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「三成悪人説」をめぐる人々

挿絵(By みてみん)


 慶長五年(一六〇〇)、豊臣家の天下を守ろうとした石田三成は、関ヶ原の合戦で徳川家康に敗れ、処刑されました。この三年後に徳川家康が江戸に幕府を開きます。二百七十年におよぶ江戸時代のはじまりです。

 ながい江戸時代のあいだ一貫して三成は「奸佞な逆臣」とされました。かつて三成が統治した湖北地方には、村の庄屋が代官に言上する決まり文句がありました。

「当村にはキリシタンと石田の一族はひとりも居りません」

 この慣習は明治維新までつづいたといいます。これが「三成悪人説」であり、江戸時代の支配的な三成観でした。まさに勝者の正統史観です。

 こうしたインチキ人物伝を徳川幕府が必要とした理由は、徳川幕府の正統性を庶民にわからせるためでした。こむずかしい理屈や言葉をならべて家康の正統性を訴えても、一般庶民にはどこか現実味がありません。いっそ石田三成が悪党だったことにして、「悪の三成」を「正義の家康」が討伐したことにしてしまえば話が早いのです。その意味で、勧善懲悪のストーリーはまことに便利です。

 石田三成にかかわる言説に対して徳川幕府が監視の目を強めたのは、第二代将軍秀忠の時代からです。幕府にしてみれば天下を治めるために必要な措置だったのでしょう。圧倒的な戦歴と威望で戦国乱世を平定した初代将軍家康にくらべれば、二代将軍秀忠はどうしても頼りなかったのです。関ヶ原合戦の際、中山道を進んで関ヶ原をめざしていた秀忠の軍勢は、真田昌幸の計略に引っかかって足止めをくらい、肝腎の関ヶ原合戦に遅参するという失態を演じていました。そういうことを当時の日本人は知っていましたから、幕府としては何かしら手を打つ必要があったのです。そこで「三成悪人説」を流布させることによって幕府の正統性を諸大名や庶民に知らしめようとしたのです。

 このため石田三成の名は、あたかも悪人の代名詞のようになっていきます。豊臣秀吉でもなく、毛利輝元でもなく、宇喜多秀家でもなく、安国寺恵瓊でもなく、石田三成だけがことさらに奸佞邪知の痴れ者とされたのです。いかにも作為的な歴史でしたが、だれもが幕府の威光をおそれ、あえて異を唱える者は現れませんでした。

 江戸前期に書かれた小瀬甫庵著「太閤記」と山鹿素行著「武家事記」はいずれも三成を佞臣あるいは逆臣として描いています。貞享三年(一六八六)に幕府編纂の「武徳大成記」が完成すると三成悪人説は幕府公認の歴史となりました。以後、「黒田家譜」、「石田軍記」、「氏郷記」、「関ヶ原軍記大成」、「常山記談」、「忍城戦記」、「日本外史」などで奸佞な三成像が続々と描かれます。新井白石や頼山陽のような著名な儒学者も「三成悪人説」に与しました。つまり正統学派の御用学者だったわけです。

 こうした世の風潮に迎合せず、「三成悪人説」の誤謬を見抜いていた人物も居るには居ました。「桃源遺事」によれば水戸光圀公は、「石田治部少輔三成は、にくからざるものなり」と述べたそうです。また、掘田菱水は「慶長中外伝」のなかに架空の人物を登場させ、「人、その三傑を問へば、則ち木下秀吉、徳川家康、石田三成なりと」と言わせています。しかし、これらはあくまでも内輪話の域を出ていません。結局、幕府をおそれずに堂々と正論を天下に問うた論客、つまり歴史修正主義者は江戸時代にはひとりも現れませんでした。

