夜行の果てに夢を連れて
終電のホームは、どこか夢の中のように静かだった。蛍光灯の白い光がホームの端に向かってゆっくりと吸い込まれていく。
誰もいないホーム。最後に残った僕は、まるで世界から取り残されたような感覚によく陥る。
別に珍しいことじゃない。仕事で帰りが遅くなれば、こうして終電に揺られることになる。
僕は電車の中で、よく眠りにつく。疲れた体を癒すにはそれが一番手っ取り早いから。
けれど、その夜は違った。眠気はあるのに、意識は妙に澄んでいた。身体だけが重たくて、まぶたが落ちてくる。自分が座っている感覚もどこか曖昧になっていく。
体が浮くような感覚と共に僕の視界は闇に沈んだ。
目を開けると、そこは電車の中ではなかった。
——青空。風の匂い。石畳の感触。
僕は、草の生えた丘の上に座っていた。鉄とガラスでできた車内の気配はなく、代わりに広がっていたのは、まるで絵本の挿絵みたいな穏やかな丘陵地帯だった。
「……ここは……?」
自分の声が風にかき消される。自分がどこにいるのかも、どうしてこんなところにいるのかもわからなかった。ただ、夢だろうということだけはわかった。不思議なことに、それを受け入れるのに時間はかからなかった。僕は今までもこんな夢を見たことがある気がする。
「——おい、君、大丈夫か?」
声がした。振り返ると、馬に乗った男がいた。濃紺の軍服を着ていて、年齢は三十代半ばくらいだろうか。目が合った瞬間、彼の瞳がわずかに揺れた。
「異邦人、か……。珍しい」
男は馬から下りて、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。人懐っこさとは違う、穏やかで礼儀正しい雰囲気。だが、その声にはどこか警戒心も感じられた。
「名前は?」
「……いや、覚えてない」
咄嗟にそう答えた。本当は名前くらい覚えていた。でも、名乗るのが妙に怖かった。自分が“ここ”の住人じゃないと知られるのが、なぜかいけないことのように思えた。
「なるほど。記憶のない異邦人、か。よくある話だ」
男はあっさりと納得し、右手を差し出してきた。
「僕はアレク・ヴァレンティア。この国の第三公爵家に連なる者だ。君はこの国に訪れた。ならば当面の保護責任は僕にある。……安心してくれ」
アレクは優しく笑い、僕の手を軽く握った。その手はあたたかく、どこか人間らしすぎるほどのぬくもりがあった。夢の中の人物にしては妙に生々しい感触だった。
そのまま馬に乗せられ、僕はアレクの屋敷へと向かった。
ヴァレンティア家の屋敷は、予想していたよりもずっと質素だった。重厚な石造りの外観と、高い窓、調度品は一流なのに、どこか温かみがあった。僕は客人用の部屋に案内され、僕は椅子に腰を下ろした。
少し待つと暖かいスープの匂いが漂っていた。ドアを開けると、アレクが自ら食事を運んできていた。
「この国は、他の国に比べて空気が重たいだろう?」
「ありがとう。……君は、僕が“異邦人”だって最初から思ってたの?」
「君の服を見れば、わかるさ。どこかのお偉いさんしかそんな格好はしないからね」
僕はその時はじめて、自分の格好を意識した。スーツ姿。革靴。どう考えても違和感がある
僕は少しずつこの国のことを知っていった。
この国は「セレヴィア」と呼ばれ、大小の王家や貴族が連なる“裂けた王国”だという。アレクはその中でも特に独立性の強い地域を治める公爵であり、戦時にも王家に対して一定の発言力を持つ立場らしい。
その後、僕は外に出た。庭には数本の剣が地面に突き刺さっている
「あれは?」
「仲間たちの墓だよ。戦争で帰れなくなった、戦いに取り残されたものたちの」
その時、ほんの一瞬、アレクの表情に陰が差した。
そして、僕は気づいた。——この世界は、僕が思っていたほど“夢”じゃない。
ここで生きる人たちにとっては、現実と変わらない。
それなら、僕は一体どこに属しているのだろう?
