11.残された書類
宿場町の朝は、鳥の声もなく訪れた。
東の空が白み始め、建物の輪郭が闇から浮かび上がる。この町の日常ならば、井戸の釣瓶を引く音や、パン屋の竈に火を入れる音が聞こえてくるはずの時刻だった。しかし、今は日常を表すの生活を奏でる音は一切しない。レオンは宿の二階の窓から通りを見下ろしていた。まるで時間そのものが停止したかのような静寂が広がっている。
窓枠に手をかけたまま、レオンは昨夜の出来事を頭の中で整理していた。リオスの言葉、眠り続ける町の人々、そしてマリアを失ったノエルの絶望。自分には、いずれ国を守る責務がある。しかし今、その重責が以前とは違う形で肩にのしかかっていた。
階下の大広間には、眠ったままの町人たちが整然と並べられていた。宿の主人が夜通し運び込んだのだろう。その数は三十を超えている。呼吸は規則正しく、脈拍も正常。しかし、どんな刺激にも反応しない。医師が何人も呼ばれていたが、誰も原因を突き止められずに頭を抱えていた。
一方、部屋の片隅ではユリウスが小さな机に向かっていた。窓から差し込む薄明かりと蝋燭の光を頼りに、羽根ペンを走らせている。机の上には何枚もの羊皮紙が広げられ、複雑な図形と古代語の文字で埋め尽くされていた。インク壺の横には、使い古した魔術書が数冊積み上げられている。
「ユリ? 何を書いて――」
レオンが近づくと、ユリウスは手を止めずに答えた。
「遺書じゃないぞ」
軽口を叩いたが、その顔に笑みはない。充血した目は紙面から離れず、ペンを持つ手はひたすら動き続けている。
「リオスの術を解析している。奴が使った幻術、魂を操る技術、そして……」
ユリウスは言葉を切り、別の羊皮紙を引き寄せた。
「そして?」
「奴の正体について、いくつか仮説を立てた」
ユリウスが手に取った羊皮紙には、年表のようなものが書かれていた。百年前から現在に至るまでの出来事が細かに記録されている。特に目を引くのは、ルミナリエ国という名前だった。かつて存在した魔術師の国。ヴァルディアン王国によって滅ぼされた、幻の国。
「ルミナリエ国には魂を譲渡する独特の魔術があったんだ。我が国は禁術扱いとして存在だけしか残してくれなかったがな。ったく。恨むぜ、坊ちゃん」
レオンの顔色が変わった。歴史書の一節が脳裏に蘇る。百年前の侵略戦争。それはヴァルディアン王国の歴史における汚点の一つだった。
「近いうちに風紡ぎどころか領主の放蕩息子役にもお別れすることになるかもしれませんよ、レオンハルト様」
ユリウスは主君の本名を口にしながらも、視線を合わせようとしなかった。机の上の書類を整理する手つきは、いつもより乱暴でレオンはどこか息苦しさを覚えた。
レオンには二つの顔がある。
領主の息子でありながら家を飛び出し、風紡ぎを生業とする下町に生きる男。
もう一つは――
「いま滅多なこと言ったら職務放棄するからな」
ユリウスの言葉がレオンの思考を遮った。不敵に笑う従者は再び羊皮紙に向かう。
程なくして扉が勢いよく開かれ、セラフィーヌが駆け込んできた。朝の冷気と共に、土埃の匂いが室内に流れ込む。彼女の手には古びた革袋があり、中から何かが覗いていた。
「これを!」
革袋を机に置くと、数枚の書類が滑り出た。紙は経年劣化で黄ばみ、縁は擦り切れている。インクも褪せかけていたが、文字は辛うじて読めそうだった。
「町外れの廃屋で見つけたの。壁の隙間に隠されていたわ」
セラフィーヌは息を整えながら説明した。術具が仕込まれていないか廃屋の床板を一枚一枚剥がし、壁の裏まで調べた結果だという。
物音を聞きつけたノエルが部屋に入ってきたが昨夜よりも顔色が悪く、目の下には深い隈ができている。巡礼服も乱れたままで、先日までとは程遠い姿だった。
「待って! ノエルは――」
セラフィーヌが制止しようとしたが、ノエルはすでに最初の書類を手に取っていた。
『実験記録 第四七番
被験者:マリア(推定年齢八歳)
特性:通常の人間より魂の結合力が弱い。これは、器として理想的な条件である。
経過:魂の抽出は成功。しかし、完全な分離には至らず。新たな器への移植には、さらなる調整が必要。』
