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38:朧月夜

 怒っていると言うよりも、いじけているんだわ。

 ディナーのテーブルを挟んで、私は征吾さんをそう判断した。彼は将司のように、私の前で自分を偽らないので、とても分かり易い。


「ほら、また」


「え?」


 睨まれた。

 

「輝夜さんは、私とあの男を比べていませんか?」


 私も分かり易いタイプの人間なのを忘れていた。けれども、それって言いがかりに近くない?


「悪い意味でじゃないです!

あの、征吾さんはいい人だなって……」


「それでも嫌です。

輝夜さんの中に、あの男がいるのが嫌です。

忘れて下さい」


「待って下さると約束しました」


 今日の征吾さんはおかしい。とても性急だ。


「ええ……でも、今日、あなたがあの男に会ったせいで、折角、薄れかけていた影が濃くなるのが、たまらなく許せません」


「そう言われても……」


 将司とは長い付き合いの上に、信じられない裏切りを受けた。簡単に忘れることなど出来ない。


「あなたの中を、私だけで満たしたい」


「征吾さん……」


「今夜は、私と過ごして下さい」


 あ、これ、駄目なやつだ。

 このまま流されたら、絶対に、駄目なやつだ。

 失恋に効く薬は新しい恋だというけど、征吾さんは私に劇薬を使おうとしている。なぜ、そんなに焦っているのか、私が将司に再会したという理由だけではなさそうだ。

 何か裏があって、征吾さんはそれを隠していて、その上で、関係を深めようとしている。

 けれども――。

 騙されたっていいじゃない。

 私は大人の女だもの。一夜の責任くらい、自分で取れる。将司にわざわざ指摘されなくたって、征吾さんとの結婚は難しいと頭の中では理解している。婚約者関係を解消出来ても、あの厳しいと有名な竹取物産の会長が許すはずがない。私はただの……ただのショッピング・アテンドなんだもの。

 征吾さんは焦燥感に苛まれている。私が一緒にいて、それが和らげば、それはそれでいいじゃない。私も彼には随分、救われた。彼のこと、好きだから、その気持ちだけは、伝えておきたい。それから、後腐れなく別れればいいのだ。

 

 朝、征吾さんの目が覚める前に、いなくなっていればいい。

 映画みたいに。恰好良く。

 うん、そうしよう。


 

***



 征吾さんは情熱的かつ、丁寧に私を愛してくれた。

 これほどの充足感を男性から与えられたのは、はじめてだ。

 私は彼に翻弄され、自分でもどうかなと思うほど、夢中になってしまった。


 そうして、気が付いた時は、朝――と言うか、昼近くだった。


 

