ジョン・マクマリー
ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリーは、一八八一年(明治一四)にニューヨーク州で生まれました。プリンストン大学で外国語と文学を学び、当時の学長だったウッドロー・ウイルソンの薫陶を受け、いわゆる国際協調主義の理念に共感しました。マクマリーはコロンビア大学に転じて法律を修め、弁護士資格を取得します。しかし、弁護士にはならず、外交官試験に合格して国務省に奉職します。
マクマリーの任地は、バンコク、サンクトペテルブルグ、北京、東京などでしたが、とくに支那大陸の現状に関心を向けました。当時の支那大陸は、清国が倒れて中華民国が成立するという転換期でしたが、実質的には軍閥割拠の無政府状態であったばかりでなく、列強諸国と数多くの不平等条約を結ばされており、まさに主権喪失の状態でした。マクマリーは、それらの不平等条約を整理し、不平等条約下における中国の主権について国際協調主義の観点から分析し、その研究成果を出版しました。この実績は国務省の認めるところとなり、中国問題のスペシャリストとして知られるようになりました。
中国の悲惨な主権喪失状況を目にしたマクマリーは、国際協調主義の理念を実現しようと考えました。不平等条約下にある中国には内発的に独立を達成する力がない。だから、列強諸国が協調して中国の主権を回復させてやるべきだと考えたのです。
そんなマクマリーにとって、一九二一年(大正一〇)から翌年にかけて開催されたワシントン会議は格好の外交舞台だったといえるでしょう。マクマリーは、太平洋および極東問題に関するアメリカ専門家スタッフのチーフとしてワシントン会議に臨みます。
中国の領土保全と外国特権の段階的廃止をマクマリーは提議しました。奇跡的なことですが、列強諸国はマクマリーの提案を大筋で受け容れました。第一次世界大戦の惨劇の記憶がまだ生々しかった時期でしたから、国際協調主義が力を持ち得たのです。マクマリーの努力は九ヶ国条約として結実します。同条約の第一条は高々とその理想をうたっています。
中国の主権、独立ならびに領土的および行政的保全を尊重する。
この条項は単なる空念仏ではありませんでした。イギリス、フランス、日本の三ヶ国は、租借地の一部を無償で中華民国に返還したのです。帝国主義の終焉を思わせるような義挙でした。ワシントン会議は、アジア太平洋地域の安全保障体制と、それを維持すべき列強諸国の義務と権利を締約して終了しました。
マクマリーは国務省極東部長から国務次官補へ昇り、ワシントン会議で成立した九ヶ国条約を履行する立場となりました。
ところが一九二三年(大正一二)、はやくも問題が発生します。広東政府の孫文が貿易港に設置されていた税関を接収すると宣言したのです。当時、中国には関税自主権がなく、税関は外国人によって運営されていました。関税収入はすべて外国に吸い上げられていたのです。この現状を不服とした孫文が国際法規の手続きをすっ飛ばし、九ヶ国条約も無視し、一方的な通告のみにより関税収入を我が物にしようと企んだのです。孫文の背後にはソビエト連邦の助言と支援がありました。
孫文の暴挙に列強諸国は驚嘆します。関税自主権についてはワシントン条約発効後に開催される関税会議において協議され、具体的な関税権返還の手続きが議論されるはずだったからです。アメリカとイギリスは、やむを得ず軍艦を派遣して威を示し、孫文を沈黙させました。こうして事件は収束しましたが、国際協調主義によって構築されたワシントン体制崩壊の序曲となりました。
すでに述べているとおり、この頃の支那大陸は軍閥割拠の内乱状態でした。中華民国を代表する統一政府がなかったのです。このため列強諸国は、あるときは北京政府と交渉し、あるときは広東政府と協議し、またあるときは満洲政府と折衝せねばなりませんでした。しかも軍閥政府同士は反目し合っていましたから交渉は容易にまとまりません。軍閥同士の覇権争いや軍閥内部での反乱が頻発し、交渉相手がめまぐるしく変わりました。そして、国際法や条約を守ろうとしない支那の政治家や官僚の無知と前近代性とに、列強諸国の外交官は翻弄されつづけていました。
