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灰に眠る光  作者: 東達
灰に眠る町
13/17

13.ノエルの祈り

 廃墟へと続く街道が、緩やかな下り坂に変わり始めていた。足元の石畳は年月を経て割れ、その隙間から這い出た雑草も既に枯れ果てている。ノエルは足を止め周囲に広がる荒涼とした風景を見渡した。


 かつては豊かな耕作地だったのだろう。畝の跡が大地に刻まれた古い傷痕のように残っている。土は灰色に変色し、触れれば粉となって崩れそうだった。この土地に降り注いだ雨は、もはや何も育てることはできない。死んだ大地の上を四人は歩く。


 ノエルの瞳には深い憂いが浮かんでいた。巡礼服の胸元で、聖印が小さく揺れる。その冷たい金属の感触が彼の信仰の証であり、同時に彼自身を縛りつける十字架でもあった。マリアの魂を失ってからは祈りの言葉が空虚に響く。

 神は本当にいるのか。いるとすれば、何故このような苦しみを許すのか。

「ノエル?」

 前を進むレオンが振り返る。ノエルは小さく頷いたが、その表情は晴れない。

「少し、考え事をしていました」

 その答えにレオンは心配そうにノエルを見つめる。

「マリアのことかな」

 単刀直入な問いにノエルは一瞬言葉を失った。しかし、隠し通せるものでもない。彼は深く息を吸い込み、正直に答えた。

「はい。そして……私自身の信仰の在り方についても」

 レオンは何も言わず、ただ隣を並走した。その沈黙が、むしろノエルに語る勇気を与えた。

「私は長い間、巡礼者として各地を回ってきました。病める者を癒し、苦しむ者を慰め、死にゆく者を看取る。それが神から与えられた使命だと信じていました」

 風が吹き、枯れた草が舞い上がる。その音が亡者の囁きのように聞こえた。

「でも、本当は何も救えていなかった。祈りだけでは、誰も救えない」

 その言葉にセラフィーヌが口を開いた。

「それでも、ノエルの祈りに救われた人はいたはずよ」

 彼女の声はいつものような鋭さはなく、真摯なものだった。ノエルは振り返り、セラフィーヌを見ると、彼女の表情は穏やかでノエルに寄り添おうとしているようだった。

「私は神なんて信じちゃいない。でも、あんたが祈ると、神様って奴も悪くない気がしてくる」

 

 ユリウスが杖で前方を指した。

「あれを見ろ」

 丘の向こうに小さな聖堂が見えた。屋根は半分崩れ落ち、壁には大きな亀裂が走っている。しかし、尖塔の先端に掲げられた聖印だけは、まだその形を保っていた。

「寄ってみよう」

 レオンの提案に、全員が頷いた。聖堂に近づくにつれ、その荒廃ぶりがより鮮明になっていく。扉は腐り落ち、窓のステンドグラスは粉々に砕けている。しかし、不思議なことに聖堂の周囲だけは草花が生えていた。白い小さな花が石の隙間から顔を覗かせている。

 ノエルは聖堂の入り口に立ち、崩れかけた石のアーチをくぐると中へと足を踏み入れる。

 内部は予想以上に荒れ果てていた。祭壇は倒れ、聖書は散乱している。天井には大きな穴が開き、そこから差し込む光が埃を金色に輝かせていた。しかし、奥の壁に描かれた古い壁画だけは色褪せながらも残っている。

 それは聖人が暗がりのなか人々を癒す場面だった。病める者、貧しき者、罪深き者。あらゆる人々が小さなランプを持つ聖人の前に集い、その手から光を受けている。ノエルは壁画の前に立ち、じっと見つめた。


 ふと、目を閉じると瞼の裏にあの日の記憶が蘇る。


-----


 五年前、北の辺境の村。


 疫病が蔓延し、人々が次々と倒れていった。ノエルは昼夜を問わず、病人の看護に当たった。祈りを捧げ、薬草を煎じ、死にゆく者の手を握った。しかし、病は容赦なく広がり村人の半数以上が命を落とした。


 最後に残った老婆が、ノエルの手を握りながら言った。

「神父様、私たちは何か罪を犯したのでしょうか」

 煎じたばかりの薬草と部屋の湿った臭いで噎せ返るような部屋の中、ノエルは答えられなかった。ただ、老婆の手を握り返すことしかできなかった。

 握り返してくれたノエルの手の温かさに老婆は微笑んだ。それは、諦めと受容の入り混じった、悲しい微笑みだった。

「でも、神父様がいてくださって、よかった……。ひとりじゃ……ない……」

 その言葉を残して、老婆は息を引き取った。

 

 ノエルは老婆の遺体を埋葬しながら、初めて神に対する疑念を抱いた。全能の神がいるのなら、何故このような苦しみを許すのか。祈りに何の意味があるのか。


-----


 三つの不規則な足音が聞こえてきて、ノエルは目を開いた。

 