この丘と空と、人々と、そしてアレクと話す時間のほうが、本当の自分のような気がしていた。
ふと空を見上げると二つの月が出ていた。
どちらも赤く、まるで血のように空を照らしている。
「また、この夢を見るのかな」
僕は小さくつぶやいて、目を閉じた。
◆
またこの夢を見た時、僕は同じように電車に乗っていた。
夢の中でのアレクの屋敷で過ごす日々は、奇妙な穏やかさに満ちていた。
朝は小鳥の声と共に目覚め、窓の外には見たこともない花々が咲いていた。風は甘く、草原の香りを運んでくる。時折、空に浮かぶ二つの月を眺めていると、ここが夢であることさえ忘れそうになる。
僕はその国で仲間に出会うことになる
僕が最初に出会った仲間は、剣士だった。
名前はラグナル。年齢は二十代後半、長身で銀色の髪をひとまとめに結っていた。言葉は少なく、表情も冷たい印象だったが、剣を振るう姿には迷いがなかった。
彼と初めて顔を合わせたのは、屋敷の訓練場だった。
「君が異邦人か」
「……君は?」
「戦争で帰る場所を失った剣士だ。雇われて今はヴァレンティアにいる。……気にするな、俺は誰にも興味がない」
そう言って、彼は黙々と剣を振った。
だが、アレクの話によると、彼には弟がいたらしい。故郷で起きた戦火に巻き込まれ、彼だけが生き残ったという。剣は、彼にとって生き延びるための器だったのかもしれない。
その夜、僕が一人で庭を歩いていると、ラグナルが独り言のように呟いた。
「……あんたの目、少しだけ弟に似てる。だから気に入らないのかもしれん」
それが、彼なりの第一歩だったのかもしれない。
次に出会ったのは、魔導士のキリヤ。年齢不詳、見た目は十代半ばにも見えたが、言葉には年輪のような重みがあった。
彼女が屋敷に現れたのはある日、アレクが「旧友からの頼まれごとで」と言って連れてきた時だった。
「へぇ、これが異邦人ってやつか。意外と普通の人間ね。目の奥は……ちょっとだけ違うけど」
彼女は瞳の奥まで僕を覗き込むように見つめ、笑った。
魔導士の家系に生まれたが、彼女の才能は規格外だったらしい。あまりに異質すぎて、同胞からも恐れられ、今は旅の中で“知の断片”を集めているのだという。
「夢を見る力。あるいは、境界を越える魂。どちらにしても面白い存在よね、あなた」
僕が彼女の言葉に戸惑っていると、キリヤは何でもないように言った。
「だから少しだけ、一緒にいてあげる。興味がなくなったら離れるわ。魔導士ってそういう生き物だから」
飄々とした態度の裏に、深い孤独が透けて見えた。
そして、盗賊のミオに出会ったのは、少し後のことだった。
彼女は、屋敷の地下に忍び込んでいた。小柄で、猫のような俊敏さと警戒心を持った目をしていた。
「待った! やめて、殺さないで! ちょっと地図が欲しかっただけだから!」
捕らえられた彼女は、やけに明るい口調でそう叫んだ。アレクは軽く笑って言った。
「どうする? 僕は許すつもりだよ。情報と交換ならね」
ミオは生きるために盗賊になった。かつては王都の貧民街にいたが、裏社会の情報を集めるうちに自然と“使われる側”から“動く側”になったらしい。
「君たち、旅に出るんでしょ? アタシの足と耳を使わない手はないよ?」
その目には、打算だけじゃない何かがあった。居場所を探しているような、そんな光。
僕は気づけば、彼女を迎え入れていた。
三人。剣士、魔導士、盗賊。
彼らにはそれぞれの過去があり、傷があり、それでもこの世界で生きようとしている。
夢であるはずのこの場所に、彼らという“実在”があることが、僕にはたまらなく不思議だった。
ある夜、四人で食事を囲んだ。
アレクは静かにワインを口にしながら言った。
「君を保護してからこの屋敷には笑い声が増えた。昔の俺には想像もできなかったことだ」
夢でしか会えない人たち。
