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ハーバート・フーバー

挿絵(By みてみん)


 第三十一代アメリカ大統領ハーバート・クラーク・フーバーは立志伝中の人物です。一八九五年(明治二八)にアイオワ州の貧しい農家に生まれたフーバーは、苦学して大学を卒業し、鉱山技師になりました。敬虔なクエーカー教徒だったフーバーは働き者でした。世界中の鉱山を渡り歩き、四十五ヶ国もの国々で働きました。おかげでフーバーは屈指の世界通となりました。当時としては希有な人材です。

 鉱山ビジネスで財を成したフーバーは、第一次世界大戦に際会すると慈善事業にのりだします。ヨーロッパの戦争地域に居住していたアメリカ人の帰国を支援したのです。さらに、イギリス軍の対独港湾封鎖作戦の余波によって食糧不足に陥っていたベルギーに大量の食糧を輸送してベルギー国民を飢餓から救いました。フーバーは私費をなげうち、民間から寄付を募り、すべてを民間事業として推進しました。称賛に値する民間慈善事業でした。これを喜ばなかったのはイギリスです。イギリス政府はフーバーの事業を妨害しようと画策しますが、フーバーは屈せず、民間の力で食糧支援を継続しました。並外れたマネジメント能力といえるでしょう。

 フーバーの活躍はウイルソン大統領の目にとまります。ウイルソン大統領はフーバーを食糧庁長官に抜擢しました。フーバーは食糧支援事業を拡大させ、ポーランドやソビエト連邦への食糧支援を実施します。人道援助活動の推進者としてフーバーの名は大いに高まりました。

 この功績が認められ、一九二一年、フーバーは商務長官に累進します。その後、共和党大統領候補となり、一九二九年三月、第三十一代アメリカ大統領に選ばれました。アメリカ史上はじめての経済界出身の大統領でした。

 この頃、アメリカは繁栄の絶頂期にありました。資本主義者のいう「神の見えざる手」によって経済成長が保証されているとだれもが信じていました。フーバー政権の船出は順風満帆に見えました。

 これが暗転したのは突然です。フーバーが大統領に就任して間もない十月、ウォール街の株式市場で株価の大暴落が発生し、アメリカ経済が大混乱に陥っていきます。この余波は世界へ広がり、世界恐慌となります。

 財政均衡論者だったフーバー大統領の経済対策は、その初動において対応を誤りました。緊縮政策をとったのです。このためアメリカの経済規模が縮小し、失業者が巷にあふれるようになりました。過ちに気づいたフーバー政権は、おくればせながら財政均衡原則をかなぐりすて、失業者を救済するために財政出動を拡大させ、大規模な公共事業を実施するようになりました。それでも経済はなかなか好転しませんでした。

 フーバー政権が財政赤字を拡大させたことを政敵たちは見逃さず、政権批判の材料にしました。なかでも民主党のフランクリン・ルーズベルトは、フーバー政権の財政赤字拡大をきびしく非難して世間の注目を集めました。

 フーバーが再選を目指した大統領選挙はきびしい戦いとなりました。深刻な不況下での選挙に勝つのは不可能と言えるでしょう。フーバー大統領は苦杯をなめます。勝利したのは民主党のフランクリン・ルーズベルトでした。フーバーは失意のうちにホワイトハウスを去ります。

 フーバー政権の財政出動と赤字拡大を非難して支持を集めたルーズベルト大統領は、いざ政権の座につくと、そのことを忘れたかのように大々的な財政出動を実施していきます。いわゆるニュー・ディール政策です。

 ルーズベルト大統領は政権中枢に若手の共産主義者や社会主義者をかき集めて政策ブレーンとし、社会主義的政策を推進していきました。そんなルーズベルト政権を、こんどはフーバーが野党の立場から批判しました。とくにソビエト連邦を国家承認してスターリンに接近したルーズベルト大統領の動きにフーバーは警鐘を鳴らしました。伝統的リベラリストだったフーバーは、共産主義や全体主義に警戒感と嫌悪感を持っていましたから、ルーズベルト大統領のすすめる容共外交と全体主義的内政をやきもきしながら見守っていました。フーバーがとくに懸念したのは、ルーズベルト大統領の対欧州外交と対アジア外交です。ルーズベルト政権は欧州や極東の情勢に過剰に干渉していました。

