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灰に眠る光  作者: 東達
灰に眠る町
15/18

15.不穏な風

 洞窟を出た四人を待っていたのは、血のように赤い夕陽だった。西の空に沈みかける太陽が雲を焼き、枯れた大地に長い影を落としている。風が吹くたびに、乾いた草が擦れ合い、まるで古い羊皮紙をめくるような音を立てた。その音の中に、何か不吉なものが潜んでいるような気がして、レオンは無意識に剣の柄に手を添えた。


 レオンは仲間たちをゆっくり見回した。ノエルは老女から受け取った銀の粉の瓶を何度も懐から取り出しては確認している。その手つきには、聖遺物を扱うような慎重さと、同時に重荷を背負った者の緊張があった。ユリウスは杖を肩に担ぎ、何か考え込んでいる。その横顔には、いつもの皮肉な笑みはなく、深い思索の影が落ちていた。

 そして、セラフィーヌは、ただ遠くを見つめていた。

「セラ」

 レオンが声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。その顔には、迷いと苦悩が複雑に絡み合っていた。

「あの人の言葉が、離れないの」

 セラフィーヌは続けた。声が微かに震えている。

「一度きり。それを選ばなければならない。また、私は選ぶの? 誰を生かし、誰を――」

 言葉が途切れた。妹を撃った時の記憶が彼女の心を締め付ける。引き金の重さ、火薬の匂い、そして最後の「ありがとう」という言葉。

 レオンはセラフィーヌの肩にそっと手を置いた。

「選択は僕たち全員でする。その責任は全員で背負おう」

 その言葉に、セラフィーヌは驚いたような顔を見せた。レオン眼差しには、ただの風紡ぎとは思えない人を導く者のような強さが、そこにあった。

「坊ちゃんの言う通りだ。独りよがりは、つむじ風の悪い癖だぞ」

 軽口だったが、その声には温かさがあった。ノエルも静かに頷く。

「どんな選択も、共に」

 セラフィーヌの目に涙が浮かんだ。しかし、それは悲しみの涙ではなかった。


 街道を進むにつれて、風が変わり始めた。それは普通の風ではなかった。生温かく湿り気を帯び、腐敗臭を含んでいる。舌の奥に苦い味が広がり、皮膚がじっとりと湿ってくる。

「この風……」

 レオンが足を止めた。勘としか言えないが、肌が痺れ危険を告げている。剣を少し鞘から抜き、周囲を警戒する。

 

 その時、前方の丘の上に人影が見えた。


 逆光でシルエットしか見えないが、一人の男が立っている。風になびく研究者の外套、手に持った何か。その佇まいには、奇妙な孤独感が漂っていた。


「リオス」


 セラフィーヌが銃を抜いた。しかし、レオンは手を上げて制する。

「待って、様子がおかしい」

 確かにリオスの立ち姿には、いつもの狂気じみた雰囲気がなかった。むしろ、深い疲労と、何か重いものを背負っているような――


 リオスが丘を下りてきた。近づくにつれ、その顔がはっきりと見えてくる。煤けた茶髪は乱れ、顔には深い隈ができている。眼鏡の奥の瞳は、どこか遠くを見つめているようだった。

「よく来たね」

 リオスの声は枯れていた。まるで長い間、誰とも話していなかったかのように。

「やっぱり、あの子の最期はキミたちだったか」

 その言葉には、複雑な感情が込められていた。懐かしさ、悲しみ、そして僅かな安堵。

 レオンが前に出た。剣は抜かず、しかしいつでも動ける態勢を保ちながら。

「何が目的だ」

 単刀直入な問いに、リオスは力なく笑った。

「ボクにあるのは、ただの約束だよ」

 リオスの手に小さな容器があった。中には灰色の光が渦巻いている。――マリアの魂だった。

「っ!!」

 目視するや否や、レオンがリオスに向かい踏み込んだ。その動きは流れるようで、一瞬でリオスとの距離を詰める。剣はまだ抜いていないが、その存在感は圧倒的だった。

「魂を道具にするつもりか?」

 レオンの声は静かだったが、その中に鋼のような意志があった。リオスは一瞬たじろいだが、すぐに首を振った。

「道具? 違う。彼らは……彼らは生きたいと願っている」

 リオスの声が震えた。容器を見つめる目には、深い愛情と悲しみが入り混じっていた。

「キミたちには分かるまい。愛する者を失い――」

 言葉が途切れた。リオスは何か言いかけて、口を閉じた。

 相手の理由などお構い無しにユリウスが杖を構える。

「お前、本当は何者だ」

 鋭い問いかけに、リオスの表情が変わった。一瞬、別の何かが顔を覗かせたような。しかし、すぐに元の疲れた研究者の顔に戻った。

「ただの研究者さ。魂の真実を追い求める、哀れな男」

 セラフィーヌが銃を向けたまま言い放つ。

「白い狼のことを知っているでしょう。あれも、あんたたちの実験の結果よね」

 言葉にした瞬間、セラフィーヌの胸が灼けるように痛み、あの赤い瞳が脳裏を貫いた。獣の顔をしていながら、奥底に人の苦悩を宿した眼差し。引き金を引こうとしても震えて止まった指先。唸り声の裏に混じっていた、助けを乞うかのようなかすかな声。