人を物として扱う、冷徹な記録。『被験者:マリア』という文字が、ノエルの視界を瞬時に白く塗り潰した。笑い声も、掌の温もりも、その一言で奪われていく。
レオンは二枚目の書類を広げた。この地方の詳細な地図に、赤いインクで印がつけられている。カグリス村、現在地である宿場町、そして他にも十数か所。ユリウスが地図を覗き込み、各地点の位置関係を確認し始めた。
「……奇妙な事件が起きた村ばかりだ」
ユリウスの指が地図上を移動する。印をつけられた場所を線で結ぶと、ある規則性が見えてきた。すべての地点が一つの中心を囲むように配置されている。
「実験場所か」
レオンの声は硬く、握った拳が白くなっていた。
三枚目の書類には、灰の修道会の紋章が押されていた。蝋印は今までの書類に比べると新しく、協定書と題されていた。
『協定書
灰の修道会は、研究者リオスに以下の支援を約束する。
一、実験に必要な被験者の提供
二、研究施設の使用許可
三、ヴァルディアン王国内での活動の保護
その代償として、リオスは完成した「器」の技術を、灰の修道会に提供するものとする。』
その一文ごとに、リオンの胸の奥で何かが音を立てて崩れていく。
「百年前の虐殺だけでは足りなかったというのか……」
レオンの呟きは自らの血筋に向けられた呪詛に他ならなかった。護るべき民の代わりに自分の首で贖えるのなら——そう思った刹那、ユリウスの嘲るような声が割って入る。
「馬鹿野郎、俺を不敬罪にしないためにも最後まで抗えよ」
その軽口が、ほんの僅かだが救いの手のように思えた。
窓の外を見ると、太陽は既に建物の屋根より高い位置まで昇っている。しかし、その光は妙に弱々しく、影も薄い気がした。
ユリウスが椅子からようやく立ち上がった。長時間座っていたせいか、最初の一歩がおぼつかない。机の端を掴んで体を支え、深呼吸をする。
「おかげで奴の本拠地が推測できたぞ」
彼は地図上の印を指でなぞった。すべての実験場所から等距離にある地点。そこには、かつてルミナリエ国の首都がある場所だった。
ユリウスの説明によれば、百年前の戦果で焼け落ちてからと言うものの、呪われた土地として人々に忌避されているようだった。商人も旅人も、わざわざ迂回してその場所を避ける。人々の記憶から忘れ去られた都。
「行かなければなりませんね」
ノエルが口を開いた。声は掠れていたが、意志は固い。
それは使命感というより、個人的な誓いから出た言葉だった。マリアという少女の魂を取り戻すために、彼は何でもする覚悟を決めていた。
「どのみち、このままじゃ、この町の人々も助からないわ」
セラフィーヌが腰の銃を取り出し、手入れを始めた。銃身を布で拭き、機関部に油を差す。弾倉を確認し、予備の弾薬を数える。一連の動作は機械的だが、その中に静かな決意が見える。
彼女の言葉は現実的だった。窓から見える通りでは、また新たに倒れた人が運ばれている。このままでは、いずれ町全体が眠りに落ちてしまうだろう。
町の出口に差し掛かったとき、道端に小さな花が咲いているのが目に入った。本来なら白い花弁のはずが、灰色に変色している。レオンは足を止め、その花をじっと見つめた。生命が色を失っていく。それは、この世界に起きている異変の象徴のようだった。
四人の足音が、静かな町に響く。その音は規則的で、まるで時を刻む時計のようだった。空を見上げると雲が奇妙な形を作り、引き裂かれた布のような雲が、空を不規則に覆っていた。
町を出て街道を進むと、緑豊かだったはずの草原は色褪せ、木々の葉は季節外れに落ち始めている。鳥の姿も見えず、虫の音も聞こえない。生命が、この地から逃げ出しているかのようだった。
やがて、地平線の向こうに崩れた塔の影が見え始めた。ルミナリエ国の名残。百年の時を経て、今なお立ち続ける亡国の墓標。
風が吹いた。それは冷たく、どこか腐敗した匂いを含んでいる。死の匂いではない。もっと古い、忘れられた記憶の匂い。
四人の思いは交わることなく、ただ亡国の廃墟へと収束していった。生者として為すべきことを果たすために、亡国の地へと向かっていく。