22:引き合う星々
杏子さんの後ろで、イタリアンのシェフが気まずそうな顔をしている。
和泉さんの嘆願で来たことを話してしまったようだ。ついでに学生たちが戻ってきた理由も察したのだろう。
「私に勝手に動かないで! 何をこそこそと動き回っているのよ!」
「申し訳ありません」
一切の言い訳をせずに、和泉さんはただ悲しそうに打たれた頬を押さえた。
「そんな言い方、ないと思います!」
「あなたに何が分かるのよ!」
姉妹揃って同じようなことを言われた。お節介だと自覚もあるけど、それ以上に、杏子さんに対して言いたいことがありすぎる。
「和泉さんが杏子さんのこと、本当に心配していることくらい、サルにだって分かりますよ!」
何事かとやって来た休憩中の文屋さんと橘さんも頷く。
スタッフ以外立ち入り禁止のブース裏で良かった。前回は騒動が吉と出たが、今回もそうなるとは限らないし、杏子さん的には、こういうことで注目されるのは嫌そうだ。
私は声を低めた。
「確かに、やり方はまずかった。
和泉さんは杏子さんを子どもみたいに扱っていました。
転ぶ前に石をどけるような……そんな感じ。
でも、それは杏子さんを傷つけたくないからでしょう?
決して裏切っている訳じゃないわ」
「いいえ、私は杏子さまに対し裏切り行為を働いていました」
「そこで反省しなーい!」
あくまで自分に非があるとする和泉さんに、そうではないと教えたい。
「杏子さんは贅沢だわ。
こんな自分を大事にしてくれる相手がいるのに、気が付かないどころか、粗末に扱うなんて……」
言っていて悔しくなってきた。
私も尽くすより尽くされる女になりたかった。私の方が泣きたい。
「そうですよ!
和泉さん、素敵です。
杏子さんがいらないのなら、私に下さい!」
いつの間にか、チーム・ムール貝の女子学生の一人が仕事を抜け出してきた。彼女は和泉さんに憧れるようになっていたらしい。どざくさに紛れて告白する。
「え、私も和泉さん、いいなって思ってた。
いらないなら私に譲って下さい!」
橘さんまで立候補した。
「じゃあ、私も」
ついでにとばかりに文屋さんも。
女子大生に囲まれまんざらでもない……と思いきや、和泉さんは困惑しきりだ。
「あの、困ります」
真面目に対応しつつ、私に助けを求めてきた。
「うーん、私もフリーなんですよね。
和泉さんみたいな優しい人なら、幸せになりそう」
杏子さんを煽る目的もあったけど、本音が混じっていない訳でも無い。和泉さんなら、どんな女の子だって幸せにしてくれそうじゃないか。
だから、「えっ!」と、身を引かれると傷つくのよね。
そして私のものよと言わんばかりに、立ち塞がる杏子さんに反発を抱く。
「あなたたち何を言ってるの?」
「何をって、自分の気持ちです!」
和泉さんに告白した女子学生はもっと憤っていた。
「杏子さんは和泉さんを何だと思っているんですか?
和泉さんが杏子さんを裏切ったんじゃない。杏子さんが和泉さんを裏切っているんです。
あなたこそ、それが分からないんですか?」
「違います。私が一方的にお慕い申し……」
「そんなの分かってますから、和泉さんは黙っててください!」
物事の核心をついているが、興奮しすぎて和泉さん一世一代の告白を遮ってしまっている。
「落ち着いて」
「だって、和泉さんが可哀想」
泣き出した彼女を、文屋さんが引き取る。
「違う。史郎は私を裏切るんだ。
父が倒れた後、みんながそうしたみたいに……」
杏子さんは杏子さんなりに苦悩していたようだ。でも、和泉さんに対してはひどい思い違いじゃないの?
「なぜそう思うんですか?
現にこうして、今、和泉さんはあなたの側にいるじゃないですか。
あなたは他の人に対してもそう。
まるで自分から人を振り払っているみたい。それで最後まで残る人を見極めたいの?
そんなことをしていたら、誰が残るって言うの? 残ったとしても、あなたが本当に必要としている人じゃないわ。
繋いだ手を離しているのは杏子さんなんです」
「嘘よ! 私、知ってるんだから!