 「人間だった」――彼の言葉が、耳に焼き付いて離れない。

 もし銀の粉を使えるとしたら、あの狼を救うべきなのか。それとも――また別の誰かを救うために選ばねばならないのか。

 リオスの顔が歪んだ。痛みと後悔が、一瞬だけ露わになる。

「必要な犠牲だった。いや……違う。ボクは、ただ……」

 言葉が乱れる。リオスは頭を抱え、苦しそうに息をついた。

 レオンはその隙を見逃さなかった。素早く距離を詰め、剣の柄でリオスの手を打ち、容器が宙を舞う。レオンは容器を掴もうと手を伸ばすも、リオスの反応は予想以上に速かった。レオンに打たれた指の先は氷の刃が纏われ、リオスが手を払うと、そのままレオン目掛けて氷は飛んでいく。

「やめろ!」

 リオスの叫びは、悲鳴に近かった。必死で容器を掴み、胸に抱きしめる。

「これは……これだけは、渡せない」

 リオスの目から、一筋の涙が流れていた。その姿は、宝物を守る子供のようだった。

 研究者の仮面の下に、深い悲しみを抱えた一人の人間がいる。レオンにはそれが分かった。敵であることに変わりはない。しかし、単純な悪ではない。レオンは剣を抜きかけたが、手を止めた。

「お前も――」

「ボクは警告に来ただけだ」

 リオスは再び落ち着きを取り戻し、レオンの言葉を遮る。しかし、その奥には消えない痛みが見え隠れしていた。

「ここから先は命……いや、魂の保証もできない。引き返すなら今のうちだ」

 そして、ユリウスを見つめた後、レオンに向き直る。

「あと、犬に首輪をつけるなら紐も握っておけ」

 その言葉の意味を問う前にリオスの姿が揺らぎ始めた。転移術による撤退。消える直前、彼は振り返らずに

「ボクも、救いたかったんだ。みんなを」

 その呟きと共に、リオスは闇に消えた。

 残された四人は、しばらく動けなかった。風は相変わらず不穏で世界全体が病んでいるような気配がする。

「追えるか?」

 ユリウスが首を振った。

「無理だ。痕跡が微塵も残ってない」

 レオンは剣を鞘に収め、振り返ると同時に、ノエルが膝から崩れ落ちる。マリアを取り戻せなかった悔しさと、リオスが見せた人間らしさへの困惑が彼を苦しめていた。

「今夜は休もう。この道の先に答えはあるんだ」

 その言葉には不安に揺れる仲間たちを支え、導く強さを滲ませていた。それは血筋や身分からくるものではなく、レオン自身が選び取った責任だった。


 四人は近くの森で野営の準備を始めた。火を起こし、簡単な食事を取る。しかし、誰もが心ここにあらずだった。

 レオンは見張りに立ちながら、リオスの最後の言葉を思い返していた。

「ボクも救いたかった……か」

 その言葉の裏にどんな意味があるのか。完全な悪とは思えない言葉。むしろ、深い悲しみに突き動かされているようでさえあった。


 月が昇り、森は銀色の光に包まれた。

 不穏な風は止まず、何かの前触れのように木々を揺らし続けていた。


---


 同じ頃、遠く離れた廃墟で、一人の男が立っていた。

 彼の前にある巨大な魔法陣は月光を受けて淡く光っていた。

 傍らに置かれた容器の中で灰色の炎がまるで訴えかけているかのように震えてみえた。

「もう少しだ」

 男は容器に語りかけた。その声は子供をあやすような優しさを帯びていた。

「もう少しで、君も新しい体を得られる。そして――」

 言葉が途切れた。彼の脳裏に、遠い日に継がれた記憶が蘇る。

 燃え上がる街。逃げ惑う人々。そして、最後まで自分を生かそうとした恋人の姿。

「なぜ、私だけが生き残ってしまったのか」

 その問いに答える者はいない。ただ、風が廃墟を吹き抜けていくだけ。

 男は魔法陣に手を翳した。魔力が流れ込み、陣が輝き始める。中央に置かれた人形がぴくりと動いた。まだ生命とは呼べない、微かな動き。

「必ず、完成させる」

 その決意と共に、彼は作業を続ける。

 月が雲に隠れ、世界は完全な闇に包まれた。

 不穏な風は彼の記憶をめくり、何かの始まりを告げるように吹き続けていた。

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