親しくしたい
カズマの父親はかなり長いこと海外を回る仕事で家を開けていて、もう物心付いた時から、年に数回しか会う機会のない状態なんだという。とはいえ家族関係は良好で、両親の仲も良いようだった。
うちの親がご両親と親しくさせてもらっている事もあって、出張先を訪ねて母親が家を空ける間、カズマを預かる事も度々あった。
そうやって幼少期を過ごしてきた俺達は、今でも家族ぐるみの付き合いが続いている。俺が社会人になってもその関係は変わらない。そう、たとえ、俺が教師になって、カズマが生徒になっても、プライベートではあくまで近所に住む親しい友人のままだ。
「あ~、兄さん、また…肉一気に入れすぎです」
「あんだよ~、どうせすぐなくなるんだからいいだろ、お前だっていっぱい食べてるじゃん」
「固くなっちゃうから急いで食べてるんですって、もう少し野菜も食べ…あ、その豆腐は俺の!」
高校生になって身長がぐっと伸びたカズマは、少し肩の窮屈そうな着古した白いトレーナーの袖を威嚇するようにまくった。この到底余所行きとは思えないラフなスタイルは、気を許されている証拠だろう。
かくいう俺も、高校時代から履き続けているジャージの上下と、更にその上から灰色のよれたパーカーをかぶって、完全に部屋でダラダラ過ごす時のスタイルだからお互い様だ。それでもまだうなじが冷え冷えするくらいだが、辛うじて足を突っ込んでいるこたつの中だけは天国だった。
ただし、左側にいるカズマのやたら長くなった脚がちょっと邪魔くさい。胡座をかいた膝がずっとぶつかっている。ならなぜ対面で座らないのかと言えば、俺の正面は窓際で冷たい空気をもろに食らうし、カズマの正面にはテレビがあるから、仕方ないのだ。わざとじゃない。
「なぁ、タイまでって飛行機でどれくらい掛かんの?」
「さぁ…五、六時間とか? わかんないですけど」
ふうん、と返事をしながら、赤い色の鍋がくちくちと煮える様子を見るともなく見下ろす。カズマは俺が横取りした豆腐の事でまだ文句を言っていたが、興味は餅に移ったのか箸の先で硬さを確かめていた。
もうすぐ雪が降る季節だ。冬は天候が荒れる事も多いし、今のうちに旦那の様子を見てくると言って、カズマの母親はタイに飛んだらしい。放っておくと心配だからというのが、果たして本音なのか建前なのかは分からない。俺は後者だと思うけれど。
「相変わらず、仲良いよね」
もう高校生だし一人でも大丈夫というカズマを無理やり夕飯に誘ったのは、この生活力皆無の破壊神が一週間でどれくらい家をダメにするのか、想像したら恐ろしくなったからだ──というのは、半分建前。
「いつも一緒にいないからじゃないですか」
一理ある。うちの両親だって夫婦仲は良好な方だと思うけれど、喧嘩、とまでは言わないまでも小さなぶつかり合いは日常茶飯事だし、当然手を繋いでデートをするような甘さは全くない。
しかし、カズマから聞く両親の様子は、まるで恋人同士のそれ。普段離れている分、愛情表現を大事にしているのかもしれない。自分の両親だったらと思うと正直気恥ずかしくも感じるけれど、素敵だとは思う。
「息子の前で親しくされるのはちょっと…アレですけどね…」
餅をふーふーしながら頬張るカズマも、口ではこう言っているが、そんな両親を快く受け入れているのは明白だ。中学生になっても反抗期らしい反抗期がこなかったのも、彼の両親への深い尊敬故の事なのだろう。俺とは大違いだ。
──まぁ、高校生になった途端、見た目が若干、反抗期ではあるけれど。その思いっきりブリーチしたプラチナブロンド、教師としては胸が痛いよ、俺は。
「親しく、ね」
それにしても、その言い回しが妙で可笑しい。親しく、というのは、なかなか曖昧な表現だ。
「言われてみれば、俺達も前の方が親しかったもんね」
そんな恨み言みたいな事をぽろっと零してしまってから、少し後悔する。案の定、カズマは口元をもぐもぐと動かしながら、不思議そうに眉を上げた。
「…敬語」
「あー」