 フーバー政権の外交政策は不干渉主義でした。ヨーロッパにも極東にもあまり深く介入せず、アメリカの巨大な国力を平和維持の仲裁者として活用するという方針でした。そんなフーバー政権とは異なり、ルーズベルト大統領の外交政策は欧州とアジアに過剰な介入をし、むしろ紛争を激化させていました。ルーズベルト政権はポーランドやイギリスやフランスを支援してドイツとの対立を煽りました。アジアでは蒋介石を全面的に支援して支那事変を長引かせていました。その結果、欧州で第二次世界大戦が始まってしまいます。さらにルーズベルト大統領は日本を経済的に圧迫し、ついには日本軍をして真珠湾奇襲を惹起させます。これを奇貨としてルーズベルト大統領はアメリカを第二次大戦に参戦させます。

 アメリカ参戦の瞬間から歴史修正主義者としてのフーバーの事業が始まりました。なぜアメリカが参戦することになったのか。アメリカは参戦せず、むしろ戦争の仲介者として振る舞うべきではなかったか。これがフーバーの問題意識でした。

 野党議員だったフーバーは、参戦に至るまでの政権中枢の機密に触れることができませんでしたが、入手可能な情報を蓄積して分析し、真相を割り出そうとします。ルーズベルト大統領の演説や声明、ルーズベルト政権が成立させた各種の法律、それに対する世論と各国政府の反応、真珠湾奇襲に関する各種報告書、アメリカ国務省の外交文書、ソビエト共産党の動向など、客観的な資料をドシドシ収集していきました。

 スタンフォード大学フーバー研究所には戦中から戦後にかけて収集された膨大な歴史的文書が集積され、分類されていきました。アメリカおよび世界各国から二十三万五千部もの文書が集められました。フーバー自身も活発に動きました。世界各国の要人に会い、その証言を収集したのです。

 収集した資料を読破し、フーバーが研究成果をまとめたのは一九六三年九月です。アメリカの参戦から二十年以上が経過していました。じつに長く、粘り強い研究でした。その原稿には「裏切られた自由」というタイトルがつけられました。自由主義者のフーバーから見ると、ルーズベルト大統領の政策はあまりに容共的であり、全体主義的であり、自由主義への裏切りだったからです。

 せっかく完成した原稿でしたが、フーバーは出版をためらいました。その衝撃的な内容がアメリカ社会に混乱を引き起こすかも知れないと考えたからです。また、フーバーとルーズベルトが互いに政敵だったことから、「これは単なる誹謗中傷だ」と人々に誤解されることをおそれました。

 翌年、フーバーは世を去り、歴史修正の事業はフーバー研究所に託されました。フーバーが晩年の全精力を傾注して執筆した「裏切られた自由」がアメリカで出版されたのは二〇一一年(平成二三)です。フーバーが執筆を始めてから実に七十年もの時間が経過していました。

 「裏切られた自由」は、ルーズベルトを英雄視してきた戦後アメリカ社会に大きな衝撃をあたえました。戦勝国史観に深甚な疑問を投げかける内容だったからです。

 フーバーの見解によれば、第二次世界大戦とは、ルーズベルトとスターリンが談合して世界を分け合うためのイベントでした。実際、スターリンのソビエト連邦はユーラシア大陸の大半を赤化させ、ルーズベルトのアメリカは世界の海洋覇権を獲得しました。ルーズベルト大統領は自由と民主主義を守ったわけではありません。ルーズベルト大統領はアメリカの海洋覇権を確立するために独裁者スターリンと談合し、東欧と支那大陸を共産ソビエトに提供したのです。アメリカの正統史観からすれば、天地がひっくり返るような歴史解釈です。

 その詳細をここで論じることは不可能です。ぜひ日本語訳「裏切られた自由」をお読みください。ここでは、もしもフーバー大統領が再選していたらという歴史フィクションを記述することでフーバーの歴史解釈の一端を紹介したいと思います。

 

   ---*---


 再選を果たしたフーバー大統領はアメリカ経済の復興を最優先政策とした。公共事業を拡大させるなど、雇用確保を推進する経済政策を実施し、外交的には共産主義とナチズムに対する警戒を怠らず、共産主義勢力のアメリカ社会への浸透に神経を尖らせ、防諜態勢を強化した。また、フーバー大統領はソビエト連邦の国家承認をためらいつづけた。

