妻の愛した文章
ヨルシカさんの楽曲「盗作」に影響されて書きました。
(序)
その男は妻子を持ち、幸福な夫婦生活を営んでいた。
男の職業は作家であり、妻は専業主婦をやっている。
娘が保育園に出掛けて、妻が家事をひととおり終えると、書斎にこもってペンを走らせるのが男の日課だった。
コンコン、とドアをノックする音が聞こえて、男は顔を上げる。
「ああ、入っていいよ」
「失礼します」
トレーにマグカップを2つのせて、妻が向かいの席に腰を落ち着ける。
「どうかしら、調子は?」
「ああ。いつも通り順調だよ」
「そう。それは良かったわ」
妻はそう微笑むと、おもむろにコーヒーをすすった。
「ねえ。あのニュースはご存知?」
「うむ」男は背中をげんこつで叩きながら応じる。「著作権侵害に関する訴訟だろう」
「そうなのよ。芥川賞を受賞して話題になったあの小説が、過去の作品を流用しているとして、民事訴訟をされてるって事件」
女性は新聞紙の一面を飾る記事を、夫に見えるように机に置いた。
「怖いわね。あなたも気を付けないといけないわ」
「そうだな。俺も細心の注意を払わないといけない」
妻が書斎を出ていくと、その男は蒼白な顔面をしていた。
拒絶するように閉じた瞼の上を脂汗が通り過ぎる。
こんなかりそめの平穏がいつまで続くのだろうか。
男は新聞紙に掲載された純文学作家に同情する。
「起訴されることは考えにくいが、俺も同じ穴のむじなだ」
そうため息をこぼしながら、原稿用紙のマス目をインクで汚していく。
(破)
この男が妻と出会ったのは、日本の小学校だった。
両親はグローバルに事業展開をしている企業の社員で、幾度となく転校を促してきた。
そんな事情もあって、男は各国を転々とした。異国の文化を肌で感じた。
その時代はテレビよりも書籍が主流で、男は娯楽のために本を読み漁った。
日本の学校でなじめずにいたときに、現在の妻が面白がって積極的に話を聞いてきた。
男は自身が経験した異文化交流を喜々として語ったが、すぐにネタがなくなってしまった。
そこで参考にしたのが、日本では翻訳されていない海外小説家のエッセイだった。
男の話は、時代や国籍を飛び越えて、彼女にはるかなる旅行を体験させた。
そして彼女と親友となったときに、別れのときはやって来る。
またしても海外への転校が決まったのだ。
「いつか必ず日本に戻る。そのときはまた手紙を出すから」
男は目に涙をためて宣言したが、
「そんなのいやだよ。離れたくない。もっとお話が聞きたい」
彼女は顔を真っ赤にしながら、男の腕をつかんだ。
「それならいっぱい書き溜めておくよ」
男はむりやりに笑顔を作ってみせた。
「海外に行っても、詩織のために、たくさん文章を書くから」
「本当に?」
うるんだ瞳で、彼女は訊いた。
「ああ、約束だ。日本に帰国したら本を出す。人気作家になる。そしたら結婚しよう」
「約束だよ?」
男と妻は、ゆびきりげんまんをした。
そうして今に至るのである。
(急)
「日本の法律では、著作権侵害は申告罪だ」
男は苦渋の表情で、コーヒーを胃に流し込む。
「被害者が訴えない限り、裁判沙汰になることはないだろう」
写真立てに飾られた家族写真。屈託のない娘の笑顔。
不意に、あたたかいしずくが頬を伝った。
「俺は、各国の小説を盗用した。それはまだ、海外で翻訳されていない」
そう重たい足取りで廊下を歩く。
「だけど、化けの皮なんていつかは剥がれる。見向きもされなくなるだろう」
黒電話の受話器をつかむとひんやりと冷たかった。
「俺はこの物語の主人公だ。それならせめて、娘に胸を張れる父親でありたい」
男は出版社から受けた、保留にしていた依頼をすべて断った。
そしてこう申し出たのだ。
「もう一度、チャンスがほしい。"エラリー・クイーン"が"バーナビー・ロス"と筆名を変えて悲劇シリーズを刊行したように、直木三十五が毎年筆名を変えていたように、僕の作者名も、現在のペンネームとは別の名前に変更してほしい。僕は生まれ変わるんだ」
担当編集者はしばらく無言のままだった。
やがて上役が事情を説明しろとせまってきた。
男はことの顛末を話して聞かせた。
著作権侵害に関するところを手厚く説明して。
「地位も名誉も、全部なくなるぞ。それでもいいんだな」
「そんなものは、初めからあってないようなものです」
男が力強く答えても、上役は逡巡する様子を見せたが、
「わかった。そこまで言うなら認めてやろう。で、新作のテーマは決まっているのか?」
「はい。決まっています! 知的財産権を流用してしまったことに苦しむ、主人公の葛藤です」
黒電話を元に戻すと、受話器が汗で濡れていた。
妻が障子戸越しにこちらをのぞいていたことに気が付く。
「詩織……いつからそこに?」
もしも盗作がバレていたら幻滅されるだろうか。
男のわきの下から、静かに汗が流れていく。
「最初から、聞こえていたわ」
「すまない。黙っていて」
「いいのよ。そんなことよりも……」
離婚を切り出されるのか。
男の脳内はそのことでいっぱいになった。
法律をよく知らない人間から見たら、男は犯罪者にうつるかもしれない。
「新しい原稿が出来上がったら早く読ませて頂戴」
妻の唇を言葉がすり抜けていく。
男は一瞬、その意味が理解できなかった。
予想とはまるでかけ離れた文言に真っ白になる。
「他の人の文章じゃ満足できないわ」
(了)
利用規約に抵触しなければいいのですが……。