けれど、夢よりもずっと鮮やかで、現実よりも確かに感じられる彼ら。
——ここで、僕は何を見つけようとしているんだろう。
答えはまだわからない。
でも、その夜、彼らと同じテーブルで笑っていた自分は、間違いなく“僕”だった。
そして、夜は静かに更けていった。
◆◆
僕がまたこの夢を見るにはそう長くはかからなかった。
そして僕たちが“あの城”に向かうことになったのは、ある報せが届いたからだった。
アレクのもとに、一通の書簡が届けられた。小さな村の子どもたちが失踪し、最後に見かけられたのが王国北部にある、古城の周辺だったという。今は誰も使っていないはずの城。その名前を聞いた瞬間、アレクの眉がかすかに動いた。
「――あの城は、忘れられたはずだったんだがな」
「何か知ってるのか?」
僕の問いに、アレクは静かに頷いた。
「かつて、王族の一支系が住んでいた場所だよ。だが、ある夜を境に全員が姿を消した。以来、あそこは“迷宮”と呼ばれている。空間が歪み、時間が揺らぎ、何が本当かもわからなくなる……そんな噂がある」
「行くのか?」
「放ってはおけない。異邦人――君も来てくれるな?」
僕は頷いていた。
何かが、その場所で僕を待っている気がした。
それは運命のようなものではなく、もっと静かな確信だった。
僕がこの夢を見る理由の一つが、あの城にある気がしてならなかった。
旅の初日は穏やかだった。
空は広く、風は高原の匂いを含んでいた。見たこともない花が道の両脇に咲き、空には巨大な鳥の群れが弧を描いていた。背中に荷物を担いだラグナルは無言で歩き、キリヤは本を開いたまま馬に揺られていた。ミオは後ろから馬車の屋根に寝転び、口笛を吹いている。
アレクは僕の隣を歩いていた。
「こうして歩くのは久しぶりだな。城の仕事が多すぎてね」
「意外だね、僕が君と会ったのは君が外にいた時なのに」
「それももう一年前だろ?」
一年前?僕が夢の中で君と会ったのはそんな前なはずないのに……
「……それにしても何か起きる気がしてならない。あの城は、ただの廃墟ではない。そう思わないか?」
僕は答えなかった。答えられなかった。
時間それは“夢を見る者”には感じられない感覚だったから。
道中、小さな村に立ち寄った。
村の人々は、最初は警戒していたが、アレクの名を聞くと一変したように迎えてくれた。村の子どもたちの中に、ミオが紛れて遊び始める。キリヤは魔法陣で作った光の蝶を見せて、子どもたちを笑わせた。ラグナルは子どもに剣を持たせ、「構えだけは教えてやる」と渋々手ほどきを始める。
僕はその光景を、少し離れた場所から見つめていた。
温かく、賑やかで、まるで現実のようだった。
けれど、これが夢だと知っているのは、僕だけだ。
僕が目覚めれば、この光景も、彼らの声も、消えてしまう。
――それが、怖かった。
出発の少し前、村の宿で焚き火を囲んでいた時、ふいにキリヤが口を開いた。
「ねぇ、“異邦人”」
「ん?」
「あなた、ずっと夢みたいな顔してる。ここにいながら、ここにいないみたい。……それ、どうして?」
僕は心臓を掴まれたような気がして、何も言えなかった。
キリヤはじっと僕を見ていたが、やがて肩をすくめた。
「ま、いいわ。答えたくなければ。それでも、少しずつ滲み出てるのよ、あなたの“違い”は」
ラグナルが煙草をくゆらせながら、火を見つめていた。
「こいつが“違う”のは最初から分かってたさ。けど、剣を振る理由を持ってる。俺にはそれで十分だ」
ミオが膝を抱えて笑う。
「ま、面白ければいいでしょ? アタシはこの旅、けっこう気に入ってるんだから」
アレクは火の向こうで、静かに頷いた。
「異邦人……いや、君。君はもう、僕たちの“仲間”だよ」
火の揺らぎが皆の顔を照らし、そして闇に溶けていく。
僕はこの夜のことを、ずっと忘れられない気がしていた。
◆◆◆
城が見えた。
