10.撤退の裏
夜の帳が完全に下りた街道は、月明かりさえ届かない深い闇に包まれていた。カグリス村から続く古い石畳の道は、長年の風雨で所々が欠け、雑草が隙間から顔を覗かせている。四人の足音だけが、静寂を破る唯一の音だった。それぞれの歩調は微妙にずれ、疲労と心の重さが、その不規則なリズムに表れていた。
ノエルが急に立ち止まった。
その動作があまりにも唐突だったため、後ろを歩いていたセラフィーヌが危うくぶつかりそうになる。淡い薄紫の髪が止まった衝撃で軽く揺れた。彼の瞳は何もない虚空を見つめている。いや、正確には、そこにあるはずのものを探していた。
「マリア……」
ノエルの声は今にも消え入りそうだった。両手は先ほどまで硝子容器を抱えていた形のまま空を抱いている。その手が微かに震え始め、やがて全身へと伝播していく。巡礼者として鍛えられた彼の精神が音を立てて崩れようとしていた。
「いつの間に……」
セラフィーヌの問いは自分自身への確認でもあった。彼女の記憶では、確かにノエルはマリアの魂を抱えていたはずだ。
「幻術の最中だ」
ユリウスが杖に寄りかかりながら答えた。彼の顔色は土気色になり、先ほどの術の反動がまだ体を蝕んでいる。魔力の枯渇は肉体的な疲労以上に術者を苦しめる。体の芯から力が抜けていき、例えるなら血液が足りない状態で無理やり活動を続けるようなものだった。
「俺が幻術を破った時には、もう遅かった。あの男は最初から容器を狙っていた」
レオンが拳を握りしめた。双剣の柄に手をかけそうになり、無意味だと悟って手を下ろす。その動作の中には風紡ぎとしての悔しさではなく、いずれ彼らを導く者としての苛立ちと無力感が滲んでいた。
「僕たちは踊らされていた。戦いそのものが、目くらましだったんだ」
自身のあるべき立場としてではなく、一人の人間として、仲間を守れなかったことへの自責の念がレオンの胸を締め付けた。
道の脇に古い石造りの祠があった。長年の風雨で表面は削れ、何を祀っていたのかも定かではない。ノエルはそこに歩み寄り、膝をついた。聖印を握りしめ、祈りの言葉を紡ごうとする。しかし、言葉は途中で途切れてしまう。
「神よ、なぜ……なぜこんなことを」
彼の声には、信仰への疑念が初めて露わになった。今まで抑え込んできた神への問いかけが、堰を切ったように溢れ出す。
「私は信じていました。どんな苦難も神の御心だと。でもこれは……これは一体何の試練なのですか」
夜風が吹き、枯れ草が音を立てる。それは、まるで世界が彼の問いに答えようとしているかのようでもあり、同時に、ただの風でしかないことを思い知らせるようでもあった。
セラフィーヌが、そっとノエルの肩に手を置いた。彼女自身、信仰とは無縁の人生を送ってきた。傭兵として、神よりも銃と自分の腕だけを信じて生きてきた。しかし、今、目の前で崩れそうになっている聖職者を見て、何か言わずにはいられなかった。
「諦めるな」
短い言葉だったが、そこには彼女なりの優しさがあった。妹を失った時、自分も同じように絶望した。その記憶が、今のノエルと重なる。
「マリアはまだ完全に失われたわけじゃない。リオスが持ち去ったということは、何か目的があるはずだ」
その言葉にノエルの瞳に微かな光が戻った。希望というには儚すぎるが、完全な絶望からは一歩後退した、そんな光だった。
ユリウスが、ふと立ち止まった。彼の視線は、来た道を振り返っている。その表情には警戒と困惑が入り混じっていた。
「ユリ?」
レオンが問いかけると、ユリウスは首を横に振った。しかし、その表情は晴れない。
「いや……ただ、妙な感覚があってな」
魔術師特有の理論では説明できない直感。それが彼に何かを告げている。見えない視線に晒されているような、肌がちりちりと焼けるような感覚。
「まるで俺だけを見ているような……」
リオスから向けられた針のような殺意がまだ自分を追いかけてくるようだった。
やがて、小さな宿場町の灯りが見えてきた。松明の光が夜の闇を僅かに押し返している。人の営みの証である煙が家々の煙突から立ち上る。それは、まだこの世界に日常が残っていることを示す、ささやかな希望の光だった。
宿場町の入り口には古い木造の門があり、夜間は閉じられているはずだが、何故か今夜は開いていた。門番の姿もない。不自然な静けさが町全体を包んでいる。
「罠か」
セラフィーヌが銃に手をかけた。長年の傭兵生活が培った危機察知能力が警鐘を鳴らしている。
しかし、レオンは首を振った。
「いや、違う。これは……」
彼の言葉を遮るように、町の中から人影が現れた。それは宿の主人らしき初老の男だった。顔には深い疲労の色が浮かんでいる。
「旅の方々、こんな夜更けに申し訳ございません。実は町で奇妙なことが起きておりまして」
男の声は、恐怖と困惑に震えていた。
「今朝から町の者たちが次々と眠りに落ちて、起きなくなってしまったのです。医者も、薬師も、誰も原因が分からず……」
四人は顔を見合わせた。これは偶然ではない。リオスの……あるいは灰の修道会の仕業に違いない。
町へ足を踏み入れると、確かに異様な雰囲気が漂っていた。通りに人影はなく、家々の窓から漏れる灯りも弱々しい。まるで、町全体が深い眠りに落ちようとしているかのようだった。