言ってしまったものは仕方ない。俺の指摘にあからさまにバツの悪そうな顔をするから何となく気まずくて、さして見てもいないテレビに視線を移すと、最近流行りの可愛いペット動画を集めて皆でひたすら可愛いを連呼する番組が流れていた。
「学校で、うっかりタメ口利いたらまずいと思って」
それは、わかるけど。
できれば実家から通える距離にある学校に赴任したいと希望を出した俺と、実家から通える距離の高校に行きたいと希望したカズマが、だからって同じ学校に通う事になるなんて、想像していなかった。
徒歩圏内ならともかく、電車も含めれば通える高校なんてたくさんある。カズマはもっと偏差値の高い学校に進学できたし、当然そうするものと思っていたのに、この秀才は”結局どこに行っても何を学ぶかは自分次第”とかカッコつけた事を言って、よりにもよってまだ教師二年目の俺の生徒になってしまった。
それからというもの、以前は週に一度顔を見るか見ないか程度だったのに、今じゃほとんど毎日顔を合わせている。けれど、それ故に俺達は以前よりも他人行儀になってしまった。
カズマの事だから、まだ新人気分が抜け切らない俺を気遣って、余計な波風を立てないように気を使っているのはわかっている。俺だって、万が一にも変な誤解を受けてカズマに肩身の狭い思いをさせてはいけないと、この関係は誰にも言っていない。
でも──だからって、プライベートでも他人行儀にされると心地が悪い。せめて”親しい”友人でいたかったのに、言葉遣いも、態度も、どこか一歩引かれているように感じて──つまり、寂しい。
「別に…学校で話す機会なんて、そんなにないだろ」
姿を見かける機会が増えて、最初、それ自体は素直に喜ばしく思っていたのに、いつしか焦燥感に似た感情に変わってしまった。
俺の中で常にはっきりと存在感を示し続けていたカズマの世界は、俺よりも周りに向けられている事の方がずっと多いのだと、そんな当たり前の事に何故か傷ついたような気持ちになって、それが真っ当な友人としての思考でないと自覚するに至るまで、半年もかからなかった。
前よりずっと距離は近くなったけれど、近付いた分だけ、まざまざと遠さを実感する。わかってる。これは、ごく普通の距離感。友人として、正常な遠さ。それを埋めたいと思っているのは俺の一方的なワガママで、こうして面と向かってカズマにぶつけていいモノじゃない。
「確かに、そうですね」
とか言いつつ、やっぱり敬語なんだ。もうクセになってしまったんだろう。
クタクタになったネギを掬いながら、自分が思いの外不貞腐れている事に内心呆れた。カズマの言っている事は至極正しいのに、俺は駄々をこねて困らせている。
カズマはいつの間にかやたらと大人びてしまって──はしゃぐ時のテンションは小学生の時から変わらないのだけれど──一方、俺はといえば未だに子供っぽいところがあるのは、自覚してはいるのだ。そういうのを見抜かれるから、生徒相手にも舐められがちなんだろう。今じゃカズマよりも、他の生徒の方がよっぽど馴れ馴れしい。
「そうだよ、何でそんなに余所余所しいの」
一人で大丈夫、って言われた事も、それ以外の事も、まるでもう俺はいらないって見せつけられている気分になる。被害妄想だなんてのは重々承知で、だけど割り切れないから仕方ない。
おかわりだっていっぱいすればいいのに。気を使って俺の分まで舞茸入れなくたっていいのに。空になったコップを目ざとく見つけてお茶なんか注いでくれなくていいのに。
「二人っきりなのに」
そう、二人っきりなのに──せいぜい、膝をくっつけ合うくらいが精々。それ以上、何かできるわけでもないのに家に招いたりして、母親が知人と会食するからいないって、最初からわかってて晩ご飯に誘ったくせに、知らなかった振りしたりして、馬鹿みたい。
「はぁ」
カズマは俺のワガママに歯切れ悪く返事をして、ちょっと難しい顔をしながら箸を置いた。あぁ、だめだ。そろそろ話題を変えよう。別にしんみりしたかったわけじゃない。ただちょっと、一緒にいたかっただけなのだ。
