9.杏もしゃかりきになって生きてきた
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マンションを出てから、かれこれ30分は経つ。
杏は自身の軽自動車のハンドルを握っていた。うしろのチャイルドシートに座った芽久はおとなしいものだ。尋の形見である消防車のおもちゃを手に、窓の外を眺めている。
めざすは雲雀町の郊外。
海沿いの工業地帯で、高台の住宅街は、杏が気後れするほどの高級な一軒家ばかりだった。
ここへ来るたび、彼女は暗く重苦しい気持ちになる。
尋がこの土地で帰らぬ人となった。くわえて3年前、達樹と離婚してから生活が苦しく、いやでもコンプレックスに苛まれる。
ここの住民たちは幸せそうなのに、私は失ってばかり……。
なぜこの時間帯になって、息子を失った事故現場に向かっているのか?
というのも、杏もママ友から、例のうわさを耳にしていたからだ。
魔のカーブで、夜ごと無人のオニヤンマ号が現れ、ひとりでに走りまわっているのだと。
はじめ、ママ友からその話を聞かされたとき、心臓が縮みあがり、目まいを憶えたほどだ。
事故にあい、あの悪趣味な中古自転車は、ものの見事にフレーム全体がひしゃげていたはずだ。
無惨に変形した尋の愛車は、ホームセンターの真向かいにある佐々木廃棄物リサイクル商店に運ばれ、プレスされた。とても記念に取っておこうとは思えなかった。
なのにオニヤンマ号は元通りに復活し、まるで見えざる乗り手が跨っているかのように、ひとりでに自転車のみが県道をヨタヨタと走っているともうわさされていたのだ。
――まさかあの子、死んだことを自覚できず、いまだにお月見泥棒をして夜をさまよっているのだろうか?
てっきり49日をすぎれば人の魂は、病死であれ突然死であれ、跡形もなく消えるのだと思っていた。
青空のわた雲が、知らないあいだに散り散りになって消えてしまっているように。
同級生の蓮たちは6年生となり、来年は中学にあがるというのに、あの子だけがお菓子を求めて夜ごと徘徊しているかと思うと、いたたまれない気持ちになった。
――尋くん。中学にあがれば、さすがにお月見泥棒なんて、恥ずかしくてみんな卒業しちゃうものなのよ。あなただけが、卑しく追いかけてどうするの!
きっと十五夜以外の夜の町をかけずりまわったところで、誰も供え物なんか用意してくれていない。
1年に一度きりだというのに。
そうなると、浮かばれない尋はしゃかりきになってオニヤンマ号を走らせているにちがいない。なにも知らず。負けず嫌いの子どもだったから、必死になってお菓子を探しまわっているのだろう。
我が子ながら、いくら不慮の事故で亡くしたとはいえ、そんな形で雲雀町において有名になるのは不憫に思えた。
だからそれをわからせるため、今夜は事故現場にやってきたのだ。それができるのは杏しかいまい。
死んでから半年ほどは、月命日にこの場所へ通った。
が、じきに足は遠のいた。
どうにもならないではないか。いまさらどんなに尋に帰ってきて欲しいと望んでも、時間は巻き戻せない。
だから杏は、芽久を育てるのに集中した。尋がしゃかりきになってペダルを漕いだように、杏もまたしゃかりきになって娘を愛し、調剤薬局事務の仕事に打ち込んだ。
そうするより他なかった。
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急なカーブを曲がると、すぐに測量設計事務所と敷地、それに道の反対側の自衛官募集の大きな看板が見えた。
右にウインカーを出し、路肩に寄せて停めた。地面は土で、端の方は雑草が茂っている。
夜の8時すぎに来たのは初めてだった。
現場はこんなにも見通しが悪かったなんて。それにしても、なんて寂しい場所だろう。
いざ、おかしなものが現れたら、杏の心に堪えるかもしれない。
昨晩は遅くまで考え、覚悟を決めてきたつもりだった。あなたは亡くなったのだと、わからせるのも親のつとめではないか。
芽久を連れてきたのは、いろんな意味があった。
純粋にマンションに一人残してくるのも躊躇われたのもあるし、善かれ悪しかれ、どんな形であれ、尋と会えるかもしれないと思った。
ひと目だけでも会わせ、それっきり兄とは永遠に決別したのだと知らしめるいい機会になるのではとも、淡い期待を抱いたのだ。
想像で描いたものより、眼を覆いたくなるような姿で現れたのなら、そのときは芽久の眼に触れさせないだけだ。なんとしてもかばってみせる。
3歳の娘をだっこしたまま、路肩の隅にあるコンクリの塊に目をやった。自身が乗ってきた車のライトで浮かびあがっている。
祠だ。
なかにお地蔵さんがあり、赤い前掛けがそよ風に揺れていた。ここへ来るたびに線香を供えていた。
そのとき、暗がりで光が動いた。人の動く気配がした。
祠の向こうで懐中電灯を持った少年と、もう2人がいることに気づいた杏は、飛びあがる思いをした。まさか、そんなところに潜んでいたとは、予想もしなかった。
眼を凝らした。
よく見れば蓮と瞬介、武司。――尋の仲良しグループではないか。
なぜかそれぞれの手には、ロケット花火と、だらりと垂れさがった大きなネット状のもの、磯釣りで使う網を手にしていた。
「どうしたの、みんなして」と、杏は芽久をだっこし直しながら聞いた。「一瞬、びっくりしちゃったじゃない。まさか、なにかのサプライズってつもりじゃ……」
蓮は真ん中で、2人に支えられていた。
少年たちはバツの悪い顔をしたまま、こんばんは、と口々にあいさつをした。
見れば、蓮は口の端から血を流し、眼のまわりも痣ができていた。シャツも血で汚れている。瞬介と武司は、蓮を気遣いながら近づいてきた。
――ひょっとして蓮くんまで、このカーブで事故に遭ったんじゃ?
杏は口を半開きのままつめ寄った。
それを瞬介は察したらしく、
「ご心配なく。けっして車でやられたんじゃありませんから」
「先にここに来てたんです。尋のためにお参りしてました」
と、蓮が明るい声を出した。
無理をして笑顔を作っているようにも見えた。友だち思いなのはわかるとして、蓮だけが傷ついているのは解せなかった。
杏は、今年から生徒会長をつとめるようになった少年をよく見えようと、その場で屈んだ。
去年よりもさらに責任感ある子に育っているように見えた。お父さんが立派な人柄だと、尋から聞かされたことがあった。
「お参りに来てくれたのはありがたいけど、どうしてそんな怪我を――。ね、わけを教えて」