そんな中華民国にマクマリーが赴任したのは一九二五年(大正一四)です。中国公使として北京に入りました。マクマリーは、九ヶ国条約によって約束された中国の段階的主権回復を現場で指揮することになったのです。
しかし、物情騒然たる支那大陸の現実はマクマリーの想像を越えるものでした。上海や香港では帝国主義に反対するストライキや暴動やボイコット運動が頻発していました。民族意識に目覚めた支那民衆はコミンテルンに指導され、反英、反米、反日の運動を活発化させていたのです。
それでも九ヶ国条約を含むワシントン条約が発効し、予定どおりに関税特別会議と治外法権委員会が北京で開始されました。
しかしながら、列強諸国と中国の代表が集ったこれらの会議は進展しませんでした。その理由は枚挙にいとまのないほどです。軍閥同士の抗争が絶えず、とくに蒋介石の北伐が始まってからは会議が中断されてしまいました。また、軍閥政府には国際法や条約を遵守するという基本姿勢が欠如していました。列強諸国の足並みも乱れました。各国は国際協調よりも目先の国益を優先するようになっており、独自の行動をとり始めていました。ワシントン条約の成立からわずか五年を経ずして国際協調主義は空文化していたのです。
支那各地の軍閥政府は、ベルギーとの条約を廃棄すると主張したり、海港の税関を実力で接収すると恫喝したり、日清条約を無効化すると声明したり、新たな新税を一方的に新設したりと、無法な要求を出し続けました。
マクマリー公使は列国代表とともに、無茶をやめるように中国側代表を説得しました。九ヶ国条約に基づく合法的な協議を通じて段階的に主権を回復すべきだと忠心から助言したのです。九ヶ国条約は、中国にとって破格の好待遇を保証するものでした。列強諸国が協調して中国の不平等状態を解消してくれるというのです。これ以上の優遇はなかったはずでした。
ところが不可解なことに、支那軍閥政府の要人は聞く耳を持ちませんでした。マクマリーが苦労して成立させた九ヶ国条約は、その恩恵を受けるべき当の中国から拒絶されてしまったのです。たびかさなる中国側の非合法措置、とくに新税を独自に設置するとした軍閥政府の無法ぶりに接したマクマリー公使は、本国政府に強硬手段をとるよう請訓します。当時の電文が残っています。
「中国の国際的無責任主義には同意出来ないと非公式に示唆するべきである。このような趣旨の非公式示唆を国務長官がなさるなら、中国の暴走の抑制におおいに影響力を発揮すると慎んで提案する次第である。中国の現在のような行動は、それほど遠くない将来に極東に新しい戦争を招くであろうと、わたしはそれを深く憂慮している」
マクマリーは、米英日が艦隊を組んで上海封鎖などの示威行動をとるのもやむを得ないと付言しました。しかし、アメリカ政府はマクマリー公使の提案を採用せず、むしろ中国側に対して迎合的態度をとり続けました。さらに不可解なことに、マクマリー公使の訓電がマスコミに流出し、強硬手段を提案したマクマリー公使は親中的な新聞各紙から「砲艦公使」と書き立てられ、はげしく批判される事態となりました。
この時期のアメリカにはエキセントリックなまでの親中世論があふれていました。
「中国を助けてやれ」
「不平等条約を撤廃してやれ」
「中国は巨大な市場である」
そんな親中世論をアメリカ政府は無視せず、むしろ迎合していました。というより、アメリカ政府がそうなるように世論を誘導していたのかもしれません。
イギリスもアメリカと同様でした。上海や広東における反英暴動に悩んでいたイギリスは、中国に対して迎合的態度を示し、漢口と九江の租界を返還して歓心を買おうと試みました。しかし、効果はありませんでした。中国側は調子に乗り、いっそう条約無視の態度を強めたのです。
