チャールズ・リンドバーグ
チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは一九〇二年(明治三五)にミシガン州デトロイトに生まれました。ちなみにライト兄弟が有人動力飛行に成功するのは、この翌年です。まさに航空機の黎明期に生まれたのです。
若い頃のリンドバーグは機械いじりが大好きでした。もともとは農業機械に興味を持ちましたが、やがて航空機にのめり込んでいきます。無口で内気だったリンドバーグは周囲から変わり者と思われていました。確かに変わり者でした。リンドバーグは、その理知的な風貌の内側に驚異的な冒険心を隠しもっていたのです。
大学を二年で中退したリンドバーグは航空会社に就職します。その会社が倒産すると曲芸飛行の一座に加わり、危険な曲乗りやパラシュート降下を演じながら各地を巡業しました。その後、専門的な操縦術を習得するために陸軍飛行学校に入ります。同校を首席卒業したリンドバーグは軍務をこなして大尉に累進しました。
アメリカで民間郵便飛行事業が認可されたのは一九二六年(昭和元)でした。リンドバーグは軍務を離れて郵便飛行会社のパイロットとなります。当時の飛行機はエンジンや機体の信頼性が低く、しばしば故障しました。リンドバーグの乗機は飛行中に故障すること四回、そのたびにパラシュート降下して命拾いをしました。
そんなリンドバーグが一躍、世界的な著名人となるのは一九二七年(昭和二)です。大西洋無着陸横断飛行を単発機による単独飛行で達成したのです。弱冠二十五才でした。
有名人となったリンドバーグは、その後も冒険飛行や親善飛行で世界を飛び回ります。日本にも来ました。リンドバーグの言動は常に世間から注目され、やがて政治的影響力さえ持つようになっていきます。しかし、良いことばかりではありませんでした。絶え間ないマスコミ禍に遭いつづけ、プライバシー侵害に苦しみます。リンドバーグが欧州へ移住したのは、マスコミ禍からプライバシーと家族を守るためでした。リンドバーグは日記に書いています。
「欧州に来て、わたしは真の自由を発見した。そして不思議なことに、欧州諸国のなかでも、第一にドイツで、次にイギリス、そしてフランスで最高の個人的な自由が得られたのだ。しかもアメリカにくらべると、ここでの私どもは好きな国へ自由に出入りできるのである」
パパラッチに追われることのない欧州での生活が気に入ったようです。そんなリンドバーグをアメリカ大使館はつねに賓客として遇し、様々な便宜を供与しました。ジョセフ・ケネディ駐英大使をはじめとする外交官や駐在武官と欧州情勢を語り合うことができました。リンドバーグは、欧州の戦乱を未然に防ぐ方法をさかんに論じました。
欧州の各国政府は、著名な航空専門家のリンドバーグを放っておきませんでした。競うようにリンドバーグを招待し、自国の空軍を見せて助言を請うたのです。リンドバーグには一種の神通力があったといえます。並みの外交官や駐在武官を上回る外交力です。リンドバーグは各国からの招請に応じて英仏独ソの各国を訪れ、その軍需工場や飛行場を視察し、戦闘機や爆撃機の操縦桿を握って実際に空を飛び、現役パイロットたちと意見を交換しました。
ときあたかも欧州の風雲が急を告げる頃です。ドイツの急速な台頭を英仏は抑えられず、ベルサイユ体制が瓦解しつつあった頃です。
そんな緊迫した情勢下、リンドバーグは欧州各国の空軍を短期間に視察したのです。スパイがヨダレを垂らすような軍事機密に触れることができました。リンドバーグは、専門家の目で欧州列国の空軍力を詳細に比較考量することができました。その結果、リンドバーグは恐ろしい事実を知ることになります。ドイツの空軍力が圧倒的に優勢だったのです。リンドバーグの日記にはこうあります。
