05:出会いの軌道
フラフラになりながら、今度こそ帰ろうとしたが、抑え込んで来た涙が一気に溢れ出てきてしまい、とても電車に乗れるような状況ではなくなってしまった。
本当に、なんて馬鹿なことをしていたのだろう。
札が『空室』になっている打ち合わせ用の小部屋に駆け込むと、テーブルに突っ伏して泣きはじめた。
と、ガチャリと扉が開いた。
「あ、すみません……」
涙でぐちゃぐちゃな顔の女がいるのを見た男は、慌てて扉を閉めた。
胸元に『来訪者』の名札が下がっていたので、メーカーかバイヤーの人なのだろうか?
札……で思い出した。
私は打ち合わせ用の小部屋の札を『使用中』にしていなかったようだ。
ノロノロと立ち上がって、札を返そうと扉に向かったら、もう一度それが開いた。
「きゃあ!」
ぶつかりそうになったのを、咄嗟に相手の人が支えてくれた。
「すみません!」
しかもまたさっきの人だ。
「あの……」
「な、なんでしょうか?」
男の人に腰を支えられているのに気づいて、飛び退る。
精悍な顔つきの男の人だった。前髪を上げていて、知的な額が露わになっている。そのすぐ下の眼光が鋭すぎて、思わず目線が下がる。
靴がピカピカしていた。多分、いい靴だ。スーツも身体にピッタリの、おそらくセミオーダー。もしかするとフルオーダー。
カフスには見覚えがあった。良い品だけど、靴とスーツの品質と比べると、残念ながら格が落ちていると言わざるを得ない。彼ならばもっとよい物をつけられるはずだ。
もっとも、そのカフスだって、とてもいいものだ。だって私が半年前に担当した品だもの。
あれは、そう父の日に向けての番組だった。
「出来る男のイーグルス・アイ。ホワイトゴールドにイエローダイヤの組み合わせがクールでありながら、情熱的で精力的な貴方を演出します。
今ならネクタイピンとセットでお届け。デザインだけでなく、着脱も簡単でありながら、外れにくいのも特徴で……」
つい半年前に繰り返した販売文句が口を付いて出てしまった。恥ずかしい。
職業業ではなく、私自身の癖だ。
いつも周囲に笑われるのに、目の前の男の人はそうではなかった。
小野さんと同じで、呆気に取られているのかも。
私は無理だとは思いつつも、何もなかったように来訪者に対応した。
「もしかしてお迷いですか? どちらにご用件でしょうか? ご案内しますよ」
「いえ……」
その人は、私の顔をまじまじと見て、ちょっと顔を赤らめた。
もしかして、マスカラが落ちてパンダになっているのかも
「すみません」
また謝った。そして、扉を閉めた。
だから、なんなのよ!
とにかく部屋を『使用中』にしようと廊下に顔を出したら、札はちゃんと『使用中』に変っていた。
私、ここ入る前に、札をスライドさせていたのかしら。それとも、あの男の人が気を遣ってそうしてくれた?
なんだか泣く気が削がれて、力なくその場の椅子に座る。
なんとなく将司が”買ってくれた”ピアスに手が伸びた。
「やだ、ない! 落とした!?」
不運というのは続くものだ。あのピアスが片方、なくなっていた。
「探しに行かないと! 折角、将司が”買ってくれた”のに!」
立ち上がったものの、すぐに崩れ落ちるように座った。
「もういい。将司に”買ってもらった”ものなんて、付けていたくない……」
あの浮気者。
「――! 違う! あれは私が買ったのよ! 私のお金で買った、私の物じゃない!」
やっぱり探しに行こうと、再び立ち上がると、三度、扉が開いた。
また、あの男の人が入って来た。
「すみません」
三回目の謝罪だった。
「何かお困りなんですか?」と聞きたかったけど、涙がこみあげてきて続かなかった。困った顔をしているのは、きっと私の方だ。
そんな私を、彼は優雅な仕草で椅子に座らせた。さっき私を支えた時といい、妙に洗練された動きだった。
それから彼は、私に片方だけのピアスを差し出した。
「これ……!」
私のだ!