山の影にそびえる古びた要塞。崩れかけた外壁、絡まる蔦、砕けた門。だが、その周囲だけが奇妙に静かだった。鳥の声も、風の音も、消えている。
僕の足が、一歩、止まった。
「……あれが、迷宮の城か」
ミオがぽつりと呟き、キリヤが本を閉じた。
「空気の流れが止まってる。魔術的な干渉……いや、もっと古くて複雑」
ラグナルが剣の柄に手をかける。
「妙だ。風の音がしない」
アレクはひと呼吸置いてから、口を開いた。
「ここから先は、何があっても、互いを信じること。空間が歪み、時間が曲がっても、“仲間”を疑わないように。それだけは忘れないでくれ」
僕は城を見つめながら、胸の奥で何かがざわつくのを感じた。
この場所には、何かが“いる”。
何かが“待っている”。
夢の中の旅が、やっと本当の意味で始まる――そんな気がしてならなかった。
僕たちは、静寂の中、古城の門をくぐった。
門をくぐった瞬間、空気の密度が変わった。
ひんやりとした気温。何かが肌を撫でる感触。
静寂。あまりにも不自然なほどの、静寂だった。
「……音が、消えてる」
キリヤがそっと呟く。
ミオがすぐに頷いた。「足音だけが響いてる。まるで、水の底みたいだよ」
アレクは前に立ち、周囲を警戒しながら進む。
僕たちは重たい沈黙を背負いながら、城内へと足を踏み入れた。
床の石は冷たく、壁は煤け、長い年月の気配を感じさせる。けれど、埃はない。まるで“昨日”誰かがここを歩いたかのように、廊下は整然としていた。
「妙に綺麗すぎる。人の手が入っている……?」
ラグナルが低く唸った。
「いや、手入れはされてない。でも、ここに“意志”がある。建物自体が、生きてるような……」
僕の言葉に、仲間たちは一瞬黙ったが、否定はしなかった。
最初は、何も起こらなかった。
城の奥へ進むにつれ、空間は不自然に静まり返っていた。誰もいない。扉も鍵も開いている。けれど、そこには“視線”のようなものがあった。誰かがこちらを見ている感覚。背中にまとわりつくような違和感。
そして、ある部屋に足を踏み入れた時――歪みが、始まった。
進んでいくうちに、部屋の形が“おかしく”なってきた。
通路が十字に分岐して、どこに進んでも同じ場所に戻ってくる。廊下が無限にループする。開いたドアから同じ自分たちが出てくる錯覚。
ミオがふざけて、開いたドアの向こうの“自分”に手を振ったら、その“自分”が本当に返してきて、数秒後に青ざめていた。
「え、今の、私じゃなかったよね!? ガチのやつだよね!?」
「安心しろ。お前がもう一人いたって、面倒なだけだから」
「さすがにもう一人分も私の世話はできない!」
「いや、誰も頼んでねぇから!」
わちゃわちゃしてる中で、アレクが立ち止まった。
「……気をつけろ。気配が、変わった」
空気の密度が一段と濃くなる。
静寂が破られる直前の“圧”が、そこにあった。
そして――音もなく、闇が動いた。
血の匂い。獣の咆哮。
「来るぞ!」
ラグナルが叫び、剣を抜いた瞬間、闇の奥から“それ”が飛び出してきた。
全身を黒いマントで覆い、目だけが赤く光っている。牙を剥き、異様な俊敏さで跳躍し、キリヤの方へと飛んできた。
「くっ……!」
キリヤが魔法陣を展開し、光の盾を放つ。だが相手は盾ごと貫いてきた。
「早すぎる!」
僕も咄嗟に剣を抜いて飛び込む。訓練を受けた訳でもない身体が、それでも動いたのは、夢の中だからなのか。それとも。
吸血鬼は人間の数倍の力と速度を持ち、まるで影のように揺れ動く。ラグナルとアレクが前衛に立ち、僕は後方から隙をうかがう。キリヤが支援魔法を唱え、空間に緊張が走る。
その時――
「――やめなさい」
空気が、凍った。
全ての気配が一瞬で静まった。
城の奥、広間の奥に、彼女は立っていた。
吸血鬼の女王。
腰まで届く銀髪。紅の瞳。長いドレスをまとい、まるで夜の女神のようにそこにいた。