「空軍力の観点から見れば、フランスは想像していたよりも状態が一段と悪い。諸条件がよくないのはつとに承知していたけれど、この国には、いざ戦争が勃発しても、こけおどしにさえ使えるような近代的な軍用機が充分にない。フランス、イギリス、ロシアでドイツと対戦した場合、ドイツはたちまち制空権を握るだろう。イギリスが惰眠をむさぼり、フランスがソビエトとの同盟に憂き身をやつしているあいだに、ドイツは巨大な空軍力を築き上げたのである」
リンドバーグの予想では、ドイツ空軍の制空圏内にはイギリス艦隊といえども侵入できず、また、ドイツ空軍の掩護によってドイツ陸軍は電撃的な進撃が可能になるはずでした。ドイツ軍の強勢をリンドバーグは英仏の要人たちに訴えました。各国要人は、ほかならぬリンドバーグの忠言に耳を傾けはしました。しかし、行動を起こすことはありませんでした。この時期、空軍力が戦争の勝敗を支配するという発想がまだ斬新でした。航空優勢の意味を要人たちは充分には理解できなかったのです。ただひとり、リンドバーグだけが危機を叫びつづけました。
(戦争をくい止めるためには英仏両国の空軍を充実させ、ドイツ空軍と均衡させるしかない)
そう考えたリンドバーグは英仏の要人に思い切った提案をしました。
「アメリカの生産力には限界がある。いっそフランスがドイツの軍用機を買い付けたらどうか」
これによってドイツは経済的利益を得、フランスは空軍力を増強させる。その結果として独仏の空軍力が均衡する。そうすれば戦争を抑止できる。これがリンドバーグの平和維持策でした。しかし、リンドバーグの提案は一笑に付されてしまいます。
「それは悪い冗談だ」
軽くいなされてしまいました。英仏の要人たちは頭からドイツを敵視していたので、リンドバーグの提案は論外だったのです。
リンドバーグにはドイツに対する偏見がありませんでした。むろん、ナチス党によるユダヤ人迫害には反対の立場でしたが、同時にドイツこそが欧州経済の主柱であることを認めていました。そして、なによりも、再び欧州大戦が勃発すれば、欧州文明そのものが没落すると憂えていました。英仏の要人たちが自国の勝利と国益にとらわれていたのに対し、リンドバーグだけは文明論的な大所高所から不戦の策を考えていたのです。
奔走の甲斐あってフランスのシャンブル航空相がリンドバーグの提案に興味を示しました。仏首相のダラディエもこれに同意しました。ドイツからの軍用機購入をフランス政府が本格的に検討し始めたのです。一方、ドイツ側も航空エンジンの売却に同意し、独仏間の商談が進むかに見えました。しかし、結局は実現しませんでした。それよりも早く情勢が動き、戦争が始まってしまったのです。
英仏両国がドイツに対して宣戦布告をする直前、リンドバーグは家族とともに帰国しました。リンドバーグの関心は欧州から祖国アメリカへ移ります。
(アメリカは不干渉主義を貫くべきだ。欧州戦争に参戦してはならない)
リンドバーグは、第一次大戦へのアメリカの参戦を失敗とみていました。イギリス政府のプロパガンダに乗せられて参戦したアメリカは、連合国に勝利をもたらしました。しかし、ベルサイユ講和会議では英仏に主導権を握られてしまい、アメリカの掲げた平和原則は弊履のように打ち捨てられました。そして、多額の戦時債権も放棄することになりました。実際のところアメリカには何の名誉も利益もなかったのです。それでも欧州が平和になったのなら介入の意義があったといえるでしょう。しかしながら、ベルサイユ体制の現実は理不尽きわまるものであり、ドイツ経済を壊滅させたあげく、欧州経済全体を破綻させ、ついにナチス党の台頭を招くに至りました。この間、たった二十年ほどでしかありません。アメリカが国力を傾注し、不名誉をのみこみ、債権放棄してまで構築したベルサイユ体制はあっけなく瓦解したのです。リンドバーグの日記にはこうあります。