そう思って顔を上げると、予想外に真剣な視線に射抜かれて、話そうと思っていた事が飛んでいってしまった。
「…じゃあ、親しくしても?」
曖昧で、難しい質問だった。何故かどきりと一瞬、脈が不揃いになって、寒かった室内が急に暑く感じる。いや、熱いのは、俺だ。
そんなの、良いに決まってる。できることなら、したい。それも、うんと親しく。
ああ、この人、拗ねているんだな、と、考えたところまでは冷静だったと思う。しかし、その子供みたいなわがままを素直にぶつけられた事に、内心では浮かれていたんだろう。
学校で見かける姿は、普段と変わりないようで、やはり違う。仕事に一生懸命打ち込む兄さんは、俺の知らない大人の男の人で、自分の夢や目標をきちんと持って、その上で叶えるために努力できる立派な人だった。
それに比べて俺はただの、憧れの人を追っかけて志望校を選ぶような愚かな高校生でしかなくて、その不釣り合いさに無力感と恥ずかしさを感じるようになった頃、俺はそれまでうっすらとしか自覚していなかった自分の気持ちを、ついにはっきりと思い知った。
早く、頼りにするだけじゃなくて、追いかけるばかりじゃなくて、隣に並べるくらいになりたい。俺が大人っぽい振る舞いを心掛けるようになったのは、そんな酷く子供じみた理由だと知ったら、兄さんはどう思うだろう。
「何言ってんの…」
当たり前じゃん、という頼りない呟きが、こたつ布団の中で触れ合っている脚から心臓までおかしな熱を運んできて、冷え冷えとしていたはずの背中は、いつの間にか気にならなくなっていた。
兄さん、どうして目を逸らすんですか? どうして耳が赤いんですか? それって、ちょっとは期待してもいいですか?
──言葉にしたら、逃げられる。そんな気がして全て飲み込んだ。
テレビから距離を置くように角の方に寄っていた身体は、自分が身を寄せればすぐそこにあって、色気のない高校時代のジャージだとか、リブがヨレヨレになったパーカーとか、そういう事すらどうでも良くなる。
寧ろ、俺はそういうものに優越感すら覚えていた。女子達がこそこそ噂する”可愛い上原先生”のこうした姿を知っているのは、あの学校に通う大勢の人間の中でも、俺だけに違いないのだから。
「…でも、どこまで?」
果たして”親しさは”どこまで許されるだろうか。手を伸ばしてうなじをさらりと掻き分ければ、くすぐったそうに肩を揺らす。
自分でも、ずるい質問だと思った。
「どこまで、って」
案の定答えあぐねる兄さんに額をくっつけたら、墨を溶かしたように艷やかな黒が瞬くだけで、それが許容された事に安堵する。けれど、ならば、尚更どこまで。
鼻先が頬を掠めた時小さく囁かれた自分の名前を、こんなにも愛しく思う事が他にあっただろうか。いつだって彼の音だけは特別で、それを発する乗せる肉付きの良い柔らかそうな唇が、何よりも特別で、だからこそ考えてしまう。
特別だ、と自分が自覚したのと同じように、彼もまた自覚したなら、と、願ってしまう。それがただの都合の良い空想ではないと、確かめたくて仕方がない。
「兄さん」
肌に触れるか触れないかの距離で呼ぶ声に、兄さんはそっと肩に触れた手を、押すでもなく、ただ力を込めてぎゅっと握り込んだ。それを拒否だと思うのは、今の俺には難しい。
「あ…」
ほんの一瞬、唇の端に触れただけで、一気に体温が上がる。その熱でできた上昇気流が心を舞い上がらせてしまう。ぴくりと震えた口角から漏れたほんの微かな吐息のせいで、胸の中で嵐が起こる。
「…これも?」
ここまできたら、しても、しなくても一緒だ。そう思ったら吹っ切れた。薄皮に包まれた蜜柑の房ような唇を食むと、初めて味わった目眩を覚えるほどの柔らかさに、心臓が狂ったリズムで疾走る。
「…かず、」
「親しく、してるだけ」
言い訳を先んじて口にしてしまう辺り、度胸がないな、と笑ってしまいそうだった。
でも、もう十分思い切っただろう。褒めてやりたいくらいだ。今までだって抑え込んできたのだから、たとえ拒絶されて、今までのような友人関係でなくなったとしても、きっと耐えられる。