 ヨーロッパではナチス・ドイツがベルサイユ体制を破壊しつつあった。極東では支那事変が勃発した。これに対するフーバー政権の外交姿勢はあくまでも不干渉主義であった。

 アメリカが不干渉主義をとったため、英仏両国はドイツに対して強い態度をとることができず、対独宥和策を採用しつづけるしかなかった。ドイツは、ベルサイユ条約で失った領土を次々と併呑して失地を回復していった。

 それでもフーバー大統領は外交姿勢を変えなかった。アメリカの若者が欧州のために死ぬ必要はない、現在の欧州情勢はベルサイユ条約でドイツに過酷すぎる条件を課した英仏両国の自業自得である。そのようにフーバー大統領は達観した。そして、フーバー大統領はチェンバレン英首相の対独宥和策を冷静に支持した。

 蒋介石からは軍事支援の要請がしきりにとどいていた。蒋介石夫人の宋美麗はその美貌と巧みな演説でアメリカ国民にアピールしていた。しかし、フーバー大統領はこれを婉曲に謝絶し、支那事変への介入を抑制した。すでに国共合作していた蒋介石に防共の役割を期待することはまったくできなかったからである。このため日本軍優勢のままに支那事変は推移していった。

 フーバー大統領はあくまでもアメリカ第一主義であり、決して親独家でも親日家でもなかった。ただ、共産主義に対する防波堤としてドイツと日本の地政学的な存在価値を認めていたのである。

 ドイツはいずれソ連に侵攻する。これがフーバー大統領の予想だった。そのことは秘密でも何でもなく、ヒトラー著「わが闘争」に書いてある。ドイツとソビエト、ヒトラーとスターリン、ふたつの独裁国家が相戦って共倒れしてくれることをフーバー大統領はひそかに期待した。

 日本については、その国力をフーバー大統領は正確に理解していた。日本の国力はアメリカの二十分の一に過ぎず、日本はアメリカの脅威たり得ない。しかも日本は支那事変を戦っているのであり、アメリカを敵に回す理由がない。むしろアメリカとの友好を求めてきている。実際、パネー号事件における日本政府の対米姿勢は完全に融和的だった。要するに日米が戦う理由はまったく存在しなかった。アメリカの国内世論は蒋介石を礼賛し、中国支援を訴えていたが、その誤謬をフーバーは見抜いた。親中プロパガンダに惑わされず、あくまでも支那事変に介入しないという態度を堅持した。

 一九三九年、ドイツとソ連がポーランドを分割占領すると、チャーチル英首相が盛んに欧州への干渉を求めてきた。チャーチル首相は株式相場で多額の負債をかかえ、その債務をユダヤ資本家に肩代わりしてもらっていた。要するにユダヤ人勢力の代弁者であるチャーチル首相は、得意の弁舌と達意の文章でナチス・ドイツ打倒をフーバー大統領に訴えた。アメリカ世論の一部も打倒ドイツとユダヤ人救出を叫んだ。しかし、アメリカ世論の大勢は概して局外中立を支持しており、参戦や介入には過半数が反対していた。フーバー大統領はアメリカ国民の民意を重視し、軽挙妄動せず、不干渉政策を堅持した。

 フーバー大統領の外交政策は、蒋介石やポーランドやユダヤ人にとって酷薄非情なものだったといえる。しかし、アメリカがはるか遠い欧州や極東の戦争に参加する理由を見出すことはできなかったし、第一次大戦の反省から、欧州も極東もアメリカの若者が血を流すべき場所ではないとフーバーは考えた。

 そもそもアメリカ政府の外交政策はオフショア・バランシングを基本としている。イギリス、フランス、日本などユーラシア大陸の辺縁部に位置する国々を支援し、ユーラシア大陸中心部の巨大国家ソビエトを牽制させる。これがアメリカの伝統的な地政学的政策である。アメリカ軍をユーラシア大陸へと進行させ、アメリカの若者を欧州や極東の地で死なせる考えはフーバー大統領の脳裏には毛先ほども浮かばなかった。