 レオンは崩れた祭壇を見て、眉をひそめる。

「こんなところにも戦いの跡が……」

 よく見ると壁には剣の切り傷や炎で焼けた跡がある。百年前の戦争の傷跡が、ここにも刻まれていた。

 ユリウスが床に散らばった書物を拾い上げた。古い聖書の一冊で、ページは黄ばみ文字も滲んでいる。

「ルミナリエ古語で書かれている。この国にも信仰はあったんだな」

 その言葉にノエルは複雑な感情を覚えた。滅ぼされた国にも神を信じる人々がいた。彼らの祈りは、届かずに散ってしまったのだ。

 壁の隅に置かれた小さな箱を散策していたセラフィーヌが見つけた。

「これ、何かしら」

 箱を開けると、中には手紙が入っていた。封蝋は既に剥がれ、紙も脆くなっている。ノエルがそっと手に取り、広げた。


 そこには、震える文字でこう書かれていた。


『愛する◾︎◾︎へ

 戦いが始まりました。ヴァルディアンの軍勢は、容赦なく我々を殺していくことでしょう。

 私は神に仕える者としてとして、ここに留まることにしました。

 逃げ遅れた人々と共に、最後まで祈り続けます。

 神は、きっと私たちを見捨てません。

 たとえこの身が滅んでも、魂は継がれていくでしょう。

 いつか、また会える日を信じて。』


 手紙を読み終えたノエルの手が震える。

 この聖職者は、最後まで信仰を捨てなかった。

 そして、その結果は――


「ノエル!」


 レオンの声が彼を現実に引き戻した。レオンは真っ直ぐにノエルを見つめている。

「……疑いも迷いも、人間に許された弱さだよ」

 その言葉に、ノエルは驚いた。レオンが続ける。

「僕も、この国の歴史を肌で感じて、自分の――」

「坊ちゃん」

 ユリウスが諌めると、一瞬、口を抑え、レオンは改めて言葉を続ける。

「そう、この国を呪いたくなることがある。でも、過去は変えられない。僕たちにできるのは、今を生き、未来を変えることだけだ」

「坊ちゃんの言う通りだ。神がいるかどうかなんて、死ぬまで誰にも分からない。でも、ノエル。お前の祈りが無意味とは思わないぜ」

「そうね。少なくとも、私たちの心には届いてるんじゃないかしら」

 三人の言葉にノエルの胸には温かいものが広がった。それは、失いかけていた何かを、再び見つけたような感覚だった。

 彼は聖堂の中央で膝をついた。

「祈らせてください。この場所で眠る全ての魂のために」

 三人は静かに見守った。ノエルは深く息を吸い、祈りの言葉を紡ぎ始めた。

「永遠なる神よ、海より深い慈悲をもってこの地で命を落とした全ての者に安らぎを与えたまえ。

 憎しみ、悲しみを越え、彼らの魂が光の中で結ばれんことを」

 祈りの言葉が崩れた聖堂に響き渡る。

 その瞬間、崩れた聖堂に差し込む光が、まるで応えるように強く輝いた。

 まるで、世界がノエルの祈りに耳を傾けているかのように。


 ノエルは続ける。これは聖典にはない、彼自身の言葉だった。


「どこにいても、必ず救いましょう。

 それが神の意志に反することだとしても」


 祈りを終えたノエルは、聖印を胸に抱いた。その表情には、新たな決意で満ちていた。それは盲目的な信仰ではない。疑いと迷いを抱えながらも、それでも前に進む覚悟だった。その思いに呼応するように、遠くから微かな旋律が風に紛れて聞こえた気がした。


 聖堂を出ると陽は既に西に傾き始めていた。オレンジ色の光が廃墟となった聖堂を照らしている。その光景は物悲しくも美しかった。

「行こう」

 レオンの声に全員が頷き、再び道を進む。

 ノエルは振り返り、聖堂を見つめた。崩れかけた建物だが、それでもそこには、かつて人々の祈りが集まった場所としての尊厳が残っている。

 

 道が森に入ると森の薄暗さを跳ね返すように、小さな白い花が咲き乱れていた。木々の間から差し込む光が縞模様を作り出している。その光と影の中を、四人は進んでいく。

「待て」

 突然、ユリウスが立ち止まる。

「何か聞こえる」

 全員が耳を澄ませた。遠くから何か音が聞こえてくる。それは歌声のようでもあり、泣き声のようでもあった。

「あいつらかも」

 セラフィーヌが銃を抜いた。しかし、ノエルは首を振った。

「いえ、これは……祈りの歌です」

 彼には聞き覚えがあった。古い葬送の歌。死者を送る時に歌われる、悲しくも美しい旋律。

「誰かが祈りを……」

 レオンの言葉に全員が顔を見合わせた。この荒廃した土地に、まだ生きている者がいるのだ。


 音のする方へ向かうと小さな洞窟が顔を覗かせた。その入り口から、確かに歌声が漏れていた。


 ノエルはランプに火を灯すと歌声に導かれるように洞窟へと入っていった。

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