「英仏を勝たせるための助勢が可能だとしても、その結果はたぶんベルサイユ体制がそっくりそのまま繰り返されるだけであろう。アメリカの参戦は先の大戦と同じく、その根本的な解決を先に引き延ばすだけに過ぎまい。ヨーロッパは調整せねばならない時期に来ている。どのようなヨーロッパになるのか、ヨーロッパが自力で決めるしかない」
参戦に反対する有志が集まってアメリカ第一委員会が組織され、参戦反対運動が展開されました。リンドバーグはアメリカ第一委員会の主催する講演会で演説し、ラジオでも演説し、さらに連邦議会の公聴会で証言するなどして参戦反対を訴えました。この時期のリンドバーグは政治的冒険に挑んでいたと言えます。幸い、世論調査によればアメリカ国民の八割以上が参戦に反対していました。
リンドバークには社会的な影響力がありました。マスコミはリンドバーグの一挙手一投足を報道しましたし、聴衆はリンドバーグの演説を熱狂的に支持しました。しかし、それだけに戦争推進勢力からは敵視されました。新聞にはリンドバーグを誹謗中傷する記事が掲載されました。それでもリンドバーグは参戦反対を訴えつづけました。
リンドバーグは、ルーズベルト大統領を信頼していませんでした。ふたりのあいだには過去に確執があったのです。
一九三四年(昭和九)二月、ルーズベルト大統領は、連邦政府と民間飛行機会社との郵便契約を廃棄する大統領令を発出しました。公聴会も開かずに唐突に発出された大統領命令でした。かつて郵便飛行事業の開拓に貢献したリンドバーグは大いに驚き、ただちに大統領にあてて抗議の電報を打ちました。しかし、郵便飛行は国有化されてしまいます。
数ヶ月後、郵便飛行を代行していた陸軍機が墜落事故を起こしたため、ただちに郵便飛行の再民営化が実施されました。つまり、この件ではリンドバーグに軍配が上がったのです。ルーズベルト大統領は鼻を明かされたかたちです。
ふたつ目の確執は、一九三九年(昭和一四)一月のことです。すでに述べたとおり、渡欧したリンドバーグは欧州各国に招かれ、その空軍を視察する機会を得ていました。リンドバーグは愛国心から各国の空軍情報をアメリカ政府に報告していました。むろん機密でした。ところが、それをルーズベルト政権がリークしたのです。
「リンドバーグ、アメリカ政府にドイツ空軍の資料を提供か」
新聞の大見出しです。まさに悪意のリークでした。リンドバーグの名前を利用してドイツを怒らせ、米独間の対立を煽ろうとしたのです。リンドバーグは憤慨しました。
「極秘情報が一様にワシントンの官邸筋から報道機関の手に渡るのは驚くべきことであり、迷惑この上ない。機密保持に関する限り、国務省も陸軍省も信が置けぬ」
こうした因縁があったためにリンドバーグはルーズベルト大統領を信頼できずにいました。
そんなふたりが面談したのは一九三九年(昭和一四)四月二十日です。ルーズベルト大統領は、社会的影響力をもつリンドバーグを懐柔したかったのでしょう。対するリンドバーグも、自身の目でルーズベルト大統領の人となりを確認したかったようです。
リンドバーグが大統領執務室に入っていくと、ルーズベルト大統領は身を乗り出すようにして歓迎し、リンドバーグの家族の話題を口に乗せました。実に如才ない対応でした。
「わたしは彼が好きになった。彼とうまくやっていけそうな気がした」
とリンドバーグは日記に書いています。さすがに政治家だけあってルーズベルトは人たらしの名人でした。しかし、リンドバーグは観察眼をゆるめることなく、その視線で相手の肺腑をえぐりました。
