45:猿蟹合戦
更紗ちゃんは本当にいい人だ。
でも、いつまでも頼る訳にはいかない。彼女は大伴清澄さんの所にお嫁に行くし、私も……私も、征吾さんと一緒になるのだ。
それには、一つ、決着をつけなければいけないことがあって、それは自分の手と意思でやり遂げないといけないことだ。
夏の日差しに負けないように、丁寧に化粧をする。
アイラインを引く手が震えるのを止められない。
私、ちゃんと出来るかな?
いいや、弱気になってはいけない。出来るか出来ないかではなく、するしかないのだもの。
静かに化粧を終わらせ、着替え、バッグを胸に抱いて、忍び足で玄関に出る。靴を履こうと屈むと、
「どこ行くんですか?」
耳元でふわふわのパンダのぬいぐるみが囁いた。
「さ、更紗ちゃん!」
「……デートですか?」
『ったく、人の目を盗んで、またあの男、輝夜さんを呼び出して!』
と言う声が聞こえてきそうだ。
「ち、違うの!」
「じゃあ、なんでそんなに気合はいってるんですか!」
「……負けないように……」
「何に!?」
藤原将司に――だ。
そう説明すると、更紗ちゃんは絶句した後、「私も行きます!」と寝起き、すっぴん、Tシャツに短パンのままサンダルをつっかけようとしたので、押しとどめた。
「一人で大丈夫」
「でも」
「それに一人じゃないし」
「あ、征吾さんが一緒……って感じじゃ……ないですよね」
征吾さんには頼まない。
元恋人の浮気相手と相対し、さらに、今の恋人の元カノと顔を付き合わせた身としては、元恋人と現恋人との対決なんて、そんな修羅場の三連戦、体験したくない。そうでなくても、征吾さんがいると、将司とまともに話し合えるとは思えない。
だから同行してもらうのは弁護士さんだ。会社の顧問弁護士さんに紹介してもらった男女関係のもめ事に強い、ちゃんとした弁護士さんだ。
「私だって、考えているんだから」
「そうみたいですけど……このそこはかとなく不安な気持ちはどこからくるの?」
パンダのぬいぐるみに話しかける更紗ちゃんを扉の内側に置いて、私は外に出た。
「あっつ……」
朝なのに、すでに気温は高く、じっとりと汗をかく。
「このマジカル・ファンデーション・ツイジー・サマースペシャルなら、汗にも水にも崩れず、あなたを紫外線からしっかりと守ります」
私の決心だって、崩れない。
***
指定した喫茶店で待っていると、将司は五分ほど、遅れてやって来た。
緊張していて待っていたこと、そして、将司に一時間は待たされるのが当たり前だったせいか、姿が見えた瞬間、安心して、なんなら嬉しくなったが、それは大間違いである。
私と話をしたいと呼びだしたのは将司の方なのに、遅刻するってどういうことよ。電車が遅れた? この沿線、どこも遅延なんか出てい。
隣に座った弁護士さんがあからさまに自分の時計を確認し、将司は他人が同席することに不満な様子を隠そうとしなかった。
「二人で会いたいって言った」
「二人っきりで会うとは言ってないわ」
弁護士さんが名刺を差し出す。
ウェイターが来たので、将司はお冷を一口飲むと、アイスコーヒーを頼んだ。
スーツの上着を小脇に抱えたその姿は、いっぱしの会社員に見える。やり手の営業といった感じだ。
実際、将司は香穂さんの会社のネット動画ショッピング会社で成功したのだ。将司は開口一番、それを主張した。
「俺の動画、見てくれたか?
すごい数の視聴者がいるんだ。
お前……輝夜のおかげだよ。ずっと輝夜の仕事を見ていたから」
小野さんにも言われた。『参考にしてみました』
だけど気を付けて。あの頃の私は思いあがっていて、参考にはならないのだ。反面教師にした方がいい。
私も弁護士さんも黙っているのに、将司は一人、意気込んで話し続けた。
「俺にこんな才能があるとは思わなかった。
面白いように売れて行くんだぜ。
いやー、本当に俺にこっち方面の仕事が合うとはね。
やっと、やっと世間が俺の才能と実力を認める時が来たんだ!」
ひとしきり話した後で、運ばれてきたアイスコーヒーを飲む。
「輝夜、今まで、悪かったな。
こんな俺がここまでこれたのも、お前のおかげだ」
テーブルの上に両手を付き、大げさに頭を下げられた。「ありがとう!」
将司は私の言葉を待っていたようだけど、何もないので、「あれ?」という風に顔を上げた。
これまでの私なら、将司が仕事にやりがいを見つけたことを喜んだだろう。だが、これまでのその対応が、将司を駄目にしていた一因だったことも、今の私は知っている。
「怒ってるよなぁ。
これ、少ないけど、俺の稼ぎ。足りないかもしれないけど、お前に返すよ」
バッグから封筒を出してきた。
私はそれを隣の弁護士さんにスライドさせた。弁護士さんが確認すると、封筒には帯封された札束が入っていた。パッと見、貫田太一が屈辱の中、受け取ったお金と同額のようだ。
「おい! 俺が身を粉にして稼いだ金だぞ。
もっと大事に扱って欲しいね」
そんな将司に弁護士さんは一枚の紙を差し出しながら言った。
「なるほど、大分、足りませんね」
「はぁ?」
