02:陰る月
私がスマホを取り落とし、頭を抱えたのを見て、真理子さんと更紗ちゃんが慌てた。
「ど、どうしたの?」
「どうしたんですかぁ?」
そう言った後、絶句した。
私のスマホの画面を見たのだろう。
そこには、可愛らしい女の子の自撮り写真が写っていた。いわゆるアヒル口の上目遣いで、自分が一番可愛いく撮れるやり方を知っている顔だ。上半身は白いベアトップ……ではなく、シーツを巻きつけただけの”あられもない姿”。谷間の深さから、胸のふくよかさがうかがい知れるというものだ。
そしてその後ろに映り込んでいるのは、裸の上半身を覗かせ、満足そうな顔で寝こけている男……将司の姿だった。
「こ……この女の人、誰ですか?」
更紗ちゃんの問い掛けに答える。
「――知らない」
「この男は?」
真理子さんの追求に答える。
「将司……」
「えっと……もしかして、輝夜ちゃんの……彼氏?」
若い更紗ちゃんが息を呑んだ。「うそぉ」
そうだ、彼の、藤原将司のアカウントで送り付けられた写真は、まぎれもなく彼の不貞の証拠。
どう見ても情事の後の写真だ。
将司が寝ている間に、女が彼のスマホを使い、彼のアカウントで、恋人である私に送ってきたものだ。写真だけでなくメッセージもある。
『将司さんと、一緒にいまーす』
『ねぇ、見てる? これからあなたの番組を将司さんの隣で見てあげる』
『なによ、まだ見ていないの?』
『何にも知らないで、そんなダサいバッグ売って喜んでいるなんて、お笑いだわね』
『ラブリー・ピンクとか壮絶にセンスないの』
『無理無理、パーティーにあんなデカいバッグとか持って行ったら恥ずかしい』
こちらが読んでいないと知って、次々と誹謗の言葉が続いている。
「ひどい……」
「輝夜ちゃん……」
「ダサいって……あのバッグ、エレガントで素敵よね!?
そりゃあ、二兎追う者は、一兎も得ずというけど、あれは一石二鳥のデザインになるように頑張ったの!」
私は女の思うつぼにはまって、大いに動揺していた。
「輝夜ちゃん、落ち着いて」
「だって、あのバッグ、丹野さんが定年する最後の仕事にって……すごく一所懸命だったんですよ!」
特別な日のためにクローゼットに大切に保管するのもいいけど、もっともっと上質なバッグを手軽に使って欲しいという気持ちが籠められていたのだ。
「そうね、あのバッグはとても素敵よ。見た目もいいし、機能的!
ねぇ、更紗ちゃん!」
「え……私は……あ、ごめんなさい、真理子さん……お許しを!
私には……だけど、真理子さんや輝夜さんみたいな素敵な大人の女性にはピッタリの優雅なバッグだと思います!」
真理子さんの鉄拳制裁により、更紗ちゃんは言い直した。
確かに、あれは大人の女性向けのデザインだ。二十代前半の更紗ちゃん向きではないかもしれない。そこは個人や世代の感覚の違いだから、仕方がない。
ニイナも同じくらいの二十代前半くらいの女の子だった。
「ひどい!
こんな若い女の子と浮気するなんて!
こんな胸がおっきくて、なのにスタイル抜群で、顔も可愛い女の子と浮気するなんて……すごい……一体、どんな手を使って……」
スマホの画面を見直す。
性格は極悪そうだけど、顔は抜群に可愛い。
「アイドルみたい」
「アイドルですよ! この子!
そうだ、思い出した!
グラビアアイドルのニイナです!」
更紗ちゃんが驚きの声を上げる。
「グラビアアイドルぅ?」
ますます一体、どんな手を使って……という疑問が浮かぶ。
将司は人の良い顔をしているけど、美形とは違う。お金持ちでもない。それどころか――。
「彼、どんな仕事してるの?
もしかして業界関係とか?
そう言えば、輝夜ちゃん、彼氏がいるのは知っているけど、話はしてくれなかったわね……」
「それは……」
言い澱む私に、真理子さんの目が三角になる。こ……怖い……。
「仕事……してない……今は……」
「はぁ? してない?」
「違うの!
将司に合う仕事がなかなかなくって、でも、料理が得意だから、調理師になったらって、今、専門学校に通っているの」
ニートじゃない、ちゃんと目標を持って手に職を就けようとしているのだと、私は弁明したが、真理子さんの表情は一向に穏やかにはならない。ますます険しくなる。
「仕事が続かないのに、どうやって専門学校に行く授業料を捻出したの?