「いささか慇懃に過ぎ、愛想がよすぎ、調子がよすぎるのだ。それでも、彼はわれわれの大統領である。いま自分のやっている仕事に関連して彼我のあいだに反目があって良いわけがない。あの飛行郵便問題は、自分の知る限り最低の政治的策謀であり、ひかえめに言っても不公正きわまりないものであったが、それも今は過去の出来事である。この際、今さら蒸し返したところでなんら建設的なものは得られぬ。ルーズベルトは非常に疲れて見えたが、まだ長期間にわたりがんばれる余力が充分に残っているように思えた。彼は自分の疲労に気づいているのだろうか。過労の実業家とそっくりの青白い顔色であった。しかもその声たるや、おしゃべりが過ぎて頭の働きが鈍ったときに見られる平凡単調、事務的な調子を帯びていた。語感のひとつを酷使した場合にみまわれる感覚の鈍化である。つまり、毎日、同じ献立を口にするときの味覚、変化のない音楽を聴かされるときの聴覚、手を一度も動かしたことがないときの触覚と同じように。ルーズベルトは起用する人物を素早く見抜き、人使いが実に巧妙である。概して政治的に振る舞う方だ。多くの基本的な問題で絶対にうまくやっていけないような気がする。しかし、彼には好きになれる点がいくつかある。だから、熟慮が必要になるときまでは、他の一面を何もくよくよ心配することはない。できる限り長く共に働いていく方が良いのだ。それにもかかわらず、なんとなく長続きしないような気がしてならぬ」
リンドバーグの日記には困惑が表現されています。大統領と協力した方が良いとは思うものの、どこか信頼しきれないものが心に引っかかったのです。
その後もリンドバーグは参戦反対の運動を継続します。一方、ルーズベルト大統領は武器貸与法や改正中立法を成立させ、さらにグリーンランドにアメリカ軍を駐留させるなど、戦争準備を着々と推進します。
ふたりの溝は深まりました。ルーズベルト大統領の炉端談話をラジオ放送で聞くたびにリンドバーグは不信の念を強めました。FBIがリンドバーグの電話を盗聴しているという情報にも接しました。そして、リンドバーグがニューヨークで参戦反対の演説をした二日後の一九四一年(昭和一六)四月二十五日、ルーズベルト大統領は記者会見の場で「リンドバーグはファシストである」と非難したのです。名指しでファシストと決めつけたのです。
リンドバーグは憤慨し、陸軍を退役する決意をします。リンドバーグは陸軍大佐でした。そのときのリンドバーグの苦悩が日記に描かれています。
「祖国のために自ら信ずる戦争を戦えたら、どれだけ好ましいだろう。賛同できない戦争を戦おうとする祖国に反対している我と我が身を見出すとは何という皮肉な運命であろう。自分が共感を覚える哲学は平和主義である。しかも、陸軍航空隊で操縦桿を握ることにしか自分は関心がないのに、今こうして平和主義者とともに祖国に挑戦し、あまつさえ陸軍航空隊の大佐として退役を願い出ようと考えているのである。アメリカが正しい理念の側に立ってさえいたら、戦う意味はあるのだ。しかし、今回の戦争に加わったならば、我々の祖国に、そしておそらく全文明に災厄をもたらす羽目になるだろう」
リンドバーグはルーズベルト大統領と袂を別つ決意を固め、退役届けを提出しました。
リンドバーグが公然とルーズベルト政権を批判したのは一九四一年(昭和一六)九月十一日です。この日、リンドバーグはアイオワ州デモイン市で歴史的な演説をおこないました。
「欧州戦争が始まって二年が経過した現在、アメリカ合衆国を紛争へ巻き込もうとする策謀が盛んに行われています。この策謀は外国勢力によって実施されています。この策謀に協力しているアメリカ人はごく少数ですが、にもかかわらずその策謀は成功しつつあり、わが国は戦争の瀬戸際に立たされています。
われわれは欧州の戦争に深く関与する必要があるのでしょうか。わが国の政策を、中立と独立から欧州への介入に変化させた責任者は誰なのでしょう。
海外戦争を唱道する人々と、アメリカの独立を守るべきだとする人々との根本的な相違点を皆様にお示ししたいと思います。海外戦争への介入に反対する人々は常に事実を明らかにしようと努めてきたのに対し、介入主義者は複雑な議論によって事実を隠そうとしてきました。戦争が始まる前から最近に至るまでわたしたちが何を主張してきたか、それをぜひ読んでいただきたいのです。わたしたちの記録は公開されており、それらはわたしたちの誇りでもあります。わたしたちは皆さんを誤魔化したり、プロパガンダしたりしようと考えてはいません。わたしたちは、アメリカ国民を望まぬところへ行かせたりしません。一方、介入主義者やイギリスの代理人やワシントンの政治家が、過去をふりかえって過去の記録を検討して下さいとみなさんに言ったことがありましたか。民主主義の妨害者が、参戦問題を国民の投票によって決めようと主張したことがありますか。