蒋介石は北伐の最中でした。北伐とは、支那大陸を統一しようとする覇業です。その蒋介石軍が南京を占領したときに発生したのが南京事件です。昭和二年三月に発生した南京事件では、米英日の領事館が支那兵および支那暴徒によって掠奪されました。ありとあらゆる物品が強奪され、女性は強姦され、抵抗した男性は殺害されました。
このときはさすがの英米両政府も怒り、その艦隊に命じて南京城へ艦砲射撃を実施させました。ところが日本だけは英米と共同歩調をとらず、むしろ蒋介石に迎合しました。教条的なまでに国際協調主義にこりかたまっていた幣原喜重郎外相の判断でした。そのため幣原外相は、国内世論からは「土下座外交」と非難され、また英米両政府からは猜疑心を買ってしまいました。
そんな日本も済南事件に際しては居留民保護のために軍隊を派遣し、支那軍の暴兵を軍事力で撃退しました。昭和三年のことです。
ワシントン条約成立以来、生真面目に諸条項を遵守してきた日本政府は大いに戸惑っていました。いったいワシントン条約はどうなっているのか。九ヶ国条約は中国を不平等状態から救うためのものだったのに、当の中国がそれを遵守していない。ワシントン条約を主導したアメリカ政府は中国の現状にまるで無関心であり、ワシントン条約を守らせようとしていない。アメリカはいったいどういうつもりなのか。
マクマリー公使も北京で苦悩していました。国際協調主義の理想を具現化したはずの九ヶ国条約は、支那の地において当の中国政府から拒絶され、もろくも崩れつつあります。マクマリーはワシントン体制を維持すべく本国政府に請訓をくり返しました。しかし、ことごとく黙殺されてしまいました。
ワシントン体制を維持しようとした点において、マクマリー公使と日本政府は共通の困難に直面し、共通の態度をとっていたといえます。これに対して米英中の各政府は、もはやワシントン条約に対する関心を失っているかのようでした。事実、米英中の三国は九ヶ国条約を無効化するような態度をとっていきます。
昭和三年七月、中華民国政府は日本政府に対して日清条約の廃棄を通告しました。国際信義に悖る理不尽な通告でした。驚いた日本政府は、これを峻拒して制裁を加えても差し支えない状況でしたが、そうはしませんでした。日本政府は困惑しつつ隠忍自重しました。そして、あくまでも九ヶ国条約を守って国際協調を維持すべきか、それとも九ヶ国条約はもはや破綻したものとみなして独自の行動をとるべきか、判断に迷います。
一方、アメリカ政府は中国の関税自主権をいち早く承認してしまい、中国と関税条約を結んでしまいます。このアメリカ政府の行動は明らかにワシントン条約に違背していました。いわば抜け駆けです。列強諸国が協議して中国の関税自主権を段階的に回復させるというのが九ヶ国条約だったはずなのに、それをアメリカ政府が破ったのです。列国は、アメリカの身勝手な外交に驚きましたが、あえては非難せず、むしろアメリカに追随して中国と関税条約を結びました。もはや九ヶ国条約は有名無実化していました。
しかし、事ここに至ってなお、条約遵守にこだわったのは日本政府です。日本は慎重過ぎるほどに慎重でした。日本政府は九ヶ国条約をあくまでも守るべきか否かで迷いつづけていました。そこで内田康哉伯爵を特使としてアメリカへ派遣し、アメリカ政府の本音を確かめようとしました。内田康哉伯爵は、ワシントン会議の際には外務大臣だった人物で、マクマリーと同じく国際協調主義を信奉し、その具現化に貢献した外交家です。
内田康哉伯爵はアメリカ国務省にケロッグ国務長官を訪ねます。そして、日本の立場を説明し、ワシントン条約に対するアメリカ政府の意向を確かめようとしました。内田伯爵がケロッグ長官に伝えた内容はおおむね次のとおりです。
