14.灰の痕跡
洞窟の入り口から漏れる歌声は、ヴァルディアン王国では耳にしたことがないものだった。ノエルが手にするランプの炎が湿った空気の中で揺らめく。岩肌を伝う水滴の音は歌声の合間に響き、まるで大地そのものが泣いているようだった。湿った岩肌の匂いが鼻をつき、地下施設の記憶を呼び覚ます。セラフィーヌは無意識に銃のグリップを撫でた。その冷たさだけが、今ここにいる現実を教えてくれる。
「この歌は……葬送歌か?」
ユリウスの囁きが洞窟の壁に反響した。彼の杖の先端が青白く光り、周囲を照らし出す。壁面には何かで引っ掻いたような跡が無数に刻まれていた。人の爪によるものか、あるいは別の何かか。今は知る術もない。
ノエルのランプが揺れ、影が壁面で踊る。セラフィーヌは最後尾から仲間たちの背中を見守りながら、耳を澄ませる。美しい歌声の向こうに、苦しげな呼吸音が混じっていた。今にも消えてしまいそうな息遣いが、この歌声の儚さを一層引き立たせる。
「誰かいる」
レオンが呟いた瞬間、歌が止んだ。
洞窟の奥からランプの光の届く範囲に、一人の老女が現れた。重たい足取りの老女の姿を見て、セラフィーヌは息を呑む。藍と銀の糸で織られた見た事のない意匠のローブは所々ほつれ、足元は泥水で染められているようだった。しかしそれ以上に老女の首筋にある焼き印のような痕が、彼女の目に留まる。数字と理解が出来ない謎の模様。灰の修道会が被験者に刻む、所有の証。
「旅の方々……」
老女の声は枯れ木が風に揺れるような音だった。舌が口の中で乾いているのか、言葉を紡ぐのも辛そうにしている。
「まだ生きている方がいたとは」
レオンが一歩前に出た。威圧感を与えないよう、剣から手を離す。
「私たちは灰の修道会を追っている者です。あなたは――」
急に老女が咳き込み、口元に赤い血が滲む。ノエルが駆け寄ろうとしたが老女は手で制し、首を振った。
「触れてはなりませぬ。私の体にはもう毒が回っておりますゆえ……。奥に全てがございましょう」
洞窟の奥へと老女は歩き始め、四人は黙って後に続く。道は狭く、時折頭上の岩がノエルの髪を掠めた。空気は徐々に重くなり、呼吸するたびに肺が軋むような感覚に襲われる。
やがて、少し開けた空間に出ると信じ難い光景が広がっていた。
岩壁一面に、色鮮やかに描かれた無数の絵があった。人々が逃げ惑う様子、炎に包まれる家々、そして体から何かが――カグリス村でみた魂と同じものが引き剥がされる瞬間を描いた、恐ろしいまでに詳細な図。
次の壁画には、魂が無理やり引き剥がされる場面が描かれていた。セラフィーヌの胃が収縮する。この残酷さは、現在も続いている。マリアも、村の人々も、そして――
「これは……」
ノエルの声が震えた。聖印を握る手に、汗が滲む。
老女が岩の窪みに座り込んだ。その動作一つ一つが、長い年月の重みを物語っていた。
「国の歴史を忘れぬようにと」
ユリウスが壁画に近づき、指先で触れようとして、思い留まった。
「……ルミナリエの生き残りなのか?」
老女は首を横に振った。その動作で首筋に奇妙な痣が見えた。まるで、何かに焼き印を押されたような跡。
「生き残りではありませぬ。残された者……とでも言いましょうか」
セラフィーヌが別の壁画の一つを見つめていた。それは、子供が獣に変えられていく過程を描いたものだった。段々と人間の特徴が失われ、最後には完全な獣になる。その表現の生々しさに、彼女の胃が悲鳴をあげる。
狼の赤い瞳が脳裏に蘇った。「かつては人だった」という、あの哀しい告白。あの狼は壁画の者たちと、同じ運命を辿るのだろう。そう思うと胸の奥がちりちりと焦げるような痛みを感じた。
「灰の修道会は、その頃から存在していたのね」
セラフィーヌ自身の声が、洞窟に響いて返ってくる。老女は頷き、別の壁画を示した。
「それよりずっと昔から。ヴァルディアンがルミナリエを滅ぼしたのは単なる侵略ではありませぬ」
レオンの表情が曇った。自信すら知らない自国の歴史の暗部が、また一つ明らかになろうとしている。だが、それでも――だからこそ、レオンは知らねばならないと口を開いた。
「詳しく聞かせてください」
老女は咳をしながら、語り始めた。
洞窟の中の気温が下がっていく。老女の言葉と共に、過去の亡霊が蘇るかのようだった。
「ルミナリエには、魔力や生命力、そして魂を譲渡する術がございました。死にゆく者が、その知識と経験を次代に託す誇りある魔術。ですが――」
老女の手が、壁の一点を指した。そこには、人間とも獣ともつかない、歪な存在が描かれていた。
「ヴァルディアンの一部の者たちは、これを兵器にしようと考えた。魂を自在に操り、不死の軍隊を作ろうと」
「あの狼も……この実験の犠牲者だったのね」
セラフィーヌの呟きに、老女の目が一瞬輝いた。
「あなたは会ったのですか。あの哀れな者に」
セラフィーヌは頷いた。老女の表情に、深い悲しみが浮かぶ。
「彼もまた、かつては人でした。家族を持ち、夢を抱いていた。しかし今は――」