欧州で戦争が始まったとき、アメリカ国民は戦争への介入に強く反対しました。なぜでしょう。アメリカは世界で最も防衛しやすい立場にあるからです。わたしたちは欧州からの独立を伝統としてきました。アメリカは一度だけ欧州戦争に参加しましたが、欧州の問題は解決されぬまま残り、アメリカへの債務は支払われませんでした。同じ失敗をくり返してはなりません。
英仏が対独宣戦布告をした際、アメリカ全土の世論調査によれば、第一次大戦と同じ政策をとることに賛成した人々は一割未満に過ぎませんでした。一割未満です。しかし、この一割未満が問題なのです。アメリカを参戦させることによって利益を獲得したいと願っている人々です。彼らの存在と手段をわたしは明らかにします。彼らの努力に対抗し、彼らが何者なのかを知るために、わたしは率直にありのままを話します。
アメリカを戦争へ向かわせている主体は、イギリス、ユダヤ人、ルーズベルト政権、この三者です。まずイギリスです。大英帝国がアメリカの参戦を望んでいるのは明確であり、完璧に理解することができます。イギリスはいま危機に直面しています。ドイツとの戦争に勝利し欧州大陸に進攻するためには、イギリスの人口は寡少であり、イギリスの軍事力は不充分です。もしイギリスがアメリカを参戦させたら、イギリスは、戦争責任の大部分をアメリカに肩代わりさせることができるでしょう。
イギリスは、これまでも、そしてこれからもアメリカを参戦させるために全力を傾けるでしょう。先の大戦時、イギリスはアメリカを参戦させるために巨額の資金を使ってプロパガンダを実施したことが知られています。今次大戦でもイギリスは巨額の資金をアメリカにおけるプロパガンダに投入しています。もし、われわれがイギリス人だったら同じことをするでしょう。しかし、われわれの関心は第一にアメリカなのです。
次に重要なのはユダヤ人です。ナチスドイツの打倒をユダヤ人が望む理由は明確です。ドイツ国内でユダヤ人が直面している迫害は、民族的な敵を生むのに十分だといえます。人権意識を有する人なら誰でもドイツにおけるユダヤ人迫害を許すことはできないでしょう。しかし、正直な人なら誰でも、戦前の政策の危険性を知っていたはずです。ユダヤ人は、戦争を煽動するのではなく、あらゆる手段を尽くして戦争に反対するべきです。忍耐は、平和と強さに依存する徳目です。戦争と荒廃が人々から忍耐を奪うことを歴史は示しています。一部のユダヤ人はこのことを知っており、戦争介入に反対しています。しかし、ユダヤ人の大多数は違います。ユダヤ人はアメリカの映画業界、新聞業界、ラジオ業界、政界に強い影響力を持っています。
わたしは、イギリス人とユダヤ人の指導者がアメリカを戦争に参加させようと画策している事実を指摘せざるを得ません。彼らの信仰や利害を非難することはしませんが、われわれアメリカ人にもわれわれの信仰と利害があります。アメリカを破壊に導くような歪んだ情熱や偏見を許すことはできません。
ルーズベルト政権は、この国を戦争に導こうとする第三の勢力です。アメリカ史上初の三選を達成するためにルーズベルトは戦争の危機を利用しました。政権は史上最高額の軍事予算をかちとるために戦争を利用しました。彼らは連邦議会の権限を制限し、大統領権限を拡大するために戦争を利用しました。ルーズベルト政権の権力は戦時の危機に立脚しています。ルーズベルト政権の危険性はその虚偽にあります。ルーズベルト政権はわれわれに平和を約束する一方で、われわれを戦争へと導いているのです。