***



「私のバカ……」


 完全に寝過ごした。先に起きていなくなるどころか、征吾さんが隣にいない。シーツはひんやりとしている。

 私が寝こけている間に、征吾さんは起きて仕事をしていた。

 開け放たれた扉の向こうに姿があった。昨日と違う服を着ている。今日は、青地に赤のステッチがされたボタンダウンシャツに、白いズボンを合せている。

 爽やかな印象の服と違い、電話で話している口調は厳しい。


『どうして、もっと前に掴めなかったんだ……!』


 こちらを向いて話していたので、私が起きたのが分かったようだ。


『またかけ直す。引き続き、よろしく頼む』


 立ち上がり、こっちに来る。


「おはようございます。輝夜さん、起きられましたか」


 本能的に、上掛けを引き上げ、うつぶせになった顔を隠してしまった。

 気まずい。

 だから、先に起きて帰りたかったのに。昼過ぎまで寝ているって、どこが大人の女よ。


「その……あまりご満足いただけませんでしたか?」


「いいえ! あの――そうではないのですが、ちょっとだけ、一人にさせて下さい」


 嫌だ。声が擦れている。

 征吾さんはベッドの上でも仕事が出来る人だった。

 ご満足しすぎて、今後の人生に悪影響が出そうですよ。こんなはずじゃなかったのになぁ。


 一人にさせて欲しいと言ったのに、征吾さんはベッドの縁に腰掛けて、優しく語りかけた。


「随分、長い事、お一人で夢の世界におられました。

そろそろ起きて、私と一緒に食事をしては下さいませんか? 昨夜もお世辞にも楽しい食事だったとは言えないでしょう。

今度こそ、挽回を。

朝食を提供する時間が終わる前に、ルームサービスを頼みます。

卵はどうしますか?」


「……オムレツ。あとは、なんでもいいです」


 こんな時に、卵の調理方法とか、パンの焼き方とか、ジュースの種類なんか考えられない。でも、ここのオムレツは美味しいから、それは外せない。

 頭上で、笑い声が聞こえた。


「分かりました。お任せください。

さぁ、起きて。

シャワーを浴びてすっきりして下さい」


「……あっち向いていてもらいませんか?」


 征吾さんは身だしなみを整えているが、こちらは服も着ていないし、髪の毛もボサボサなのだ。


「…………」


「征吾さん!」


「分かりました」


 シーツを引っ張り出して、それを身体に巻き、バスルームに行く。

 大きな湯船にたっぷりと湯をはり、アメニティの入浴剤を入れる。薔薇のいい香りがする。

 お風呂は気持ち良かったけど、「これからどうしようかな」という気持ちの方が強い。

 こんな顧客満足度百パーセント、リピート率十割! みたいな経験をしてしまったら、諦めきれなくなってしまいそうだ。

 不意に、涙があふれて来た。


「違う……」


 将司とは随分、ご無沙汰だった。深夜勤務になってからは、それを口実に避けていた。

 気が乗らなかったのだ。

 今なら認められる。苦痛だったのだ。早く終わればいいとしか思えない、相手の欲望だけが満足するような、そんな行為だったからだ。

 それなのに、それに気づきもしなかった。

 恥ずかしいし、悔しかった。

 

「私、愛されてなんかなかったんだ」


 最初からずっと。

 

 嗚咽がバズルームに漏れた。


 しばらくして、遠慮がちにドアが開いた。


「輝夜さん、ルームサービスが届きましたが……」


 私が泣いているのを察し、ドアは閉められた。

 あの時みたいだと、ぼんやり思っていると、ドアが少し、開けられた。

 手だけが伸びてきて、ペットボトルの水が置かれた。


「せめて水を飲んでください。脱水症状をおこしてしまいますから……すみませんでした。無理強いをするつもりは……いいえ、どうか水を飲んでください」


 震える手でペットボトルを手に取ると、キャップは一度、開けられ、緩く戻されていた。

 そのおかげで、簡単に開く。濡れた手では、開けにくいかもしれないという、これもまた、征吾さんの心遣いだった。

 ますます泣けてくる。

 冷たい水を一口飲むと、やや頭がすっきりしてきた。

 そして気づく。

 あの人に、誤解させてしまっているかも。


 湯船から出ると、危うく眩暈がしそうになる。もう一口、水を飲んで、気持ちと身体を落ち着けさせる。

 さらにもう一口。結局、全部、飲みきった。生き返る気持ちだ。


 手早く身支度を整えて、バスルームから出ると、すぐそこに征吾さんがいた。

 私の登場に驚きと、安堵の顔を浮かべる。


「大丈夫ですか?」


 何かあったら、すぐにバスルームに駆けつけられるように待機していてくれたのだ。


「あの……」


 征吾さんの後ろには、湯気の立つ朝食が配膳済みだった。

 それでも彼は言った。


「お帰りになりたいのならば、車を手配します」


「いいえ……あの……お願いがあるのですが?」


「――なんでしょうか?」


 誤解を解かないといけないが、何と言えばいいのか分からなかったので、行動で示そうと思ったのだが、上手く出来ない。


「輝夜さん?」


「なんでも聞いてくれますか?」


「いいですよ……どんなお願いでも、聞き入れましょう」


 それが別れ話でも、こうなったら受け入れようという覚悟が透けて見えた。

 征吾さんはすっかり、私に嫌われたと思っているのだ。


「あの……キスしてくれませんか?」


「はい?」


 素っ頓狂な声がする。

 征吾さんの胸元にそっと近づき、懸命にお願いした。


「キスして欲しいんです! 昨日みたいに」


「…………」


 私って、もしかして甘えるの下手かも。

 でも、征吾さんはきちんと意図を汲んでくれる。

 左手を私の腰に添え、右手で顎を持ち上げた。


「――いいですよ」


 と言いつつ、残念ながら、そっと唇を落すだけの軽いものだった。

 しかも、すぐに身を離してしまう。


「食事にしましょう!

輝夜さんのオムレツが冷めてしまいます」


「征吾さん……」


 昨日みたいなの、ってお願いしたのに。

 不満げな声が出てしまう。

 

「駄目ですよ。駄目なんです。

嬉しいのですが、その……こちらにも、いろいろ事情があって……」


 珍しく征吾さんがあたふたしている。


「事情?」


「そ、そうです。

よかれと思って、輝夜さんの分を、チーズ入りにしてしまったんです。

あ、お嫌いですか? チーズ入りオムレツ」


「……大好きです」


 知っているくせに。

 チーズ入りは別料金だから、遠慮したことも。

 征吾さんは、私のことを大事にしてくれるし、見ていてくれるし、理解しようとしてくれる。

 だから私も、征吾さんのことを尊重したい。

 とりあえず、今は言われたようにチーズ入りのオムレツが冷めて固くなる前に、いただくことにする。

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