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灰に眠る光  作者: 東達
12/15

12.セラフィーヌの動揺

 朝の薄明かりが、ルミナリエへと続く街道を灰色に染めていた。石畳の隙間から生える枯れ草が風に擦れる音は死者の囁きにも似て、セラフィーヌの耳に届く。足音の単調なリズムが彼女の意識を過去と現在の境で揺らしていた。


 手綱を握る掌に革が食い込む。じわりと滲む汗が鉄の味を思い起こさせた。前を行くレオンの肩が朝日を受けて金色の輪郭を描いている。その光景が、なぜか三年前の記憶と重なった。

 道の両側に立ち並ぶ木々は、皮が剥がれ、白い幹を晒している。風が吹くたび、乾いた枝が触れ合い、骨が鳴るような音を立てた。その音が、彼女の記憶の扉を押し開けていく。

「セラさん」

 隣を歩くノエルの声にセラフィーヌは我に返った。心配そうにしている巡礼者の瞳が、静かに彼女を見つめている。マリアを失った痛みを抱えながらも、他者への気遣いを忘れない――その優しさが、かえって胸に突き刺さった。

「平気よ」

 声が掠れた。喉の奥に硝煙の苦味が蘇る。ノエルは何も言わず、ただ小さく頷いた。その沈黙が、むしろ多くを語っていた。

 前方でユリウスが手を上げる。

「この先に集落がある。水を補給しよう」

 レオンが振り返った。その灰青色の瞳が、仲間一人一人の様子を確かめている。レオンは歩調を合わせてセラフィーヌの隣に並んだ。

「顔色が悪そうだけど……大丈夫?」

 レオンは手を伸ばし、セラフィーヌの額に触れようとしたが彼女は即座に身を引く。

「触らないで」

 拒絶の言葉が思わず口をついて出ていた。レオンは手を下ろしたが、その表情に非難の色はない。ただ、理解しようとする眼差しがそこにあった。


 集落は、既に死んでいた。


 崩れた石壁から、黴の匂いが漂ってくる。井戸の縁には緑の苔がびっしりと生え、水面には虹色の油膜が浮かんでいた。歩く度に足元の土が湿った音を立てた。その感触が、血で濡れた地面を思い出させる。

 半開きになった扉の向こうから、冷たい風が吹き出していた。その風には古い血と腐敗した肉の匂いが混じっている。彼女の胃が反射的に収縮した。


 三年前の記憶が、突如、脳裏に浮かぶ。


 傭兵団「灰翔」の訓練場。革と鉄と汗の匂いが立ち込める。セラフィーヌの指が引き金を引くと、標的の中心に弾丸が突き刺さる。火薬の焦げた匂いが鼻腔を満たし、反動が肩を押す感触が心地よかった。

 訓練場の端でミレイユが待っている。ミレイユの栗色の髪からは石鹸の優しい香りが漂い、冷たい井戸水で顔を洗った頬は林檎のように赤く染まっていた。

「姉さん、今日も凄いね」

 その声の響きが優しく鼓膜に触れる。ミレイユの手が差し出す布巾は、洗い立ての太陽の匂いがした。

 

 だが、思い浮かんだ匂いと現実の腐臭があまりにも解離していて、現実に引き戻される。

 

 レオンが廃屋の一つに入っていく。彼の剣が鞘から半分抜かれ、いつでも戦える態勢を取っていた。その慎重な動きは、ただの若者ではない、戦いを知る者の所作だった。

「ここは安全だ。しかし――」

 レオンの声が途切れた。セラフィーヌが中を覗くと、小さな骨が散乱していた。子供の骨。白く乾いたそれらは、整然と並べられている。まるで、何かの儀式のように。

 ノエルが膝をつき、祈りを捧げた。紡がれる言葉が、静かに空気を震わせる。その声の震えに、彼自身の苦悩も滲む。

 ユリウスは壁を調べている最中、指先で何かをなぞり、眉をひそめた。

「ルミナリエの古い文字だ。『我らの魂は永遠に――』で途切れている」


 その瞬間、茂みが激しく揺れた。


 全員が武器を構える。セラフィーヌの指が銃の引き金にかかる。冷たい金属の感触が彼女に一瞬の落ち着きを与えた。


 現れたのは、一匹の狼だった。


 だが、それを狼と呼ぶのは正確ではなかった。


 毛は病的なまでに白く、まるで血が一滴も流れていないかのよう。瞳は赤く、しかしそれは獣の瞳ではない。人間の知性と苦悩が、その奥で燃えていた。立ち姿は狼でありながら、どこか人間めいた佇まいを残している。前脚の動きが、時折、手を伸ばそうとするような不自然な動作を見せた。