そうやって、できるだけ傷つかないように先回りして、自分を慰めてみたりして。
「…親しく」
けれどそんな子供じみた言い訳を、兄さんはからかうでもなく自身の唇ごとじんわりと噛んで、そのまま飲み込んでしまう。
「じゃあ、もう少し、親しく…」
あぁ、許されてしまった──前言撤回。一度堰を切ったら、溢れてしまう。これじゃ、止められない。
再び触れたやはり柔らかで、けれど今度は一方的でなく、受け入れるように押し返す感触があった。食んで、食まれて、時に噛み付くように、吸い付くように。
嘘のようで、現実味がなくて、だからこの瞬間が間違いじゃない事を確かにしたくて、夢中だった。
「は…」
開いた唇の隙間に舌を滑り込ませると、綺麗に揃った歯列の向こうでぬるりとした弾力に辿り着いて、痺れるような多幸感に前のめりになる。
安定感を失って、トレーナーを掴んでいた兄さんの手が縋り付くように首の裏に回ったのと、俺が広い背中を抱き込んだのはほとんど同時だった。頭をぶつけたらいけないと、咄嗟に手を回せた事を褒めてやりたい。床に倒れ込んだら、もう後は、何も考えずに貪り合うだけ。
「ん、…ぁ…」
そんな切ない声を聞いてしまったら、それが強く舌を吸い上げたせいで漏れ出した苦しげな呻きだと理解していても、気遣えなくなるくらい感情はもっと加速するばかりで、思わず歯を立てると兄さんの指先が震えた。
心臓がドクドクいうのとは別のところで、どんどん血が昇ってくるのが分かる。
だめだ、と制止しようとする理性。構うな、と煽り立てる本能。どっちに従うべきか。決められない。ただ、もっと味わっていたい。とろけるような舌先ののたうつ感触を、滑らかな粘膜の温度に、もっと触れたい。だって、くっついていないと凍え上がるくらい、この部屋は寒い。
「だめっ」
はっとしてほとんど閉じてばかりだった瞼を開くと、いつの間にかほんのり赤く色付いた兄さんの眉を顰めた表情が飛び込んできて、代わりにぽんっと飛び出してしまいそうになる理性を必死に掴んだ。
「鍋…水、足さないと…っ」
いつの間にか、水分の蒸発してしまった鍋がぐつぐつと音を立てている事に、振り返ってようやく気が付く。どれくらいそうしていたんだろう。あっという間だった。それと同じくらい、永遠に思えた。だけど、終わってしまった。
慌てて飛び退くと、兄さんは用意していた出汁を急いで鍋に注ぎ入れた。じゅうっという音と共に煮え滾っていた鍋は急に大人しくなって、俺達の間に流れる居心地の悪い沈黙が一層際立つ。
この未だにうるさい心臓も、持て余した下心も、水を掛けて消してしまえたら良いのに。身体の中からどんどんと急かすように鳴る鼓動は、まだ嫌ってほど頭の中に響いている。
「…ごはん、さっさと食べちゃお」
「そ、ですね」
敬語を使った事をまた咎められるかと思ったけれど、兄さんは何も言わなかったし不快に感じた様子もなかった。もうどうでも良くなったのかもしれない。なら、良かった。
中身の薄いバラエティ番組にぎこちなく口出しする兄さんに相槌を打ち、ようやく口に運び入れた豆腐は、胸が一杯で全く味わえなかった。
何だかんだと二人でしっかり鍋を食べ尽くしてから、片付けを手伝うという申し出は頼むからやめてくれ、という懇願によって却下され、俺はあっさりと帰宅を命じられた。
いや、もちろん、何か期待をしていたわけではないけれど、こういうところで子供扱いされているんだと思い知る度、やはり歯がゆさがある。
挙げ句、火は危ないから使うな、だとか、家電を扱うときは丁寧に、だとか、帰り道はちゃんと足元を見て歩け、だとか、そんな小言を浴びせられると尚更だ。じゃあ一緒にいて、面倒を見てくれたらいいのに、と思う。同時に、庇護されるばかりの子供ではないと思い知らせたい。複雑な男心だ。
「もう寂しくない?」
せめてもの意趣返しに意地悪く問いかけると、兄さんは綺麗な顔をむっと顰めて俺を睨んだ。
「…うっせ」
笑ってしまった俺に向かって飛んできた拳を受け止める。