中国に隣接する日本は、安全保障面でも経済面でも重大な関心を支那大陸に寄せざるを得ない。だから国際協調主義に共鳴し、国益を抑制してまでワシントン条約を批准した。そして、日本政府は九ヶ国条約などに定められた条項を忠実に遵守してきた。しかるに、当の中国がワシントン条約を無視する無法な行動をくり返しているばかりでなく、英米をはじめとする列強諸国までが違背的行動をとるに至っている。国際協調主義の理念に立つならば、各国が団結し、中国に条約を遵守させるべきである。この際、アメリカ政府が主導して国際会議を開催し、中国政府に条約を遵守させるべきではないのか。もし、アメリカ政府がそうするなら日本政府は全面的に協力する。ワシントン会議を主導したアメリカ政府こそが中国問題に関する国際協力の保証人であると日本政府は認識している。中国を国際協調の枠内に引き戻す意志をアメリカ政府が有しているのか否か、それを日本政府は知りたいのである。
内田伯爵の真摯な問いかけに対してケロッグ国務長官は曖昧模糊とした抽象論で応じ、明確な回答を避けました。おそらく内田伯爵は強く失望し、アメリカに対して不信と憤りを感じたに違いありません。
そこまでされてもなお日本政府は慎重でした。出淵勝次駐米大使をしてアメリカ政府の意向を再確認させました。出淵大使は次のようにアメリカ政府に問いかけました。
「中国政府は、過去の約束の履行を反故にして、自国の要求事項を獲得することだけに熱中している。列強諸国はこの事実を無視せず、中国が外国との責務や公約を反故にしないよう働きかけるべきである。中国に大きな関心を持ち、隣国中国の健全な発展を望む日本政府は、アメリカ政府がこれに同意されると確信する」
しかし、これに対するアメリカ政府の回答はとりつく島もないほどに素っ気ないものでした。
「各国は独自に行動する権利を有する」
この返答に日本政府は激怒したのではないでしょうか。独自に行動する権利を有するというのなら、国際協調主義とは何だったのか、ワシントン条約とはなんだったのか。いずれも欺瞞だったのであり、日本政府はまんまといっぱい食わされたことになります。
(独自に行動してよいというなら、そうさせてもらおう)
それまでワシントン条約の履行に最も熱心だった日本政府がワシントン体制を見限り、態度を変えた瞬間でした。
この数年後、満洲事変が勃発して関東軍が満洲を制圧し、満洲国が成立します。すると、アメリカのスチムソン国務長官はシャラリと論調を変えました。
「日本は九ヶ国条約に違反している。アメリカは満洲国を承認しない」
このスチムソン発言を聞いた内田康哉伯爵はおそらく激怒したに違いありません。「各国には独自に行動する権利がある」としたケロッグ前国務長官の発言がまったく無視されていたからです。
斎藤実内閣の外務大臣に就任した内田康哉伯爵は満洲国を承認し、さらに国際連盟脱退を指揮することになります。その際、内田外相は帝国議会において次のように演説しました。
「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」
この常軌を逸したような強気の演説は、アメリカにたぶらかされたという鬱憤と憤懣をぶちまけたものだったようです。日本の生真面目さと憤怒、そして、アメリカの狡賢さがよくわかる挿話です。
日本が判断に迷っていた頃、北京駐在のマクマリー公使も悩んでいました。国際協調主義の理念と九ヶ国条約の条項がマクマリーの眼前で踏みにじられていたのです。九ヶ国条約は中国を不平等状態から救うための条約でしたが、それを当の中国が踏みにじりつづけたのです。マクマリー公使は、中国に条約を守らせるべきだと考え、本国政府に数々の意見具申をしました。しかし、スチムソン国務長官はマクマリーの提案をことごとく却下しました。意見の対立からスチムソン国務長官との確執を深めたマクマリー公使は、為す術を失い、思い悩んだあげく官を辞してしまいます。一九二九年(昭和四)十月のことでした。
マクマリーはジョンズ・ホプキンス大学に職を得ましたが、やがて外交界に復帰します。友人たるフランクリン・ルーズベルト大統領がマクマリーをバルト三国の公使に任命したのです。一九三三年(昭和八)のことです。
マクマリーは新任地で職務に励みますが、すでに世界は国際協調主義をわすれていました。ベルサイユ体制もワシントン体制もすでに遠い過去となっていました。マクマリー公使は、国家間の緊張を緩和して戦争を回避すべく各種の提言をしましたが、それらはルーズベルト政権の採用するところとはなりませんでした。