将司が私のアカウントとパスワードを使って買い物をした金額を、リストアップしていたものだ。
私が生活する間に使った分は除く。それでもかなりの金額だった。将司は青ざめた。
「なんだよこれ」
「あなたが、讃岐輝夜さんが身を粉にして稼いだお金を使った金額ですよ。
今回のお支払いの分の領収書を作ります。この後の返済はどうしますか? 分割振込でも構いませんよ」
「輝夜が買ってくれたんだ。今更、返せなんておかしいだろう?」
「あなたは讃岐輝夜さんのアカウントとパスワードを不正使用したのです」
「教えたのは輝夜なんだけど、それでも俺のせいだって言うのか?」
「それでも、です。
それに、あなたは先ほど、讃岐輝夜さんにお金を”返す”と言いました。
何に対して返すと言ったのですか? あなたは讃岐輝夜さんのお金を勝手に使った自覚がありますね」
自信満々に大金を渡したのに、思った通りの効果が出なかったどころか、”弁護士”に追求されることになった将司は押し黙った。
アイスコーヒーのストローに口をつけ、不機嫌そうにそっぽを向いて、ちびちびと飲みはじめた。
「……しかし、もう二度と、讃岐輝夜さんに近付かない、連絡を取らない、彼女のことに言及しないと誓えば、差額分を免除しても良いと、彼女が申しております」
弁護士さんの言葉に、将司が動揺した。
「なんだよ……それ。
なぁ、輝夜、俺、本気で反省してるんだ。この金はその証拠なんだ。
やり直したいと思って、持って来たんだよ」
このお金は将司が身を粉にして働いたお金じゃない。
きっと香穂さんが出したのだ。将司が反省したフリをして、私とよりを戻し、征吾さんと別れさせる。
これは手切れ金なんだ。貫田太一と同額なのは、このあたりが相場なのだろう。特に知りたくなかった知識だ。
そして、そうである以上、お金だけ取られて帰ったら、香穂さんに叱られるのだ。返せと請求されるかもしれない。
だが、そんなの私には関係ない。将司は自分の”稼ぎ”だと言った。弁護士さんも淡々と業務を続ける。
「もしも、約束を破れば、しかるべき所より、接近禁止命令を出させてもらいます」
「俺は犯罪者じゃない! 俺と輝夜は高校からの縁なんだぞ。そうだろう?
なぁ、輝夜。俺のこと見捨てないでくれよ。俺にはお前しかいないんだ。お前だってそうだろう?」
思いっ切り下手に出てきたが、もう遅い。
ここまできて、私が将司の言葉を信じる訳がない。将司はまだ、私に甘えようとしている。
弁護士さんに注意されなくても、私は自分のやるべきことを知っていた。
「縁には切れ目があるの」
私はちらりとお金を見る。
「一度、失った信頼を取り戻せると思わないことね。
もし、取り戻せるとしたら、それはお金じゃなくって、普段の行いがあってこそ。
そして、あなたにはそれがない――」
がちゃん! という音がして、テーブルの上のグラスと氷が跳ねた。
将司は弁護士の出した紙にペンを走らせると、こちらに突きき返した。こぼれた水に紙が濡れ、文字が滲んだ。
「分かったよ。お前みたいな女、こっちから願い下げだよ」
言いなりにならない女は用済みと言わんばかりだ。
反省していないし、最後まで自分が優位でいたいようだ。それはそれでいい。
ただし、そのまま去っていくのは許せない。
「自分が飲んだアイスコーヒー代、払って行きなさいよ」
私を制し、弁護士さんが将司の分の伝票を渡す。
将司は顔をゆがませると、札束を名残惜しそうに見る。確かに大金だ。だけど、私が失った分を補うだけの金額ではない。残りの分を捨てる私の方が悔しい。高い授業料だったが、馬鹿な女には相応しい金額だと納得するしかない。これで一つ、賢くなった。男は甘やかすな。得難い教訓だ。
「つくづく、ケチな女だな」
「縁も所縁もない男に、なんでアイスコーヒーを奢らないといけないの?」
札束から、私の方に視線が移動する。
その目に映ったのは、もう二度と、自分が思い通りに出来ない女の姿――で、あって欲しい。
私はそう見えるように、出来るだけ冷たい目で見返した。
ついに将司は諦めた。「アイスコーヒー代くらい払える!」
伝票と、弁護士さんが用意した領収書もひったくり、去って行った。
はぁっと、息を吐く。
「お疲れさまです」
弁護士さんが席を移動したので、対面する形になった。
ようやく、周りの客がひそひそしているのに気づく。明日……いや、今日からまたしばらくネットが騒がしいかもしない。
でも、「これでもう、あの男とは縁が切れましたか?」
「はい。
またあなたの周りをうろつくようならば、相応の手続きましましょう」
将司がサインした書類の複製を作って送りますと弁護士さんは約束して立ちあがった。
私も席を立つ。
「大丈夫ですか? 私は行きますが、もうしばらくお休みになった方がいいですよ」
「ここではちょっと……」
そう答えると、弁護士さんがざっと店内を見渡す。
「そうですね。家に戻った方がいいでしょう」
それはまだ将司がいる可能性があるから、あまりウロウロしないようにとの親切な忠告だったが、私の足はあるデパートに向いた。
元気を取り戻すなら、ここが一番だ。




