地裏で凍える子供を幾度も見たことがあるからこそ、自分はむしろ「恵まれている」と心から思えた。
幼い頃から彼はよく、年下の子の手を引き、泣き虫の子を慰めていた。院長である修道女がそんな彼を見て言ったことがある。
「あなたはきっと誰かの光になれる子ね」
その言葉は十六歳で孤児院を出る日まで、彼の胸の奥で静かに燃え続けていた。
教会に仕えるようになったのは、孤児院を出てすぐだった。最初は掃除や雑務ばかりだったが、ノエルはひとつひとつを大切にこなした。やがて祈りを導く声が人々の心を癒すようになり、六年も経つ頃には、地方の小さな村の教会を任される立場にまでなっていた。
けれど――ノエルはそこで留まることを良しとしなかった。
椅子に座り、書き物机に灯した蝋燭を見つめる。教会を託されたその夜、彼は長い時間、考え続けていた。
穏やかな村で、必要とされるだけの祈りを捧げることも尊い。だがそれは、彼にとって「守られた世界」に過ぎないのではなかった。
路地で飢えて死ぬ子供がいるように、戦場で泣く母や、故郷を失う人々がいる。
「ここから出なくては……」
誰も見つめない暗闇の中で、彼はそう言葉にした。
翌朝、村の司祭に巡礼の願いを告げると、その顔には驚きと共に納得の笑みを浮かんだ。
「……お前は本当に真っ直ぐだな。だが、真っ直ぐな光ほど闇に狙われやすいものだ。忘れるな、ノエル」
ノエルは深々と頭を下げ、聖印を手に旅立った。
己の歩みがどれほど小さなものでも、風に舞う塵芥ほどでも――誰かの救いになるならば。
それが、彼が選んだ道だった。
夜道を歩く巡礼者の姿を、闇の中からじっと見つめる影があった。
緑の瞳が月光に妖しく揺らめく。
その唇は甘やかな笑みを形づくっていた。
「……なんて清廉無垢なお心をお持ちの神父様だ」
吐息のような囁きが夜風に溶ける。
「そんな清らかな光、私の色で染めてみたくなるじゃないか」
影から覗く視線が、ノエルの背に絡みついていたことを、彼はまだ知らない。