そんな境遇にあったマクマリーが書簡を著したのは一九三五年(昭和一〇)です。国務次官補スタンレー・ホーンベックの依頼に応えたものです。マクマリーは、ワシントン体制崩壊の経緯と、アメリカが今後とるべき外交政策を書き記しました。その書簡のなかでマクマリー公使はルーズベルト政権に自制を求めています。
「われわれはジッと力をたくわえ、やたらにそれを挑戦的にふりまわさないようにすべきである。中国でのわれわれの利権には、かつてほどの価値はもはやない。その現実を認めるべきである。日本には媚びもせず、挑発もせず、公正と共感とをもって対応しよう。開明的で寛大な心をいだいて、われわれ自身の利害を導きとして行動すべきである。親中とか反中とか、親日とか反日とかという間違った感情の道に踏み込むべきではない。なによりも、われわれが公言した行動の原則と理想に忠実でなければならない」
残念ながらマクマリー書簡はルーズベルト政権から無視され、世界は第二次大戦へ突入していきます。第二次大戦の戦前から戦中にかけて、アメリカ政府は日本を敵視する広報をくり返しました。アジアの平和を乱しているのは日本であり、日本さえ打倒すればアジアは平和になると公言していたのです。
ところが、日本を打倒してみると、新たにソビエト連邦と中国共産党という敵が現れ、さらに朝鮮戦争で多数のアメリカ軍将兵が戦死する事態となりました。
「いったいぜんたいどうなっているんだ」
アメリカ国民の怒りに見事な回答を用意していたのがマクマリー書簡です。マクマリーはそうなることを一九三五年(昭和一〇)の時点で見事に予見していたのです。
「日本の徹底的敗北は、極東にも世界にも何らの恩恵をもたらさないだろう。それは単に、新しい一連の緊張関係を生むだけであり、ロシア帝国の後継者たるソ連が日本に代わって極東支配のための敵対者として現れることをうながすだけであろう。ワシントン会議、北京関税会議および米中関税条約における我々の経験からすると、日本の拘束から中国を解放してやったからといって、中国がアメリカに恩義を感じるとは考えられない。中国人はわれわれに何も感謝しないだろうし、われわれの意図が利己的でないとは信じないだろう。そして、われわれが果たすべき責任については、キッチリと迫ってくるに違いない」
マクマリーの予言どおりの事態に直面してはじめて、アメリカの識者はマクマリー書簡の重要性に気づいたのです。そして、今日、マクマリー書簡は歴史修正史観の正しさを立証する重要な史料となっています。
マクマリー書簡には、正統史観の歴史家が決して触れようとしない十年間の歴史が詳細に記述されています。その十年間とは、ワシントン条約が成立してから満洲事変が勃発するまでの十年間です。この十年間は、ワシントン体制が脆くも崩れ去っていく十年間です。マクマリー公使や日本政府がワシントン体制を懸命に守ろうとしたのに対して、米英両政府がワシントン条約をなおざりにし、支那の軍閥が積極的にワシントン条約を破りつづけた十年間です。この十年間に中国、アメリカ、イギリス、日本がどのようにふるまったかをマクマリー書簡は具体的に描出しています。ワシントン体制崩壊の過程がいかなるものであったのか、マクマリー書簡の記述を追ってみましょう。
「日本政府は、一九三一年(昭和六)九月の満洲侵攻開始までのほぼ十年間、ワシントン会議の協約文書ならびにその精神を守ることにきわめて忠実であった。このことは、中国に駐在していた当時の各国外交団全員がひとしく認めていた」
ワシントン条約をもっとも忠実に守ったのは日本だったというのです。したがって、ワシントン体制すなわち九ヶ国条約が崩壊するか否かは中国、アメリカ、イギリスの態度次第だったことになります。これら三国の振る舞いはどうだったでしょう。
「中国は、ワシントン会議に嘆願者の立場で参加し、自国の国家的要望が達成された満足すべき結果に心からの感謝を表したが、条約の発効が遅れた三年のあいだに態度を根本的に変えてしまった」