史郎が別の会社の人事の人間とこそこそ会っているの!」
転職の件のことだ。
「それは――」
「もう私に愛想を尽かしたんでしょう!」
その場の全員が「それは違うだろう」と首を振る思いだ。見れば、チーム・ムール貝の人数が増えている。ブースを誰が回しているのか気になるけど、こっちの展開も気になる。
「……そうではありません。……私は……」
「聞きたくない!
史郎だけは違うと思ったのに、史郎まで、史郎が……史郎だけは、私を裏切らないと思っていたのに!」
杏子さんは顔を覆って泣いた。彼女も和泉さんのことを、頼りにしていたのだ。意地の悪い言い方をすると、自分のものだと思い上がっていたんだわ。
それが離れていかれる恐怖、奪われる焦燥を感じ、やっとのことで、自分の気持ちを自覚したのだと……思う。
「――私は……これまでずっと杏子さまを大切にお守りしてきました」
静かな声がした。
「お父さまに頼まれたからでしょう。お父さまが倒れてしまって、義務から解放されたと思ったのでしょう?」
和泉さんの言葉に、杏子さんが拗ねたように言う。
「違います!
……私自身の気持ちで、杏子さまを……その、ですが、杏子さまは私ではなく、竹取物産に助けを求められた……。
私はそれが杏子さまのご決断ならば反対はいたしません。
けれども……杏子さまが他の男を頼りにしている姿を見るのが……近くで……見ることになるなんて……とても、無理です……」
和泉さんの歯切れは悪かったが、気持ちは伝わった。
「史郎……転職するの?」
潤んだ瞳で次の言葉を待つ杏子さんは子どもみたいだった。実際、迷子の子どもだ。
でも、彼女にはちゃんと自分を探して、見つけ出してくれる人がいる。
「いいえ。もし、杏子さまが私を必要となさってくれるのならば、ずっとお側に置かせて下さい。
今度こそ、真にお役に立ちます。
私は杏子さまの手を離したりはしません――ただ……」
「ただ?」
「竹取物産との縁組は考え直して下さいませんか?
私個人の我がままで言っているのではありません。
石橋産業は一時的に業績が落ち込んでいますが、まだ取り返せます。
杏子さまさえ――みんなに手を差し伸べて下されば――あなたを信じて付いていく人はたくさんいます」
出来ればもう一声欲しかったけど、和泉さんにはそれで精一杯で、杏子さんにはそれで充分だった。
杏子さんは和泉さんに手を差出し、和泉さんはそれを握った。
わーっと歓声が上がる。
学生たちが囃し立てたのだ。
そういうことをしたら杏子さんは怒ると思いきや、和泉さんの手を取ったまま、恥ずかしそうに俯いていた。
それから言った。
「ごめんなさい」
盛り上がっていた学生たちは、瞬時に静かになる。
互いに顔を見合わせ、どうする? とばかりに視線で相談した。
「じゃあ、一緒に働いてくれますか?」
お好み焼き屋のバイトの彼がそう言うと、杏子さんが「私を仲間に入れてくれる?」と聞いた。
「元から仲間じゃないですか! チーム・ムール貝ですよ」
文屋さんが自分が着ていたジャンパーを脱ぎながら言う。「だから私たちと同じスタッフジャンパーを着て、働くんです」
渡されたジャンパーを杏子さんは受け取った。
そこでようやく私はブースの方に意識を向けた。
「――って、誰がお客さまの相手をしているの!」
全員が急いでブースに向かうと、そこには征吾さんと、なんとオオノフーズの小野さんがいた。
今朝、白ワインを納品に来た同僚から事情を聞き、手伝いに来てくれたらしい。
私を見て、ニッコリ笑って手を振る。「こんにちは」と挨拶しようとしたらしいが、忙しそうな征吾さんの身体が遮った。
ほとんどの仕事を、征吾さん一人でこなしているから、大わらわなのだ。
それなのに、表面上ではいたって冷静で、皿を手渡す時に、一言二言、軽く言葉まで添えている。女性客が頬を染めた。
急いで全員を配置につかせ、今度は私が征吾さんを引き離す。