バイトしてるの?」
「それは……」
「まさか輝夜ちゃんが出してないでしょうね?」
出しています。
入学費に授業料だけではない、一緒に暮らしているデザイナーズマンションの家賃も生活費も遊興費も。この間、一緒に行った温泉旅館は高かった。
「それ、ヒモじゃないですかー! やだー!」
更紗ちゃんが耳を塞ぎながら叫んだ。トレードマークのポニーテールが揺れる。
「静かに!」
真理子さんが一喝する。周りを見ると、幸いにも人はいないが、大事をとって打ち合わせ用の小部屋に三人で移動した。
「どうしてヒモなんて飼ってるの!
おかしいと思ってたの! 彼氏がいるみたいなのに、いつまでたっても結婚とか、そういう話にならないなって。
輝夜ちゃんならもっといい人、いくらでもいるでしょう?」
「将司はいい人よ」
「どこがですか!?
輝夜さんが深夜に働いている時に、こんなグラビアアイドルといちゃいちゃしているような男、いいところなんて一ナノもないですよ。
こいつのいいところを見つけるくらいなら、ニュートリノを肉眼で見る方が簡単なくらいです!
私がノーベル物理学賞を獲れますよ!」
たとえが理系すぎてよく分からないよ、更紗ちゃん!
でも、誤解は解かないと。
「将司は自分に合う仕事に出会えてないだけよ。
いつか彼に相応しい仕事が見つかるんだから、それまで私がサポートしてあげるの」
「いやいや、ないですよ。
それ、絶対、あり得ないですよ。
てか、仕事っていつ見つかるんですか? いつかっていつですよ!
この将司って人、いくつなんですか?」
「二十八……」
私と同い年だ。
なにしろ彼と私は高校の同級生で、初めて付き合って人だ。私が大学に進学し、将司が浪人した時に、なんとなく縁が切れてしまったのだが、三年前の同窓会で再会したのを切っ掛けに、また付き合い始めた。
その時、将司は浪人して入った大学も中退し、すでに五回の転職をしていた。
どこの会社も自分を正当に評価してくれない。自分はもっと認められてしかるべき人間なのだ、と。
「いつかでっかいことをするんだって……」
「典型的な駄目男のセリフです。
もう二十八歳でそんな子どもの夢みたいな漠然としたこと言っている無職の時点で、私にはあり得ません!
と、言うか、今時の子どもの方がもっと現実的な将来設計をもって、具体的な努力をしてますよ。
どこが良くって、付き合ってるんですか?」
どこが? と聞かれて考える。
復縁してすぐに、将司は「家賃が払えなくなった」と私の部屋に転がり込んできた。「新しい仕事が見つかったらすぐに出て行くから」と言った。
しかし仕事は見つからず、見つかっても三日ももたなかった。
「悪い、悪い」と詫びながら、ご飯を作ってくれた。家に帰れば電気が点いていて、「おかえり」と迎えてくれる人がいる生活。
ちょうど深夜帯の担当になり、やりがいはあったが疲れてもいた。将司は私を労わってくれ、愚痴を聞いてくれ……。
「私の癒しなのよ!
将司がいてくれるだけでいいの! それだけで幸せな気持ちになるんだから」
「世の中には、まともに稼いだ上で、奥さんや彼女を幸せにしている甲斐性のある男がたくさんいます!
なにもそんな不良物件にしがみ付くことないですよ!
もう二十八なんですよ。その男も大概ですけど、輝夜さんもです!
そろそろ結婚を考えて、ちゃんとした男の人とお付き合いしてないと、まずくないですか?」
更紗ちゃんの訴えに、真理子さんも同感だと頷いた。
「あなた、よく彼氏に買ってもらったって自慢して言ってたけど、彼氏、お金も無いのに、どうやってプレゼントしているの?」
私は将司に注文して貰った新しいピアスを触った。
「買ってもらったって言うか……代わりに注文してもらってるだけ……です」
「待って……やだ、待って!」
ここに来て、ようやく真理子さんが動揺したが、私も心臓がバクバクしてきた。
「それって、相手の男が輝夜ちゃんのショッピング・シャワー・チャンネルのカスタマーアカウントとパスワードを知っているってこと?
それで勝手に買い物してるってこと!?」
「だって!」
アテンドは絶対にオンエア中に商品を注文出来ないのだ。
「だってじゃない!! それだけはしちゃ駄目でしょうが!