 幕末になると「三成悪人説」を無力化する思想が浮上してきました。というより幕府の権威そのものを根底から揺るがす思想が現れてきたのです。それが尊皇思想です。

「将軍様よりも天皇様の方がお偉いのではないか。いや、お偉いのだ。そもそも征夷大将軍を任命するのは京の都におわします帝ではないか」

 この尊皇思想を育てたのは水戸藩でした。尊皇史観にもとづく「大日本史」の編纂を水戸光圀公が命じていたのです。この事業は歴代の水戸藩主に引き継がれ、いつしか尊皇思想を世に広めるという結果をもたらしました。光圀公の本意がどこにあったのかはわかりませんが、緩やかな歴史修正が進んでいたことになります。そして、この尊皇思想を倒幕のために活用したのが薩長両藩でした。尊皇思想の前では「三成悪人説」はあまりに古くさく、政治的な効力を失っていました。

 明治維新となり、徳川幕府が消滅しました。もはや、だれはばかることなく石田三成を論ずることのできる世がきたのです。おかげで「三成悪人説」は時間の経過とともに否定されていきます。

 明治二十三年、小倉秀貫は「関原始末石田三成事績考」のなかで、「石田三成が旧来伝説のごとく果たして姦曲の佞人なるか」と述べ、三成悪人説に疑問を投げかけました。明治三十五年には水主増吉著「千古之冤魂石田三成」が出版されます。これは石田三成の再評価を試みた初期の著作です。

 実業家の朝吹英二は三成悪人説に疑問を感じ、私費を投じて石田三成の研究を学者に依頼しました。これに応じた渡辺世祐という文学博士が三成の事績を学術的に洗い直し、その研究成果を「稿本石田三成」(明治四十年)にまとめました。渡辺博士は次のように書いています。

「三成の如きは、その事成らざりしといえども、正道のために栄爵を忘れ、よく丈夫の本領をまっとうしたる者というべし」

 渡辺世祐の重厚な研究は三成の再評価を決定づけました。ちなみに石田三成の墓は永く所在不明でしたが、三成研究の一環として探索され、ついに京都府大徳寺三玄院境内で発見されました。三成の遺骨は明治四十年十月に改葬されています。こうした歴史研究によって世の三成評は変わっていきます。

 とはいえ、ながい江戸期に浸透しつづけた「三成悪人説」は根強く人口に膾炙してもいました。月之舎秋里編「石川五右衛門実記」(明治二十年)では石田三成はまだ悪人として描かれています。池元半之助著「嗚呼古英雄・続」(明治三十三年)でも三成は「一豎子」と書かれています。手島益雄著「浅野長政伝」(大正九年)でも三成は悪人として登場します。

 それでも三成悪人説の影響力は時とともに弱まっていきます。村上浪六著「石田三成」(明治三十八年)は三成を「悲惨なる不運の失敗者、つまり大不幸の大英雄」と書いており、悪人説から脱却しています。松月堂ろ山の口演録「石田三成佐和山物語」(明治四十二年)は三成を英雄としています。羽皐隠史著「英雄と佩刀」(大正元年)には「三成は忠臣也」という一節が設けられています。

 昭和期に入ると三成悪人説は影をひそめます。尾池義雄著「関ケ原大戦の真相」(昭和二年)、直木三十五著「石田三成」(昭和十七年)、池崎忠孝著「概説石田三成」(昭和十七年)などはいずれも三成を一世の英雄として描いています。

 徳川幕府が二百数十年かけて流布させた「三成悪人説」は、明治維新から七十年ほどで消滅し、世の三成評は悪人から英雄へと変わっていったのです。

 江戸時代には、いわゆる歴史修正主義者は現れませんでした。秘かに真の歴史を語りつぐ人々はいたものの、天下の公論として三成悪人説の誤りを指摘する人物は現れなかったのです。もし現れたとしても幕府によって弾圧されたでしょう。徳川幕府という権力が滅びてはじめて自由な歴史研究が開始され、ほぼ七十年をかけて歴史が修正されていきました。以上が「三成悪人説」をめぐって生まれた歴史修正の経緯です。


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