「自販機で飲み物を買おうとしたら、落ちていたので。
これ、あなたのですよね?」
「あ、ありがとう……ござます」
嬉しいけど、よく私のだと分かったわね。
「あの……良かったらこれもどうぞ」
飲み物を差し出された。
どうやら私のために買ってきてくれたらしい。その時に、ピアスを見つけてくれたのだ。
ただ、気遣いはありがたいけど、青汁林檎ジュースで水分はもうたくさんだし、何よりも一人でいたい。
あと、見ず知らずの男の人に、封をされていない飲み物を差し出されてほいほい飲むほど警戒心が薄くもなかった。見知った男には、騙されていたけど。
「お心遣いだけいただきます」
やんわりと押し返すと、やや傷ついた顔をされた。
子犬……いや、大型犬みたいだけど、とにかく飼い主に叱られた犬みたいな感じだ。
私は別に叱った訳ではないけど、申し訳ない気持ちになった。
「いえ、あの、ちょっとお腹が……」
「そうですよね。さきほどの回、青汁林檎ジュースでしたものね。たくさん飲んでいらしましたね」
よく知っている。
しかも、「カフェラテの砂糖少な目のクリーム多めのものを買ってたのですが」と、まさに私がいつも買っているものと寸分たがわぬものを持ってきていた。
なんかこの人、怖い。
「ど、どちら様で? なんで私の好きな飲み物知っているんですか!?」
「あ! すみません。
紹介が遅れました。
私は竹取征吾と申します。
讃岐輝夜さんですよね? いつも番組、楽しく拝見しています。
アテンド日記も読ませてもらっています。いつもこの組み合わせのカフェラテを飲んでいると書いてあったので」
いろいろ突っ込みどころが多すぎて、どうしていいのか分からなかった。
彼は自分を竹取物産の御曹司と名乗り、しかも、私の番組の視聴者で、おまけに、ショッピング・シャワー・チャンネルの公式サイトで掲載しているアテンド日記なるコンテンツまで読んでいるという。
私は主に商品について書いているが、そう言えば、何かの流れで自販機でよく注文する飲み物について書いたことがあったかもしれない。
「私、あなたのファンなんです。
生放送でも見ていますが、それができない番組は録画して見ています」
「な……なんで!?」
芸能人やアナウンサーほどではないが、特定のアテンドにファンが付いていることはあった。私にだって、いない訳ではない。
自慢じゃないけど、ショッピング・シャワー・チャンネルがテレビを飛び出して行う、国際展示場での感謝祭などのイベントでは、写真撮影やサイン会までやったことがある。ちゃんと列が出来るのだ。
けど、竹取物産の御曹司が何を言っているんだ、という気持ちの方が大きい。
「なぜって……あなたの仕事ぶりはとても素晴らしいと思います。
私が普段、興味が無い商品の時も、見ているだけで楽しいし、欲しくもなります。
どんな商品でも、愛情を持って紹介しているのがよく分かります」
「ありがとうございます……」
若干、気持ち悪い気もするけど、自分の仕事を評価してもらえるのは誇らしい。
バッグの中のスマホが震えた。
「電話、お出にならないのですか?」
ようやく将司が事の次第に気付いたのだろう。彼の携帯電話の番号が……料金は私が払っているけど……画面に表示されていた。
「出たくないんです……」
「そうですか。もしお急ぎのご用件のようでしたら、どうぞ私に気にせずにおとりになって下さい」
竹取さんは特に追求することはなかった。
聞いたのは、私が気落ちしている理由だ。
「どうかなさったのですか? 泣いていらっしゃるようですが……気になってしまって……すみません」
「仕事でちょっと失敗してしまったんです。
隠しても仕方がないので言いますけど、自分のアカウントとパスワードを”知人”に教えてしまって。
それでトラブルが」
ショッピング・シャワー・チャンネルの親会社の御曹司は、なるほど、という顔をした。
「全面的に私が悪いんです。なのにこんな風に泣いたりして恥ずかしいです」
「いいえ、輝夜さんはその”知人”の方を信用なさっていたのでしょう。
だからって教えたらいけませんが、なんであれ、信じていた人に裏切られたら、悲しいと思いますよ」
未だマナーモードにしているスマホがしつこく振動し続け、ランプが点滅する。
「信じていた……そう、私、信じていたんです! 将司のこと!」
「マサシ?」
「ええ、そうです!