中国は態度を変えたのです。そして、その中国の背後にはソビエト連邦の存在がありました。
「ワシントン条約加盟国に対する中国政府の不信感は、ソビエト顧問たちによって熱心かつ巧妙に助長されていた。コミンテルン思想の影響は国民党のリーダー孫文に現れた。孫文は、アメリカもしくは日本から支援を獲得する努力をしなくなり、反帝国主義と不平等条約廃棄を中国再生のための基本教義とした。孫文の遺書には、帝国主義的列強への隷属から中国を解放してくれるのはソ連だけであると述べられている」
すでに触れたとおり、当時の中国は内乱状態にありました。支那大陸の各地に割拠する軍閥政府は条約遵守の精神に欠けていたばかりでなく、列強諸国に挑戦すべく排外的なストライキ、ボイコット、暴動などをくり返しました。
「各国が中国と協力して不平等条約の状態を解消させ、ワシントン会議の精神に具体的な成果を与えようとする努力を挫折させてしまったのは、ほかならぬ中国であったといえる」
このようにマクマリー書簡は、中国の態度こそがワシントン体制を崩壊させたと結論づけています。
次にイギリスの態度はどうだったでしょう。九ヶ国条約を遵守したでしょうか。実は、しませんでした。上海や広東で頻発する反英暴動に辟易したイギリス政府は中国に対して迎合的態度をとるようになりました。
そして、問題のアメリカです。ワシントン会議を主導したアメリカはワシントン条約を守ったのでしょうか。この問題を論ずるにあたり、マクマリーは、まずアメリカ世論の異常な親中感情に触れています。
「アメリカ人は、中国がおかれている諸条件に関してナイーブでロマンチックな想定に立っていたと言えるかもしれない。また、その思い入れの激しさと強さは、平均的な一般市民の中国問題に対する関心と均衡を欠いていたかも知れない。しかし、こうした親中国的な運動はアメリカ人にとってごく自然なものだった。中国に対する広範な親近感が存在した。この親近感は、アメリカ政府が利己的な国々から中国を守ってやったのだと信ずる恩着せがましい自負の念と、わが国の教会組織が中国での数世代にわたる布教活動によって中国との好ましい関係を育ててきた実績に負うところが大きい」
アメリカ世論は幕末から明治にかけて親日的でした。それが変化するのは日露戦争で日本が勝利した後でした。そして、ワシントン条約の頃にはすっかり親中国の世論が定着していたのです。このあたり、日本人には不可解でもあり、理不尽だと感じざるを得ないアメリカ事情です。そして、このアメリカ世論がアメリカ政府の外交方針に影響を与えました。
「不平等条約下にある中国の諸権利を速やかに回復させるため、アメリカ政府は親中国政策を採用すべきだという世論にも推されて中国国民党を主権政府として称賛するようになった」
アメリカ世論の中国贔屓と反日傾向は済南事件の際に顕著にあらわれました。日本政府は居留民保護のために山東出兵していましたが、これは国際法に適った措置であり、非難されるいわれはまったくありませんでした。済南事件は、北伐中の蒋介石軍将兵による略奪暴行事件であり、これを抑制した日本軍に落ち度はありませんでした。マクマリーは書いています。
「この済南事件でもっとも現場近くにいた外国人代表団の人々は、アメリカの有能な済南領事もふくめ、日本軍が自国居留民の生命財産保護のために、その任務を達成すべく誠意をもって行動したものと確信した」
ところがアメリカ本国では反日フェイク報道が大々的に展開されていました。国民党が善玉とされ、日本軍が悪玉とされたのです。
「日本に対して新聞報道はきびしく、特にアメリカではひどかった。記録によると国務省でさえ日本軍が国民党軍の動きを抑え込むための介入工作を実施して故意に済南事件を起こしたとの見解に傾いていた。アメリカ人は中国国民党を、自分の理想を具現する闘士のように肩入れしていたのである」
マクマリーは、アメリカの中国に対する過剰な贔屓が中国人を傲慢にしてしまったと観察しています。