 フーバー大統領はアメリカの伝統を守り、一九四〇年の大統領選挙には立候補しなかった。幸い選挙では共和党候補が勝利した。

 ドイツとソ連の蜜月関係はあっけなく崩れ去り、一九四一年、ドイツ軍がソビエト領内に侵攻を開始した。共和党出身の新大統領はフーバーの外交政策を引き継ぎ、独裁国家同士の戦争を静観し、その共倒れを待った。フーバーは、英仏両国がドイツの脅威から解放されたことを喜んだ。あとは独ソという独裁国家同士が相争い、ともに力尽きる時を待てばよい。そして、独ソ戦争を仲裁するためにこそアメリカの巨大な国力を使うべく、機が熟するのを待った。

 同時に、新大統領は極東に注意の目を向けた。日本が対ソ参戦する形勢ならば外交的威圧を加える必要があった。日本を防共の城砦として活用することはアメリカの国益にかなうが、日本が現状をこえて勢力を拡大させることは望ましくない。幸い日本は独ソ戦争を静観する模様である。

 ドイツとソビエトは死力を尽くして戦った。資本主義諸国は独ソ両国に軍需物資を輸出することによって国内経済を好転させていった。

 戦場となった東欧および欧露の惨状は目をおおうばかりであった。新大統領はフーバーに民間人の避難と食糧支援の任務を与え、フーバーはこれに尽力した。新大統領は英日両政府に働きかけるとともに、海軍と商船隊を総動員した。欧州と極東に戦災難民専用の避難地域を確保し、ここに戦災難民を避難させた。そして、避難地域に対する攻撃をひかえるよう独ソ両国に申し入れた。独ソ両国は、資本主義諸国からの軍需物資の輸入途絶をおそれ、米大統領の提案を受け入れた。その避難地域へ向けて米英日の商船隊が援助物資を送り、その船団を米英日の海軍艦艇が護衛した。

 独ソの戦争は長引いた。両国とも疲弊し、戦う力を失っていった。米大統領は好機到来と判断した。米英仏日の四ヶ国による仲裁を独ソ両国に提案した。しかし、ヒトラーとスターリンはこれを拒絶した。

 米大統領は機が熟するのを待った。原子爆弾の開発に成功すると、米大統領はその事実を独ソ両国に伝達した。ここにおいて独ソ両国は米英仏日による仲裁を受け入れ、休戦が実現した。

 米英仏日の四ヶ国は大量の食糧と生活物資を東欧および欧露の戦災地に輸送し、戦後の混乱を最小限にくいとめた。戦後処理を主導した米大統領は、ベルサイユ条約の失敗をくり返さないため独ソに対する懲罰的な措置を避けた。ただ、ヒトラーとスターリンについては、その地位を剥奪し、幽閉した。全体主義の芽を摘むため民主的な政権を独露に樹立させた。

 フーバー大統領とそれを継いだ新大統領の外交政策によって世界大戦という愚行の再現は未然に防がれた。多大な犠牲を伴ったとはいえ、戦争は欧州と支那に限定された。原子爆弾は抑止力としてのみ威力を発揮した。アメリカ軍将兵は一滴の血も流さなかった。東欧諸国も支那大陸も一時的な戦乱に苦しみはしたが、赤化を免れた。ロシア国民は共産主義から、ドイツ国民はナチズム(国家社会主義)から解放された。

 資本主義国同士を相戦わせて世界を混乱させ、その機に乗じて世界を共産化するというレーニン戦略はフーバーによって葬り去られた。


   ---*---


 残念ながら、歴史はこれと真逆の方向に進行してしまいました。戦争は極限されることなく、戦火は世界中に広がりました。原子爆弾が広島と長崎に投下されました。ユーラシア大陸の大半は共産主義の支配するところとなり、当時の人口でおよそ五億人が共産主義の圧制下で呻吟することになりました。

「なぜ、こんなことになったのか」

 それがハーバート・フーバーの疑問でした。そして、その理由の主要な部分をフランクリン・ルーズベルト大統領が担っていた事実を客観的に記述するのがフーバーの生涯最後の事業でした。

 ルーズベルト大統領を英雄視する正統史観はいまなお圧倒的な支持を得ており、この歴史観が修正されるにはまだ長い時間がかかりそうです。それでも、ながい沈黙をへて「裏切られた自由」が出版されたことにより、第二次世界大戦に関する歴史修正の事業は歩みを進めたといえるでしょう。


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