こんな風に、何気なく触れ合える嬉しさ。だけど、どことなく気恥ずかしいむず痒さ。こういう落ち着かない気持ちを、幸せって言うんだろうか。だとしたら、幸せって思った以上に穏やかじゃない。
兄さんは不機嫌な表情を隠すように俯いたかと思うと、空いている方の手のひらをぎゅっと握った。
「…もっと寂しくなったから、も、帰って」
──困った。手を離すタイミングを見失う。このまま、帰るに帰れない。
突っぱねるように俺の胸を叩いた手は、引いてみれば驚くほど無抵抗だった。
「ちょ、っと…」
「黙って」
そう言って、今までこの人のお喋りが止まった事なんてあっただろうか。お互い様だけれど。
しかし、それも塞いでしまえば後が続かない。いつの間にか指は絡まり合って、呼吸も、体温も、全てを共有するように、身体と身体の距離がゼロに近付く。
テレビの雑音もないシンとした玄関で、微かな水音はやけに響いた。鼻から抜ける声も、どうしようもなく鼓膜を震わせてくる。
さすがにしつこいと拒否されるかと少し考えたけれど、それどころか頬を這う指先は、もっと、とねだられているのかと思ってしまう。きっと、都合の良い想像じゃない。だから、背中をそっと撫でて応える。
「ユウイチ」
子供の頃、当たり前に口にしていた名前を呼んだのは久々だった。これは、親しすぎるかな。覗うように薄めを空けると、兄さんは瞼を震わせながら、俺の下唇をちゅうっと啄んだ。
こういう時、堪らなく駆り立てられるような、酷く焦れるようなこの情動は、きっと無遠慮にぶつけてはいけない類のものだと、頭では理解しているのだけれど──つい、抑え切れずに思わず引き寄せた腰がぴったりくっついた瞬間、お互いにびくっと肩が跳ねた。
「あっ」
──まずい。と、気まずさにちらりと表情を覗えば、同じように兄さんの戸惑うな視線が今にも逸したそうに彷徨っている。
その時の言いようのない羞恥心と、そしてそれを上回る興奮を、どう言葉にすればいいのだろう。一方的に、自分ばかりが”そういう意味で”求めているのではないか、という、僅かに拭い切れなかった後ろめたさは、俺のものとはまた別の、明らかな硬質感であっという間に消えてしまった。いっそ、もっと確かめたいとすら。ただ、それは、きっと許されない。
「か…、帰ります、ね」
「お、おう」
呆気なく解けた手はしっとり汗ばんで、落ち着いたはずの身体は再びこたつに負けず劣らず内側から熱を上げている。なんて正直なんだろう。でも、仕方がない。現実に分け合った体温は、あまりにも熱くて。
愚かにも自己主張しかけている部分を隠すように身を屈めると、兄さんもどこか前のめりで、そんなお互いの姿を無言で見つめてから、どちらからともなく笑ってしまった。
そうして何となく気まずかった空気は晴れ、ようやく名残惜しさを感じながらも別れの挨拶をした。
外に出た途端つんとする冷たさが、来た時はあんなにも鬱陶しかったのに、今では優しくすら思える。
「…でも、さすがに、これ以上親しくするのは、まずいよなぁ…」
一人きりになって、緊張感から開放されたような気分で息を吐く。独り言まで一緒になって出てしまったのは、頭と心の中が色んな感情で処理落ちしてしまっているからだ。
そうだそうだと言わんばかりに吹き付ける風から身を隠し、コートの襟に首を沈めた。そうでもしないと、うっかり燻った火種が燃え広がらないとも限らない。
「いちおう、教師と生徒だしな…」
理性を刺激する言い訳と、同時にそんなものどうでもいいと断じてしまいたくなる疼きと、これから度々陥るであろうその板挟みを想像して、ぶるりと背筋が震えた。
もう一度、気持ちを落ち着かせるために吐き出した呼吸は白く立ちのぼって、けれど一瞬でかき消える。この思いを秘匿するように。そうあれと警告するように。
短い帰り道の途中で届いた『明日も一緒に食べよう』のメッセージで浮足立ち、返事をしようとして慣れた筈の自宅の玄関で躓き青あざを作った俺は、兄さんからの有り難い小言を深く胸に刻んだ。