「中国に有利なようにアメリカはリーダーシップをとり、国際会議で中国に肩入れしてきた。もはやアメリカは中国に肩入れしないわけにはいかない状態となった。こうした考えは、事実に基づいていないだけでなく、明白な誤りである。すでに中国は、アメリカが中国に肩入れするのは当たり前だと考えるようになっている」
さらにマクマリー書簡はつづきます。
「アメリカ政府は、ヒステリックなまでに高揚した中国人の民族的自尊心を和らげようとして宥和と和解の政策をとってきたが、その結果はただ幻滅をもたらしただけだった」
アメリカの支援に中国は感謝しませんでした。また、アメリカ政府の親中反日的態度は日本政府の対米態度を硬化させました。マクマリーは書いています。
「条約の遵守という基本問題で、中国が横車を押したのに対し、アメリカ政府は日本にきびしく、中国に好意的な立場をとった。それが日本にとっては重大だった。アメリカ政府のこうした態度は、アメリカの道義的支援を期待していた日本人をいたく失望させてしまった。そればかりか、アメリカ政府のこうした姿勢は、中国の高飛車な行動を許容し、いっそう反抗的な行動を中国にとらせることになると日本政府は理解した」
まじめな日本人は、批准したワシントン条約をどの国よりも几帳面に履行しようとしました。そのために国益を犠牲にしたり、国家の面子を傷付けたりもしたのです。にもかかわらず、中国の軍閥政府は国際法違反や条約違反を繰りかえしました。イギリスはそんな中国に迎合してしまい、ワシントン会議を主導したアメリカ政府も、国際会議を開くべきだとする日本政府の提案を拒絶し、「各国には行動の自由がある」と回答したのです。日本人がどんなにバカ正直であっても、ここまでされればワシントン体制が欺瞞でしかなかったことに気づくでしょう。マクマリーは書いています。
「ワシントン会議の閉会後、五年も経過しないうちに極東における国際協調の理想はもろくも崩れてしまった。それは主としてアメリカ政府が最近まで国際的な支持を得ていた伝統的政策の遂行を意図的に放棄してしまったためである。日本は、親しい友人たちに裏切られたようなものである。中国人に軽蔑されてはねつけられ、イギリス人とアメリカ人に無視された。結局、東アジアでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本は、ワシントン体制を非難と軽蔑の対象とした」
このときの日本人の怒りを理解しない限り、満洲事変勃発の原因は永久に解明できないに違いありません。マクマリーは言います。
「われわれは、日本が満洲で実行し、そして中国の他地域で継続している不快な侵略路線を支持したり、許容したりしない。しかし、日本をそのような行動に駆り立てた動機を理解するならば、その大部分は中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、事実上、中国が自ら求めた災いだと我々は解釈しなければならない」
一九三一年(昭和六)九月、満洲事変が勃発し、ワシントン体制は完全に崩壊しました。満洲事変勃発の理由をマクマリー書簡ほど明解に説明してくれる第一級史料はありません。しかし、正統史観の歴史家はマクマリー書簡に決して触れようとしません。黙殺します。触れると都合が悪いのです。
正統史観の歴史家は満洲事変からすべてを説き起こします。極東軍事裁判もそうですし、毛沢東の十五年戦争史観もそうです。歴史を満洲事変から説き起こすのです。日本は侵略国家だと決めつけて歴史を記述するのです。日本がワシントン条約を懸命に遵守しつづけた十年間を無視し、その歴史を隠蔽しているのです。これほど欺瞞的なことはありません。時間の連続性と出来事の因果関係を無視しているのです。これこそ歴史の捏造です。これが歴史正統主義です。正統史観こそ権力に迎合して歴史を歪曲しているのです。
マクマリー書簡は日本語に翻訳され、「平和はいかに失われたか」という題名で平成九年(一九九七)に出版されました。