「……久しぶりね、人間たち。とても、懐かしい匂いがするわ」
彼女の視線が、僕を貫いた。
「あなた……興味深い“匂い”がするわ。普通じゃない。ねえ、あなたは……どこから来たの?」
僕は口を閉ざした。
けれど、彼女は一歩近づいた。
「この世界のものじゃないわね。ふふ、面白い。早く来なさい。城の奥で待ってるわ」
女王は、ふわりと消えるように姿を消した。
静寂だけが残された。
「……あのさ」
ミオが言った。
「吸血鬼の女王がめっちゃくちゃ美人だった件について、誰も触れないの?」
「いや、めちゃくちゃ気になってたけど今は戦闘の後だし空気読んでた」
「俺、ちょっと惚れかけた。危うく“牙生やしてくれ”って言いそうになった」
「うわあ、それはない」
「え、ないの!?」
「……うん、ない」
僕は苦笑しながら、傷ついた剣を鞘に収めた。
この世界は、確かに夢のはずなのに――
なぜか、僕たちの笑い声が、現実よりずっと“生きて”いた。
◆◆◆◆
次に目を開いた時、空間が静かに歪んでいた。
壁が斜めに延び、床が微かに波打つ。歩くたびに靴音が吸い込まれ、天井の燭台が何度もかすかに明滅する。
誰も言葉を発しなかった。
城に入ったとき、確かにそこには人の営みの名残があった。石の皿、半ば朽ちかけたタペストリー、埃をかぶった楽器。けれど、今はすべてが沈黙に包まれていた。
「……ここが、あの吸血鬼がいる場所か」
アレクが低く呟いた。
彼の声が、この異様な空間に吸い込まれ、重たく響いた。
僕はうなずいた。
ここにあいつがいる。そう確信していた。
そして、最奥の扉の前に立ったとき、それは現れた。
開かれた玉座の間。その中央に、女王は静かに佇んでいた。
赤い衣を纏い、長い黒髪を背に垂らし、月のない夜のような瞳でこちらを見つめている。
「よく来たわね。異邦の者たち」
その声は、冷たくも柔らかく、確かな輪郭をもって僕の意識を撫でていった。
「君は……」
口にした瞬間、彼女の唇がゆるやかに歪んだ。
「ええ。あなたが何者なのか、だいたい分かるわ。けれど、それを問いはしない。私は、あなたが“ここにいる”ことを受け入れているだけ」
言葉の奥に、何かが含まれていた。
それが情か、興味か、それとも諦めか……僕には判断がつかなかった。
「セレヴィアの各地に広がる悪、この城の全て……あなたが原因なのか?」
アレクが一歩、前に出た。
彼の声は毅然としていた。けれど、視線の奥に微かな不安があった。彼も、この空間にただならぬものを感じ取っているのだろう。
「原因……そうね。私が“呼び起こした”のは確か。でも、望んだわけではない。私もまた、運命の潮流に逆らえなかっただけ」
彼女の言葉は、謎めいていた。それでも、嘘ではないと直感できた。
そのとき、空間に裂け目が生まれた。黒い霧が走り、城の護衛である吸血鬼たちが姿を現す。
「やはり……戦わざるを得ないのか」
アレクが剣を抜いた。
その隣で、仲間たちが武器を構える。キリヤの術式が空中に広がり、ミオが静かに杖を構えた。
戦いは一瞬だった。吸血鬼たちは獣のような速さと力で襲いかかり、僕たちはそれを必死に退けた。
けれど、それでも避けられない瞬間があった。
一本の闇の槍が、僕を正確に貫こうとした。
視界が赤に染まり、空間がねじれる。
逃げられなかった。
僕の体に冷たい痛みが走った。胸を突き刺すその感覚は、生々しい現実だった。
冷たいものが、体の中に流れ込む感覚があった。
痛みは、もう感じなかった。ただ、重く、沈み込むような眠気が襲ってきた。
膝をついた僕のそばに、誰かが駆け寄ってくる。
「……やはり」
その声は、女王のものだった。
「あなたはきっと“還ってくる”。望まずとも、この地に選ばれたのでしょう?」
彼女は、膝をつき、僕の顔をのぞき込んだ。