イギリス、ユダヤ人、ルーズベルト政権、これらが戦争を煽動する三大勢力です。これらのうちのたったひとつでもいい、戦争への煽動をやめたら、参戦の危険はほとんどなくなるとわたしは信じます。
三大勢力は、第一次大戦時にアメリカを参戦させた方法を用いれば再びアメリカを参戦させることができると信じているのです。その方法とはプロパガンダです。映画館を戦争賛美映画で満ちあふれさせる。新聞や雑誌が反戦記事を掲載したら、広告収入を失わせる。参戦に反対する個人を攻撃対象とする。アメリカの参戦は国益に反すると主張する人々には、「第五列」、「裏切り者」、「ナチス」、「反ユダヤ主義」などの言葉を投げつける。反戦を口にした者を失業させる。こうして多くの人々が沈黙させられるでしょう。講演会場は戦争賛美者に占拠され、反戦をとなえる人々は講演会場から締め出されるでしょう。
アメリカの国防を装えば、莫大な予算を獲得するのは容易です。国民は国防計画によって動員されます。銃や飛行機や戦艦が充当され、世論は押し潰されます。軍備はアメリカのためではなく、欧州のために整備されるのです。
事実、軍需工場で製造された戦闘機は、可能な限り迅速に海外へと送られています。欧州の戦争が始まって二年が経過している今日、国内には戦闘機も爆撃機も乏しく、大部分は欧州へ送られているのです。軍備計画は、アメリカ防衛のためではなく、欧州戦争のために推進されているのです。
いま、われわれは戦争の瀬戸際に立っています。アメリカは実戦にこそ参加していないものの、事実上の参戦状態です。
アイオワ州のみなさん、みなさんこそが戦争を止め得るのです。反戦世論が高まっています。民主主義が試されています。たとえ勝利しても、戦争は疲弊と混沌をもたらすだけです。
われわれは戦争の瀬戸際に立っています。しかし、まだ間に合います。自由な人々に戦争を強いるのを止めましょう。建国の父が確立したアメリカの独立と尊厳を守るのです。未来はわれわれの肩にかかっています。われわれの行動、勇気、知性にアメリカの未来がかかっています。もし、あなた方が戦争に反対するなら、声をあげて下さい。
われわれの意志を政府と議会に知らせましょう。アメリカ国民がそうすれば、独立と自由は生き続け、外征戦争をする必要はなくなるでしょう」
リンドバーグのデモイン演説は大きな反響を呼びました。戦争煽動の三大勢力を明確に指摘したからです。ルーズベルト政権からの非難は覚悟していました。
ところが、リンドバーグは意外なところから批判されます。アメリカ第一委員会の内部から批判が出たのです。フーバー元大統領は「ユダヤ人問題にふれるべきではなかった」とリンドバーグを批判しました。それほどにユダヤ人問題はアメリカ社会のタブーだったのです。それにあえて触れたリンドバーグは政治的にも冒険家だったというほかありません。
そんなリンドバーグの努力を吹き飛ばす事件が発生しました。日本海軍航空隊がハワイ真珠湾を奇襲したのです。リンドバーグは態度を翻します。
「われわれは今や攻撃されたのだ。しかも、領海内で攻撃を仕掛けられたのである。われわれは戦争を背負い込んだのである。かかる状況に立ち至れば、もはや戦う以外に手はない」
リンドバーグは現役に復帰して陸軍航空隊に所属し、軍人として国家に貢献したいと考えました。しかし、同時に、リンドバーグは真珠湾がやすやすと奇襲されたことに強い疑念を感じ、そのことを日記に書き留めています。
「わが空軍、わが海軍はどのようにして日本軍をやすやすとハワイ諸島へ接近させたのか。日本軍の損害はいくらか。われわれの損害は。日本の奇襲攻撃は別に驚くにあたらぬ。われわれは何週間にもわたり、彼らを戦争に駆り立てていたのだから。彼らはただ単にわれわれのヨコ面を張り飛ばしただけだ。しかし、ラジオ放送によればハワイ攻撃は激烈をきわめたものだったという。日本軍をして真珠湾をわけもなく攻撃し、やすやすと脱出できると思わせたほど、われわれは多くの軍用機と艦艇を大西洋に回してしまったのか」