宿の大広間には眠ったまま目覚めない人々が寝かされていた。その数は二十を超える。老若男女、様々な人々が、まるで死んだように静かに横たわっている。しかし、胸は確かに上下し、心臓は動くことを止めていないようだった。
ノエルが一人の少女に近づき、額に手を当てた。聖なる光が、微かに少女を包む。しかし、反応はない。
「これは――」
ノエルの顔が青ざめた。
「魂が体から離れかけています……。いや、正確には、何かに引っ張られているような……」
ユリウスも別の患者を調べていた。持ちうる限りの知識を総動員し、原因を探る。
「指先に触れた瞬間、細い糸が少女をどこかへ引きずろうとするのが見えた。……これは遠隔の術式だ。村の何処かに術具が仕掛けられているはずだろう。もしくは――」
その時、宿の扉が開いた。
入ってきたのは一人の旅人だった。フードを深く被り、顔は見えない。しかし、その歩き方、その佇まいに、四人は既視感を覚えた。
旅人は視線を気にも留めることなくフードを下ろす。
リオスだった。
しかし、今度は戦いに来たようではなかった。彼の表情は、どこか物憂げで疲れているようにも見えた。
「心配しなくていい。この町の人々に害を加えるつもりはない」
リオスの声は、先ほどまでの狂気じみた調子ではなく、静かで落ち着いていた。
「少し力を借りているだけさ。マリアの魂を新しい器に定着させるためにね」
ノエルが立ち上がった。聖印が、彼の怒りに呼応するように輝く。
「マリアを返しなさい!」
ノエルの声が裏返り、聖印を握る指先から血が滲む。
しかし、リオスは首を振った。
「それはできない。彼女は新しい世界への扉を開く鍵なんだ」
彼の瞳に、一瞬、深い悲しみが浮かんだ。それは、演技ではない、本物の感情のように見えた。
「失った声たちが夜ごと胸を裂く。……その痛み、キミたちに分かるか」
その言葉にセラフィーヌが反応した。
「あんたは一体……」
リオスは答えなかった。代わりに、窓の外を見つめる。そこには星のない真っ暗な空が広がっていた。
「もうすぐだ。もうすぐ、全てが変わる」
彼の姿が再び揺らぎ始めた。今度こそ本当に去るようだ。
しかし、消える直前、彼の視線がユリウスに向けられた。
「ユリウス」
リオスが名前を呼んだ。
「貴様は邪魔だ」
その一言を残して、リオスの姿は完全に消えた。
残されたのは、眠り続ける町の人々と困惑する四人だけだった。
「……白手袋くらい投げてみせろよ、腰抜け野郎」
ユリウスはリオスがいた場所に吐き捨て、一人、宿の外へと出ていった。
震える手を誤魔化すように強く杖を握りしめる。なぜ自分だけが標的にされるのか。その理由が分からない。しかし、一つだけ確かなことがあった。
リオスは本気で自分を殺しに来る。
ユリウスの胸の奥に沈んだ予感という鉄の塊は、まだ冷え切らぬまま重く残っている様を月だけが見ていた。
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同じ夜空の下、同じ月を見上げる男が一人佇んでいた。
そこは、かつて栄えた魔術都市の廃墟だった。崩れた塔が、巨人の墓標のように立ち並ぶ。風化した魔法陣が地面にうっすらと残っている。百年前、ここで何があったのか、今では知る者も少ない。
男の手には、灰色の炎のようなものが入った容器があった。鈍い光が彼の顔を下から照らす。その顔は理性と狂気が同じ仮面に宿っていた。
「もう少しだ、リシェル」
リシェル。それは、かつて愛した者の名前だった。百年前に失われ、今も彼の心に生き続ける、たった一人の存在。
月が翳ると影にあわせて、ゆっくりと男の姿が変化した。煤けた茶髪が銀髪に変わり、暗灰色の瞳は深い紫色に変わる。そして、再び月に照らされると何事も無かったかのように、すぐに元の姿に戻った。それは彼が纏っている仮面が、時折剥がれかける瞬間だった。
「番犬め」
男の瞳が鋭く、そして冷たさを帯びる。
「奴は危険だ。魔力、知識、奴の存在そのものが計画の障害になる」
男は容器を胸に抱いた。灰色の炎が微かに震える。それは、恐怖なのか、それとも別の感情なのか分からない。
「でも、まだ時期ではない。まずは器を完成させなければ」
廃墟の奥に巨大な魔法陣が描かれていた。それはこの都市と共に年月を経たものではない。男がこの数年をかけて作り上げたものだった。複雑な幾何学模様と古代文字が織りなす、禁忌の術式。
その中央に、人の形をした何かが横たわっている。それは、土と魔力で作られた不完全な人形だった。しかし、少しずつ人間らしい形を取り始めている。
「もうすぐ完成する。完璧な器が」
男の声には、狂おしいまでの執着があった。
「あと少しだけ待っててくれ。君たちを蘇らせる。リシェル、そして、我が同胞たちよ」
月が雲間から顔を出した。青白い光が、廃墟を照らす。それは死者の国から漏れる光のようでもあり、新しい命の胎動のようでもあった。
男は容器に手を翳し、もう一方の手は人形に向けて魔力を注ぎ込んでいく。その行為は神の領域を侵す究極の冒涜であり、彼にとっては唯一の救済だった。
遠くで狼が吠える。悲しみの遠吠えのようでもあり、警告のようでもあった。
世界の均衡が、少しずつ崩れ始めている。
その中心には一人の男の狂おしい愛と果てしない孤独があった。