老女の言葉が途切れ、激しく咳き込む。血が岩の上に飛び散った。その赤い飛沫を見つめながら、セラフィーヌは狼の最後の眼差しを思い出していた。人間だった頃の記憶に苦しみながら、それでも彼らに警告を与えてくれた、あの優しさを。
ユリウスが杖を強く握った。木が軋む音が、静寂を破る。
「それが灰の修道会の始まりなのか?」
老女は無言で頷き、息を荒くしながら続ける。
「彼らは魂の救済を掲げ……実際はルミナリエの術を奪い、歪めることが目的でした」
ノエルが膝をつき、老女に近づいた。毒に対する治癒術を施そうとしたが、老女の体から発せられる瘴気に阻まれる。腐敗が内側から進行しているような、生きながらにして死んでいく感覚だった。
「何故あなたはこんなところに?」
老女の目が遠くを見つめた。もはやそこに、ノエルたちの姿は映っていないのかもしれない。
「見張り役です。この記録を、いつか良き者に伝えるための」
セラフィーヌが壁画の別の部分に目を留めた。そこには、一人の銀髪の青年が描かれていた。周囲には無数の魂が渦巻き、その青年の表情は苦悩に歪んでいる。
「これは……」
「アゼル様――」
老女は力なく微笑んだ。口の端から、また血が流れる。
「最後の希望に縛られ、絶望を抱えた御方」
洞窟の奥から、風が吹いてきた。その風は異様に生温かく、腐敗臭を運んでくる。まるで地中の奥深くで何かが腐り落ちているようだった。
「ルミナリエの魂をすべて背負われた。百の魂、千の記憶……それらすべてを一人で」
ユリウスが壁画を見比べると、ハッとした表情で再び壁画を端から眺める。
「……これらの図、順番に並んでいるな?」
確かに、壁画は時系列に沿って配置されていた。過去から現在、そして――
「もしかして未来も描かれているの?」
セラフィーヌの問いに静かに老女は頷いた。そして、震える手で洞窟の最奥を指し示す。
四人は顔を見合わせた。そして、無言のうちに決意を固めて、奥へと進んだ。
最奥の壁には、一枚の巨大な絵があった。
それは、世界が灰に包まれる光景だった。人も獣も、草木さえも、すべてが灰となって舞い上がる。その中心には、一人の人物が立っている。顔は描かれていないが、ただの絵だと言うのに、その姿勢、佇まいには狂気が滲み、描かれていない空白の表情が、より一層気味悪さを引き立てた。
老女が、最後の力を振り絞るように立ち上がった。足元がふらつき、岩壁に手をついて体を支える。
「これを、あなた方に」
彼女は懐から小さな瓶を取り出した。中には銀色の粉が入っており、傾けると砂のようにさらりとしていた。
ノエルが受け取る様子を、セラフィーヌはじっと見つめていた。
「魂を本来の姿に……」
ノエルが受け取ると、瓶に触れた瞬間、掌に熱が走る。まるで、瓶そのものが生きているかのような感触だった。
「歪められた魂を解放する秘薬……」
老女の声は、もう囁きでしかなかった。セラフィーヌは老女の手を取った。その手は氷のように冷たく、しかし微かに震えていた。生きている証。
「あの狼も、これで救えるの?」
老女は力なく首を振った。
「一度きり。選ばなければ……なりません」
その言葉の重さに、セラフィーヌは再び選択を迫られる恐怖を感じた。妹の時のように、誰かを選び、誰かを見捨てなければならないのか。
老女の手から、力が抜けていく。
言葉が途切れた。老女の体が崩れるように倒れる。レオンが支えようとしたが、その体は驚くほど軽く、まるで中身が空洞になっているかのようだった。
「あなたの……お名前を」
ノエルの問いかけに、老女は微笑んだ。
「名前など、とうに捨てました。わたくしめの代わりに、ルミナリエのことを……。滅んだ国にも、人が、歴史が……誇りがあったことを……」
老女は大きく息を吸うと、その息を吐くことなく、レオンの腕の中で静かに旅立ちを迎えた。
最後の言葉と共に、老女の体が光となって散った。その光の粒子が舞い上がる様子を、セラフィーヌは呆然と見つめていた。まるで、解放された魂が、ようやく仲間の元へ帰っていくかのように。
死者の記憶、生者の責任、そして迫りくる破滅の予感。それらすべてが、この狭い空間に凝縮されていた。
「行こう」
レオンの声が沈黙を破った。
「彼女の……彼女達の歴史を未来に繋げるためにも」
洞窟を出ると、外は既に夕暮れに染っていた。
セラフィーヌは振り返り、洞窟を見つめた。あの中には、隠されたの真実が刻まれている。そして、老女が命を懸けて託した希望も。
左耳の耳飾りに触れるとミレイユの形見が揺れている。
そして今、もう一つの重荷を背負った。銀色の粉。たった一度だけ使える、魂の解放。
白い狼の姿が、記憶に浮かぶ。もし再び会えたら、彼を救うべきなのか。それとも、もっと大きな犠牲のために取っておくべきなのか。
選択の重さが、再び彼女の肩にのしかかる。
空が赤く染まり、まるで血に染まったかのよう。
その赤がいつか灰へと変わる未来を拒むように、強く拳を握りしめた。