リンドバーグの疑問はもっともでした。実のところ、日本海軍航空隊の奇襲を成功に導いた最大要因は、ルーズベルト大統領の陰謀にあったのですから。
リンドバーグは陸軍への現役復帰を嘆願しますが、これは聞き入れられませんでした。最高司令官たるルーズベルト大統領への忠誠心が疑われたのです。このときリンドバーグは胸を張って反論しました。
「自分の信念に関する限り、開戦前と開戦後で少しも変わっておらぬ。かかる問題は常に戦時下の民主主義が直面せねばならぬものであろう。政治上の反対意見というのは民主主義制度に固有のものである。したがって、いったん戦争が始まれば、開戦前に戦争反対を唱えた者をどのように扱うかということが問題となるのだ。一市民としてのわたしはルーズベルト大統領に信頼が置けないので、現政権が交代するのを希望する。しかし、一軍人として陸軍航空隊に復帰すれば、陸軍最高司令官としての大統領の命令には従う」
リンドバーグの態度は立派でしたが、現役復帰はかないませんでした。やむなくリンドバーグは航空機製造会社で働き、軍用機開発に貢献をしたいと望み、複数の航空会社に接触します。しかし、これもルーズベルト政権の妨害に遭い、うまくいきませんでした。
その窮状を救ってくれたのは自動車王のヘンリー・フォードでした。リンドバーグはフォード・モーター社およびユナイデッド・エアクラフト社と契約を結び、主にコルセア戦闘機の開発に従事します。
やがてコルセア戦闘機が完成して実戦配備されると、実戦における有効性を確かめるためリンドバーグは技術顧問として南太平洋の戦場へ赴きます。驚嘆すべきことですが、民間人のリンドバーグは戦闘機に乗り、最前線の空を飛び、五十回もの戦闘任務に従事し、日本軍機と銃火を交えさえしました。これほどの冒険は後にも先にも例がありません。
その後、リンドバーグは敗戦直後のドイツへ飛び、ドイツ軍の航空機開発事情について調査する任務に従事しました。
リンドバーグの日記は一九四五年(昭和二十)六月十一日でおわっています。そこには戦勝にうわつくような記述は皆無です。
「ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋で日本人におこなってきたのである。ドイツ人が人間の灰を穴に埋めることで自らを汚したと同じように、われわれもまた、ブルドーザーで遺体を墓標のない熱帯の浅い穴に放り込むことにより自らを汚したのである」
歴史修正の基礎資料としてきわめて貴重な内容を含むリンドバーグの日記は、一九七〇年(昭和四五)に「リンドバーグの戦時日記」としてアメリカで刊行されました。日本では四年後に「リンドバーグ第二次大戦日記」として翻訳出版されています。この本の巻末には、リンドバーグが刊行者にあてた手紙が紹介されています。以下はその一節です。
「われわれは確かに軍事的な意味での勝利を得た。しかし、もっと広い意味から考えれば、われわれは戦争に敗北したように思われてならない。なぜなら、われわれの西欧文化はもはや昔日のように尊敬されてもいなければ、確固としたものでもなくなっているからだ。ドイツと日本を敗北させるために、われわれはそれよりも脅威の大きいロシアと中国とを支援した。両国は今や、核兵器の時代にあってわれわれと対決する関係にある。ポーランドはついに救済されなかったし、大英帝国は非常な苦悩、出血、混乱に見舞われて崩壊した。イギリスは経済的に窮屈な二流国となってしまった。フランスは主たる植民地を放棄し穏健な独裁制の国家に生まれ変わった。西欧文化の大半は破壊された。ソビエトは鉄のカーテンを引いて東ヨーロッパを覆い隠し、何事にも反対する中国政府はアジアでわれわれを脅かしつつある」