「休んでください!」
「やぁ、収まるところに収まったようですね」
スタッフジャンパーを着て、裏方に回った杏子さんを見て、征吾さんは微笑んだ。
結果的に自分が振られた形になっているのに、嬉しそう。もともと杏子さんとは結婚するつもりがなかったのだろうか。
「――そのようです。
なので、休んでください」
敢えてその話題を出すことはないだろう。
私には関係ないんだもの。なのに征吾さんはそうは思っていないようだ。
「輝夜さんのおかげです。あなたは素晴らしい人だ」
「私は、何もしてません」
実際に、何もしなかった。
「したことと言えば、杏子さんに嫉妬したくらい」
唇を噛む。
「輝夜さん?」
「私、和泉さんに尽くされる杏子さんを見て、すごく嫉妬していました。
杏子さんの話を聞くと、ムカムカしていたのはそのせいだったんだわ。羨ましかったのね」
征吾さんは将司との一件を知っているから、つい、愚痴ってしまったが、おかげで気分がすっきりした。
「輝夜さん……それは、あの……」
「変なこと言いました。ごめんなさい。
疲れている時に……」
「いえ、平気です。
身体を使って働いたので、気分がいいくらいです」
いやいや。あなた今、働き過ぎで倒れて休職中なんですよ。
働くことでリフレッシュしてどうするんですか。
「ですが、ここはみなさんにお任せした方がいいですね」
さすがに他人の仕事を奪うほど、飢えてはいないらしい。代わりにお腹が空いたようだ。
「輝夜さんも休憩中ですよね?
どうですか? 一緒に何か食べに――」
「あ! さっきサザエとホッキ貝とツブ貝をいただいた時! 征吾さんにお裾分けするの忘れていました」
手を合わせて謝る。「ごめんなさい!」
なぜだろう。あの時だけ、全く存在を感じなかった。
除け者にされたことを怒っては無いかと恐る恐る顔を伺うと、特に気にしていないようだが、「そうかぁ」と考えるような仕草をした。
「輝夜さんはサザエとホッキ貝とツブ貝は食べたんですね。
では、別な貝を食べに行きましょう。
ここなんてどうですか?
カキのお好み焼き。美味しそうですよ」
征吾さんはイベントマップを指示した。スタッフには食券が配布されているし、美味しそうだけど、ここから一番遠い場所だ。この人混みの中、行って、並んで、帰って来るまで随分と時間がかかりそう。
「私、買いに行くので征吾さんはここで休んでいて下さい」
それでも征吾さんが食べたいのならば、調達してあげたい。
そう思っての申し出だったのに、征吾さんの目つきが怖い。
「あ、出来立てがいいですよね?」
困ったなぁ。あの「底マチ付きの大容量! 夏のお買い物には必需品! お肉も冷凍食品も、これで安心! 保冷買い物バッグ」を持って来ればよかった。今度、担当する時は、保温機能にも言及してみよう。持ち帰りのお弁当とか、たい焼きとかたこ焼きを温かいまま家に持って帰れたらいいかもしれない。
などと考えている間に、「ご一緒に、と申し上げました」と、征吾さんが手を差し出していた。
これってどういう意味なのだろうか。
はぐれないように? いやいや。私、そこまで初心な小娘じゃあ、ない。
――嫌だ、やめてよ。
あなた、今、自分の婚約者候補を互いに競わせて値踏みしてるのよ。
それなのにこんなことするなんて、それこそ裏切り行為だ。
いい家の娘さんと結婚しなくちゃいけないんでしょう?
私は普通の家の娘なんですからね。
「小野さんにも声を掛けなくっちゃ!
彼こそ、”なんの関係もないのに”助けに来てくれて……悪いわ」
征吾さんに自分の置かれた立場をそれとなく伝える。
「そうとも限りませんよ」
「はい?」
鋭い視線が私を射抜く。口元が、今にも獲物を食い殺したいと言わんばかりに歪む。
「ここには輝夜さんがいる。彼にとっても、関係……大ありでしょうよ」
あの低くて、怖い声だ。だけど、私の胸には、なぜだかとても甘く響いてしまった――。




