国際政治学者・三浦瑠麗について
国際政治学者の三浦瑠麗が、夫が詐欺容疑で家宅捜索を受けたのをきっかけに、テレビ番組を降ろされたようだ。
更には、夫の三浦清志の弁護士は、統一教会の弁護士だというのも判明している。統一教会は霊感商法などで問題視されている団体だ。
三浦瑠麗には他にも色々疑惑があるが、書いていたらキリがないので、興味のある人はネットで検索して見て欲しい。
私は三浦瑠麗という人は、悪い意味で(やばい人だな)と思ってた。バラエティ番組に出て、やたらセレブアピールをして、「自分は庶民とは違うんですよ」というのをことさらに強調していたが、そういう本人は庶民に対して、テレビ番組やSNSなどで積極的に訴えかけるによって自分の地位を保っていたわけで、つまりは、軽蔑する「庶民」に支えられて今の地位があるわけだから、根っこの部分は庶民と同一だと言える。
この構造に関してはホリエモンなんかも同じで、ホリエモンはいつも、自分が賢い、優れているというアピールをする。しかし、ホリエモン信者の時点で、申し訳ないが、その人間は賢くない人物だというのがはっきりしており、だから、ホリエモンは賢くない人間に対して賢いアピールをしている事になる。
賢くない人間に対して賢いアピールをして、自分の地位を保つのはそれはそれで結構だが、結局、そんな場所に安住している人というのは、賢い人間なわけがない。賢い人間なら愚かな人間の称賛をいくら集めた所で虚しいのがわかっているから、いずれその場を退くはずだ。その場所に居続けるというのは、ホリエモン自身も庶民的な人物だからだ。
三浦瑠麗に関しては急にメディアに出てきた経緯もあり(なんだろう、この人?)と思っていた。興味が出て調べたのが、統一教会の問題が持ち上がった時で、東浩紀と共に三浦瑠麗の発言が炎上して、それで三浦瑠麗のツイートなんかを見たりした。
三浦瑠麗に関しては色々な所からツッコミが入っているので、それについてはあまり書かなくてもいいだろう。笑ってしまうのが、三浦瑠麗が必死に擁護していたはずの、保守界隈からも完全に切り捨てられているという事だ。
三浦瑠麗が、自分が擁護していたつもりの保守から切り捨てられ、批判されている現状を鑑みて、人間世界の虚しさ、人間というのがいかに醜い存在か、そうして自分もいかに醜かったと反省したら、彼女は人として成長するだろうが、これまでの言動を見るに、三浦が成長する可能性はないだろう。
三浦瑠麗の夫は詐欺容疑で家宅捜索されたそうだが、この社会の行く末は結局は詐欺なんじゃないかと私はふと思った。というか、三浦瑠麗の存在自体が詐欺みたいなものだったと言っても過言ではない。
三浦瑠麗は、学歴・容姿・党派性という、今の日本社会の腐敗要素を一身に背負ってメディアに出てきた人物だった。言っている事に中身はないが、なんとなく知的な雰囲気とか、華々しい経歴とか、ブランド品を普段から使っているという通俗的なイメージを継ぎ合わせた存在だった。存在そのものが詐欺的だった。
しかし大衆というのも騙されたがっている。三浦瑠麗に関しては、詐欺にしてもあまりにも下手くそだったので各方面から批判されたが、もう少しうまい詐欺師が現れれば、大衆は喜んで受け入れるのではないかと思う。もちろん、詐欺がバレるまでの間の話だが。
私がある友人に「三浦瑠麗ってのはやばいんだよねー」と適当に話していたら、友人は「でも、俺はあの人はいいと思ってましたけどね」と答えが返ってきた。(いや、思ってたんかい!)と突っ込みたかったが、突っ込めなかった。
その友人の事はなんとなくわかっているので、「どのへんがいいと思ったの?」と聞いても、まともな答えが返ってこないと私は知っている。要するに彼はただ、知的な雰囲気、学歴、喋り方といった要素だけで(いい)と思っていたのだ。(こんな人が日本にはたくさんいるんだから、彼らに合わせた詐欺師が出るのもわけないな)と私は思った。
三浦瑠麗の夫は、太陽光発電に関する詐欺で家宅捜索されたらしい。日本のエリートと大衆の間ではこういう「騙す(エリート)」→「騙される(大衆)」の関係が、もう普通なのかもしれないなと私は思っている。
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オリンピックの開会式は、佐々木宏という広告ディレクターが起用されていた。佐々木宏は途中で解任されたが、彼の案はある程度は生かされたらしい。
佐々木宏が解任されたのは「オリンピック」の「ピック」をもじって「オリン・ピッグ」にして、渡辺直美というタレントに豚の格好をさせるというアイデアが一般に漏れたためだった。(あまりにもひどすぎる)という事で解任になった。
しかし、佐々木宏は人気の広告ディレクターで、佐々木のCMは聴衆には受け入れられている。受け入れられているからこそ、佐々木宏には、オリンピックの開会式を任されるなんて大仕事が回ってきたのだろう。
何が言いたいかと言うと、日本社会の今の水準はそういうものだという事だ。テレビでもネットでも、物事を外面的にしか見ない、(笑)といった態度で、一歩後ろに引いて何かをあざ笑う、そういうものが人気だ。人々は他人の内面に入り込んでみない。なぜ、入りこまないかと言うと、自分の内面という、自分にとってかけがえのないものを現に生きていないからだ(ベルクソンはこれを「人々は真の自由を知らない」と言った)。
佐々木宏は叩かれて、開会式を降板したが、佐々木宏の制作態度のような、半笑いの、ちょっとおもしろい、笑える、茶化したものが大衆は好きなのだ。最近は、織田信長とか、徳川家康とか、三国志の英雄のような昔の豪傑も茶化しの対象となったらしい。テレビではそんなドラマやCMをしょっちゅうやっている。これに対して「退廃だ!」と怒る人はいない。
こういう半笑いで、茶化しが大好きで、何事も真剣に考えない人々に対して、メディアが、学歴や容姿、ブランド品という雰囲気やイメージだけで作り上げたものを売ろうとするのも取り立てておかしいとは言えないだろう。
私は大衆は真剣に考えない、と言ったが、これに反論する人もいるかもしれない。…私が感じるのは、一方では権威に対する盲目的隷従、例えば「素人がごちゃごちゃ偉そうに言ってんな」といった態度、もう一方では隷従に対するガス抜きのように、茶化したり、囃し立てたりするといった態度だ。
極度に真面目そうな表情と、ふざけた、にやけた態度が交互に現れるが、そこでは真剣に生きるという事は見られない。そういう場がこの世界にはない、と言った方がいいかもしれない。
三浦瑠麗から話が伸びてしまったが、要するに、三浦瑠麗のような人は、詐欺師にしてもあまりにも下手くそだったので、早々に退場する事になったのだと思う。
そもそも、メディアは三浦瑠麗を何故急に起用したのかも一切明言していないから、三浦だけを切り捨てて、またこの手の人を動員する気でいるのだろう。
そうした人々がメディアで、いつの間にか権威として力を持っていても人は(そんなものだろう)(逆らってもしかたがないだろう)という無気力な状態を一方に持ち、もう一方では、私的な慰み事の中に埋没しようとする。頭のいい人間は、無気力な大衆を相手に一財産作るだろうし、そうした「エリート」に憧れる人々もやはり多く出るだろう。
しかしそのような循環の中で、静かに日本社会は腐って行っているのだと思う。三浦瑠麗というのは、そういう腐敗の過程に現れた小さな人形だったと言えるのではないか。