「待って」

 レオンが前に出た。彼は剣を鞘に収め、狼に視線を合わせ、敵意がないことを示す。その判断の速さと的確さにセラフィーヌは驚いた。

「お前は、何者だ」

 レオンの問いかけは穏やかでありながら、相手の本質を見抜こうとする鋭さを持っていた。

 すると、狼が口を開いた。人間の声が獣の喉から漏れる。

「かつては……人だった」

 その声には、喉の構造が人間とは違うためか、独特の歪みがあった。まるで、水の中から聞こえてくるような、くぐもった響きだった。

「灰の修道会の実験により、この姿に」

 セラフィーヌの手が震えた。


 記憶が現実を侵食し始める。


 灰の修道会の地下施設は空気は腐った卵のような臭いに満ちていた。灰翔の仲間達で作られた血溜まりの中にミレイユは立ち尽くす。その風貌は二足歩行ではあるものの、肌は獣の灰色、四肢には肉食獣の鋭い鉤爪があり、そのどれもが真っ赤に染っていた。ミレイユの口から漏れる声は、もはや人間のものではない。獣の唸りと人の言葉が混じり合い、耳を劈く不協和音となって響く。

 

「ころ、して」

 

 その声の中に、かつて聞いた優しい妹の声音がわずかに残っていた。それが、かえって残酷だった。

 引き金を引いた瞬間の、指にかかる抵抗の感触。火薬が爆ぜる音。弾丸が空気を切り裂く音。そして、ミレイユの体を貫く、湿った音。

 血の匂いが、今も鼻腔に残っている。温かく、鉄の味がする血が、床に広がっていく様子が、網膜に焼き付いている。


「姉さん……あり、がと……」


 ミレイユの最後の言葉。人間の瞳を取り戻した一瞬の後、光が消えていく。


 現在に戻ると、白い狼がセラフィーヌを見つめていた。その赤い瞳には理解の光が宿っていた。

「君も、大切な者を奪われたのか」

 セラフィーヌは答えられなかった。喉が見えない手で締め付けられているようだった。

 レオンが彼女の肩に手を置いた。今度は拒まれることなく。その手の温かさが、革の手袋越しにも伝わってくる。

「一人で背負わなくていいんだ」

 レオンの声は静かだったが、その中に確かな強さがあった。

 その言葉が、堰を切った。

 セラフィーヌの目から涙が溢れ出る。塩辛い涙が頬を伝い、唇に触れる。三年間、押し殺してきた悲しみが、声にならない嗚咽となって漏れ出した。

 ノエルが静かに近づき、そっと彼女の手を取った。彼の手には長い巡礼の旅が遺した傷跡が刻まれていた。人々の支えとなっていた手が優しく彼女の手を包む。

 白い狼は、ゆっくりと後ずさりを始めた。

「ルミナリエには、もっと恐ろしいものがいる」

 その警告を残し、狼は森へと消えていく。最後に振り返った時、その瞳に一瞬、人間だった頃の記憶が蘇ったように見えた。家族の温もり、友との語らい、恋人の笑顔――それらすべてを失った者の、深い悲しみが。


 セラフィーヌは左耳の耳飾りに触れた。金属の冷たさが、指先に伝わる。ミレイユが最後の誕生日に贈ってくれたもの。小さな青い石が、涙に濡れて輝いていた。

「行きましょう」

 彼女は顔を上げた。赤く腫れた目には、新たな決意が宿っていた。


 四人は再び廃墟へと向かって進み始めた。

 遠くに見える崩れた城壁が、夕日を受けて赤く染まっている。

 まるで、血に染まった記憶のように。

 吹き荒ぶ風は死者たちの最後の吐息を運んでくるような、冷たく哀しい風だった。

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