女王は、胸元からペンダントを取り出した。
血のように赤く輝く宝石。その中心で、脈打つように光が波打っていた。
声が出ない。どうゆう意味なのか。なぜこの世界が夢だと知っているのか。聞きたいことは山ほどあった。
「これはこの世界の記録だよ。もっともこれをどうするべきなのかは私にはわからなかったがね」
意識が途切れる。
最後に聞こえたのは、風の音と、誰かが僕の名を呼ぶ声だった。
そして、僕は目を覚ました。
終電の車両。
誰もいない夜のホーム。人工灯の白さが、夢を遠ざけていく。
だが、ポケットの中には――あの赤いペンダントがあった。
◆◆◆◆◆
終電のドアが閉まり、電車は静かに走り出す。
揺れる車内、目を閉じれば、またあの丘に辿り着けるかもしれない。
そう信じて、眠ろうとした。
けれど──
何も起きなかった。
以来、夢は訪れなかった。
一週間。二週間。月をまたいでも、あの世界は沈黙を続けた。
終電に乗っても、眠っても、あの丘も、公爵の屋敷も、草の匂いも、風の音も──何ひとつ、現れなかった。
夢が終わったんだ、と。
心のどこかでは、そう思った。
でも、胸の奥が拒んでいた。
「……そんなわけが、あるかよ」
独り言のように呟いて、ペンダントを握る。
現実に在るそれは、夢の記憶の証であり、逆説的に夢ではなかった証明でもあった。
日常は何も変わらない。
変わらないはずなのに、すべてが色褪せて見えた。
アレクの静かな瞳。
キリヤの無邪気な毒舌。
ラグナルの重厚な背中。
ミオの照れ隠しの笑顔。
あの時間は、もう還ってこないのだろうか。
僕だけが「起きて」、彼らは「夢の中」で、時間を進めている。
あるいは、僕が目を離したすきに、何か取り返しのつかないことが起きたのではないか──そんな不安が、日に日に募っていく。
それでも、夢は訪れない。
そしてある晩、深夜のホームで、電車に揺られた僕は、ようやく再び目を閉じ、あの風を感じた。
久しぶりに目を開けた“夢の中”は──
まるで別の世界だった。
空はどこまでも重く、曇りきっていた。
土は乾いてひび割れ、かつて生い茂っていた草原は、灰のように枯れている。
人々の表情も違った。
街の空気は、まるで戦場のようだった。
最初に出会ったのは、城門前で警備をしていた兵士だった。
「……君は……もしかして、かつて公爵の屋敷にいた“異邦の客”か?」
僕が頷くと、兵士の表情は一瞬だけ揺れ、そして目を伏せた。
「……彼らはもういない」
「……え?」
「公爵アレク・ヴァレンティアは、第二戦線の包囲により戦死した。……剣士ラグナルも、魔導士キリヤも、ミオも──皆、セレヴィアの地を護るために、命を落としたと聞いている」
空気が止まった。
心臓の音がうるさかった。
口が乾き、言葉が出てこなかった。
「……いつの話ですか?」
「およそ、一年と半ば前。君が姿を消してから、戦況は急激に悪化した。公爵殿が前線に出たのは、死んだ仲間にせめてもの報いをとのことだと……」
「死んだ仲間というのは?」
「きっとあなたのことだ。“異邦の客”よ」
夢の中なのに、あまりにも現実すぎた。
いや、僕にとっては現実よりも、ここが“確かだった”。
死んだ。
僕がいない間に。
僕が夢を見ないでいた、そのわずかな時間の中で──
「……嘘だろ」
僕は歩いた。
かつて皆で歩いた街を。
笑い合った宿を。
剣を交えた庭を。
あの丘の上を。
どこも、空虚だった。
すべてが過去になっていた。
風だけが吹いていた。
ひとつも変わらず、吹いていた。
なぜ、僕は戻ってこれなかったのか。
なぜ、こんなにも遅れてしまったのか。
思考は巡り、何度も自問した。
ただ、ペンダントだけが胸の奥で、静かに揺れていた。
「このペンダント……どうすればいいんだ」
その時、僕は思い出した。このペンダントはこの世界の記録。あの吸血鬼はなぜこれを僕に渡したんだ?
