2.祠の盗賊
東の森に入ると、午後の陽光を木々の葉が細かく砕き、地面に無数の光の欠片を落としていた。それは風が吹くたびに揺れ動き、まるで生きている光の海のようだった。苔むした岩肌に這う蔦が古い時間の堆積を静かに物語っていた。
レオンは立ち止まり耳を澄ませると、森の呼吸がどこか不自然に途切れていることに気付いた。鳥の囀りが消え、虫の羽音さえも聞こえない。ただ風だけが梢を渡りながら不穏な囁きを運んでくる。
「ユリ」
振り返ることなく、レオンは静かに相棒の名を呼んだ。
「ああ、俺も感じてる」
ユリウスの杖の先端に埋め込まれた魔石が淡い青白い光を灯した。それは魔力の乱れを感知する証。森の奥から何か歪なものが滲み出しているようだった。
二人は無言のまま奥へと足を進める。落ち葉を踏む音だけが静寂を破る唯一の音となって森に響いた。
やがて、古い祠が見えてきた。蔦に覆われた小さな祠がひっそりと佇んでいる。だが、その見た目とは裏腹に周囲の空気がどこか澱んでいるように見えた。
「坊ちゃん、あれを」
ユリウスが指差す先――祠の裏手に人影が見えた。いや、人影と呼ぶにはあまりにも不自然な佇まいだった。まるで糸で吊られた人形のように、不規則に揺れながら立っている。外見は粗末な革鎧を身に着け、錆びた剣を握っている盗賊そのものだ。だが、その目は——
「催眠術……?」
レオンが呟いた瞬間、盗賊がこちらに振り向いた。虚ろな瞳には何も映っていない。まるで深い井戸の底を覗き込んでいるような底知れない空虚さがそこにあった。
盗賊は声にならない呻きを上げながら、ゆらりと剣を振り上げた。その動きは緩慢で、まるで水の中を進むように重たげだった。
「来るぞ」
ユリウスの合図と共にレオンは双剣を抜き放つ。刃が陽光を受け、まるで銀の閃光のように森を切り裂いた。
最初の一撃はレオンの右手の剣が盗賊の剣を弾く。金属音が森に響き、小さな火花が散った。続けざまに左手の剣の鍔で盗賊の脇腹を打つが、盗賊は痛みを感じていないかのようにそのまま前進してくる。
「効いてない……?」
「いや、違う」
ユリウスが杖を構えながら言った。
「痛みを感じる『自分自身』がいないんだ」
藍色の瞳が冷静に状況を分析する。そして、杖の先端から青白い光が放たれた。
「縛鎖の術式――展開」
光は瞬時に幾何学的な紋様を描き、盗賊の足元に魔法陣を形成した。見えない鎖が盗賊の体を縛り上げ、その動きを封じる。
だが、盗賊は止まらなかった。肉が裂け、骨が軋む音を立てながらも、なお前進しようとする。まるで自らの肉体を破壊することに何の躊躇いもないかのように。
「こいつは……」
レオンの背筋に冷たいものが走った。これは人間じゃない。人間の形をした、何か別のものだ。
その時、森の奥から新たな気配が湧き上がった。一人、また一人と、虚ろな目をした盗賊たちが姿を現す。その数は十を超えていた。
「囲まれたか」
ユリウスが苦笑を浮かべる。だが、その瞳に恐怖の色はない。
「坊ちゃん、派手にいくぞ」
「ああ、任せた」
その言葉をいい終えるや否や、盗賊たちが一斉に襲いかかってきた。その動きは不揃いでまるで壊れた機械仕掛けの人形のようだった。
レオンは深く息を吸い、双剣を交差させて神経を集中させた刹那、剣が舞い、空気を切り裂いた。右の剣が弧を描き、左の剣が螺旋を描く。二本の刃が織りなす軌跡は、まるで銀糸で編まれた網のようだった。盗賊の剣を受け流し、弾き、時に絡め取る。その動きには無駄がなく、まるで水が流れるように自然だった。
一方、ユリウスは杖を地面に突き立て、詠唱を始める。
「灰燼に帰す者よ、汝が名において——」
古代語の響きが森に満ちると魔力が渦を巻き、空気が震えた。
「——炎舞の円環!」
杖を中心に炎の輪が広がった。炎は生きているかのように踊り、盗賊たちを包み込んでいく。だが、不思議なことに炎は肉体を焼くのではなく、何か別のものを燃やしているようだった。
盗賊たちの動きが徐々に鈍くなっていく。虚ろだった瞳に、一瞬何かが宿った。恐怖か、安堵か、それとも解放への渇望か。
「今だ、レオン!」
ユリウスの声に応じて、レオンは跳躍した。双剣が十字を描き、盗賊たちの中心へと切り込んでいく。だが、その刃は殺すためではなかった。急所を外し、動きを止めるだけに留める。
戦いは、静かに終わった。
盗賊たちは地面に倒れ伏し、やがて規則正しい寝息を立て始めた。まるで長い悪夢から解放されたかのように。
「眠らせただけか」
ユリウスが杖を肩に担ぎながら言った。
「殺す必要はない。彼らも被害者かもしれない」
レオンは剣を鞘に納めながら、倒れた盗賊たちを見下ろした。その顔には仄かに哀れみの色が浮かんでいるようだった。
祠に近づくと石の台座の上に黒く焦げた奇妙なものが置かれている。よく見るとそれは人の形をした小さな人形だった。藁で作られ、黒い糸で縛られている。そして、その胸の部分には小さな穴が開いていた。
「呪術の類だろうか」
ユリウスが人形を手に取り、眉をひそめた。
「いや、これは――」
人形から微かに灰の匂いが漂ってくる。それは先ほど森で感じたあの不吉な気配と同じだった。そして、朝にユリウスが口にした名が不意に脳裏に浮かんだ。
「灰の修道会……」
レオンがぽつりと呟いた。
「関係があるのか?」
「分からない。でも、これは普通じゃない」
ユリウスは後で詳しく調べよう、と人形を懐にしまった。
気がつけば陽が西に傾き始めていた。木々の間から差し込む光が橙色に染まる。影が長く伸び、森全体が黄昏の中に沈みつつあった。
「街に戻ろう」
レオンはそう言ったが、その瞳にはまだ何か引っかかるものがあるようだった。
「盗賊たちは?」
「縄で縛っておこう。衛兵に伝えれば回収されるだろう。意識が戻れば何か話してくれるかもしれない」
二人は手際よく盗賊たちを縛り上げていたが、その間も盗賊たちは深い眠りの中にいた。まるで何年も眠っていなかったかのように。
帰路につく頃、森は夕闇に包まれ始めていた。ひんやりとした風がどこか物悲しい調べを奏でている。まるで、森自身が今日の出来事を嘆いているかのようだった。
街の灯りが見えてくると、松明を掲げた門番達が帰還する者たちを待っていた。その光景は、いつもと変わらない日常だ。
だが、レオンとユリウスは感じていた。今日、森で見たものは、これから起こる何か大きな出来事の、ほんの始まりに過ぎないということを。
門をくぐる直前、レオンは振り返ると暗闇に沈んだ森が巨大な影となって横たわっていたようだった。奥にまだ見ぬ何かが潜んでいる、と言わんばかりに影は深く森を包む。
「どうした?」
「いや……」
レオンは首を振り、前を向いた。だが、胸に抱いた違和感はますます深く沈んでいくばかりだった。
こうして、二人の風紡ぎは街へと帰還した。彼らの影は、松明の光に照らされて長く伸びている。それは、これから歩むことになる長い道のりを密かに暗示しているかのようだった。
夜は、静かに更けていく。