でも、やっぱりあんなこと、するべきじゃなかった!
みんなに迷惑を掛けました。
私、駄目な女なんです!
ヒモに貢いだ挙句、浮気されて……」
そこまで言って、私は号泣してしまった。「彼の浮気相手に嫌がらせで私のアカウントで買い物されちゃった、馬鹿な女なんです!」
「ヒモ……?」
竹取さんが困惑したように呟いた。
「ええ、ヒモです!
いいえ、ヒモじゃないわ! ヒモなんかじゃない!
私、一度も、将司のこと、ヒモだんて思ったことない!
いい人なの、将司は……優しくていい人で、好きだったから……だから、一緒にいたかっただけだもの!」
だから家賃だって、食費だって、光熱費だって、全部、自分が払った。言われてみればヒモだ。
「そうですね……輝夜さんは、人の良い所を見るのが得意な方なのでしょう」
馬鹿にされるか、軽蔑されると思ったいた。なのに竹取さんは静かにそう言ってくれた。
私は嬉しいというか、救われた気持ちになってしまい、そのままひとしきり泣いた。
人間、泣くだけ泣くと、すっきりするもので、ようやく落ち着いた頃合いに、竹取さんが「タクシーを呼びましょう。お宅までどうぞ、お使い下さい」と申し出てくれた。
「ありがとうございます。でも電車で帰ります」
「えっと……では、顔を洗った方が良いかもしれません」
やっぱりパンダになっているようだ。
化粧ポーチから鏡を取り出せば案の定。
私は同じくポーチから『潤いたっぷり化粧落としシート』を取り出して、それで顔を拭いた。
「厚手なのでこれ一枚で化粧落としが完了するだけでなく、潤いも補給して、化粧水いらずの忙しい女性のための簡単スキンケアシートなんです。
ほら、マスカラもするっと落ちて、二度拭きの必要もないでしょう!」
わ〜すごい!
……と、また一人テレビショッピングをしてしまった。
竹取さんは、と見れば、彼はこちらを凝視していた。
彼にフルメイクの一部始終を見せるつもりはない。
「化粧、しないで帰ります。どうせ誰も見ていないし。
マスクとサングラスをすれば、ほとんど見えないでしょう」
言い訳するような独り言をする。
「輝夜さんはすっぴんも綺麗ですね」
「――っ! そうなんです! 高濃度プラセンタとか、高機能クリームとか、うちではすごくいいスキンケア商品や、美顔ローラーなどの美容器具、スチームなどの美容家電も扱っているので、その効果をみなさんに実感して頂けるように……えーっと、ごめんなさい」
「いいえ……」
竹取さんは口元を歪ませた。それで笑っているのだ。
「輝夜さんは想像以上に素敵なアテンドさんでした――」
なぜそういう結論に辿りつくのか理解出来ないが、私はいくら綺麗と褒められたとはいえ、二十八歳のすっぴんを男性の前で長く晒すつもりはなく、急いでマスクとサングラスを掛けた。サングラスについて、もう一回、やらかしそうになったけど、懸命に耐えた。これ本当にいいのよ。紫外線を防ぐだけなく、海外セレブご用達の小顔に見えるデザインで……「えーっと、帰ります」
「そうした方がいい……お気をつけて」
竹取さんの脇には冷めたカフェラテがあった。
「ごめんなさい。カフェラテ、折角、お気遣い下さったのに」
竹取さんは頭を振った。「いいえ、これは”スタッフが美味しく頂きます”のでお気になさらずに」
大企業の御曹司なのに、偉ぶったところのない物言いの人ね。
うん? この人、本当に竹取 征吾なのかしら?
そうは思ったが、帰り際に追求するのは止めた。もう、会うことも無い人だ。
「ありがとうございました」
頭を下げると、今度こそ、私はその打ち合わせ用の部屋から出た。