僕は真相を聞きに行くために、過去自分がいた城を目指した
城は、以前とはまったく違っていた。壁は崩れ、無数の蔓が侵食し、玉座の間までもが虚ろな霧に包まれていた。
ペンダントの光が弱々しく揺れ、あの城の“変化”を示しているようだった。
玉座の間に足を踏み入れると、そこには女王がいた。しかし、その表情は疲れきっていた。
かつての凛とした微笑みは消え、右肩に深い傷痕が刻まれている。
彼女は静かに言った。
「この世界も、私も、変わったのよ」
そしてぽつりと続けた──
「お前は今、この状況をどうするんだ?」と問いが降る。
目に見えない時間と領域を越えて、僕はペンダントを凝視した。
「世界の記録。そしてこの世界を創造した僕になら、一から何か変えらかもしれない。力を貸してくれ」
女王はゆっくりと頷いた。
「ありがとう――それが、最後の望みだった」
空間が揺れ、城中の霧が収束しはじめる。
ペンダントは温度を上げ、二つの月の光が差し込み、黒ずんでいた草原に白い光を落とした。
夢の世界は、僕の決意を受け入れようとしていたのだろうか。
僕は流れ込んでくる世界の記憶を僕は一から全て観る。何が始まりどうゆう経緯でそうなったのかを全て。
“夢の中”だということを、僕は忘れなかった。
けれど、彼らにとっては“現実”だった。
僕がこの世界に干渉することで、確かに何かが変わってしまう。しかし、そんなことはどうでも良かった。この世界にもともと僕はいなかった。
でも、ここは僕の夢の中だ。それなら絶対にハッピーエンドを目指すべきだ。
僕は一から全てを作り直した
目が覚めると、また終電のホームだった。
でも、空気が違っていた。
ペンダントは消えていた。
けれど、胸の奥に、今も灯るような感覚がある。
彼らは“夢”ではなかった。
僕が変えた、たしかな“生”だった。
仲間は僕のことを覚えていないだろう。それでも構わない。生きていることがとても大切なことのように思えた。
◆◆◆◆◆◆
それから長い時間が過ぎた。
あのペンダントも、あの丘の匂いも、あの人々の声も、少しずつ輪郭を失っていった。
朝に目覚め、歯を磨き、電車に乗り、デスクに座る。
退屈ではないけれど、どこか静かで、平坦な日々。
その中で、僕は確かに“現実”を生きていた。
夢のことを思い出そうとすると、胸のあたりがひやりとする。
けれど、もうあの世界の入口は、二度と開かれないと思っていた。
だから僕は、忘れていったのだ。
夢の名前も。あの丘の名も。誰かの笑い声も。
けれど——。
ある日、僕はまた終電に乗っていた。
その日も仕事は遅く、頭の芯がじんじんと重たかった。
電車の揺れの中で、まぶたが落ちる。
どこかで聞いたような音がする。風の音。誰かの足音。
——目を開けると、そこは。
懐かしい草の香り。遠くで光る双月。丘の上の石畳。
澄んだ風が頬を撫でた。
右手には古びた剣の柄、左手にはくたびれた皮の鞄。
そして、聞こえた。
「やっと起きたか、相棒」
振り向くと、そこにアレクが立っていた。公爵のような面影はなく、ただの冒険者のような。しかし陽の光を背にして、変わらぬ微笑を浮かべて。
その隣には、あの剣士。魔導士。盗賊。
全員が揃っていた。
「お前、寝すぎだよ。昨日の宿じゃイビキすごかったしな」
「ほら、さっさと来なよ。また旅が始まるってのに、あんたが一番遅いんだから」
僕は言葉が出なかった。心の奥がぐらりと揺れた。
思い出すような、でもそれは思い出ではなかった。
ああ、僕たちは今、旅の途中なんだ。
またここに戻ってきた。いや、“ここ”にいたのかもしれない。
「……どこへ行く?」
アレクがふっと空を仰いだ。
「決まってないさ。でも、行く先は俺たちで決める。それでいいんだろ?」
僕は頷いた。理由なんて要らなかった。
ここが夢でも、現実でも、どちらでもいい。
僕たちはまた旅に出るのだ。
この風の中を。あの丘を越えて。どこかまだ知らない場所へ。
足を踏み出した瞬間、草の匂いが懐かしく胸を刺した。
涙が出たような気がしたが、風がすぐに拭っていった。
そして僕たちは歩き出す。あの世界を、再び。
夢の中の旅は、もう一度始まった。
了
最後まで読んでいただきありがとうございます。
夢の中の物語について
短編を書いてみようかなと思い至りました
応援していただけたら幸いです。