せめて、相手のアカウントで買ってもらって、支払いなさいな!」
泣きそうだ。
年下の更紗ちゃんにまで軽蔑の視線で見られている。「そんなに癒しが欲しいほど、疲れているのですか? 猫でも飼った方が断然、いいですよ」
もう一度、スマホが振動した。
今度の写真も挑戦的で攻撃的。さっきのよりも随分と寄っている写真だ。そのせいで、ニイナの耳元に輝くピアスの意匠がはっきり分かる。
「あ! このピアス!」
「輝夜さんのと同じ……」
更紗ちゃんが気まずそうに口を押さえた。
「嘘。ウソ……」
ニイナが個人的に買ったものならいい。でも、写真の構図は思わせぶりで、おまけにメッセージが追加される。
『将司に買ってもらったピアス。私の方が似合うわね』
血の気が引いて、慌てて自分のショッピング・シャワー・チャンネルのカスタマーページに入る。
購入履歴を辿る。
自分で買ったものもあるが、将司が注文したものもある。
「すごい、こんなに買ってるんですか?」
注文履歴のすさまじさに、更紗ちゃんの眉が寄った。私も同じ顔になっていると思う。
食品、ホームキッチン用品、衣類やアクセサリー、バッグに靴、健康器具にオーディオ類、電子機器まで、とにかくショッピング・シャワー・チャンネルで扱っているものはなんでも買っているようだ。
「し、知らない……」
「知らないって、輝夜さぁん!
いくらなんでもそれはないでしょう?
注文したら確認のメールが来るし、発送のお知らせだって来るんですよ。
輝夜さんの! メールアドレスに!」
更紗ちゃんが強調した言い方をする。メールが届くか、物が届くか、そのどちらか片方しかない場合、アカウントが乗っ取られている可能性が出るのだ。
けれども、私にはその両方とも届いていなかった。
「――彼が……将司が……私の出勤時間が不規則だから……夜勤の時、昼間、寝ている時に宅配便で起こされないように、好きな時に外出できるように、私が出社した後や帰宅前の、夜の時間帯指定にしておいてくれれば、代わりに受け取ってあげるから……それには、いつどんな商品が発送するか分かっておきたいから、メールアドレスを自分のに変更するって……」
こうして口に出してみると不自然だと疑惑が生まれてくる。
こんなにたくさんの商品、部屋のどこにも見たことがない。
自分のアカウントの履歴すら見ていなかった。いいや、見ていたけど、大体、食品やホームキッチン用品が並んでいたので、将司が二人の食事のために買ったものだとばかり思っていた。それは確かに届いている。だから、まさかそのに下、こんな大量の商品が並んでいるのに気付かなかった。
クレジットカードの支払いの多くがリボ払いになっていたのも、気付けなかった要因だ。
――気付かせなかった……とも言える。
「輝夜さん……なんでそんな話、信じちゃったんですか?」
更紗ちゃんの顔には、、軽蔑を通り越し、哀れさすら浮かんでいた。
真理子さんの表情は固いままだ。
とにかく、目的の物を探そうと、何度もスクロールし、読み込みをかけ、やっとたどり着いた、つい二か月前の購入履歴にそれはあった。
『商品番号6982333764:大人可愛いエクセレント・ムーンピアス 数量:2』
「二個買ってある……」
私のお金で、ニイナの分も!
二か月前から付き合ってたんだ!
「輝夜さぁん!」
「ひどい……」
真理子さんが黙ったまま、私からスマホを取り上げた。
「言いたいことはたくさんあるけど、もう次の出番が来るわ」
二時の回だ。
こんな時に、のびのび〜ストレッチ素材パンツ。ウエスト総ゴムで楽ちん! なんて出来るのだろうか。
でもやらなければならない。
アテンドの個人的な感情で、番組の質を左右してはいけない。
メーカーさんやバイヤーさんの生活がかかっているのだ。それになによりもお客さまが欲しいと思う商品を届けられなくなる。
「この男のことに関しては、本当に輝夜ちゃんは馬鹿も馬鹿、大馬鹿だと思うけど、仕事に対する姿勢に関しては尊敬するわ」
私の目を見た真理子さんが苦笑した。
「サポート、お願いします」
「大丈夫。平常心で。今夜も輝夜の完売ショーを見せてあげなさい」
誰に、とは言わなかったが、おそらく今度の番組も見ているであろうニイナにだろう。
「はい。
化粧直さないと。それから……まずい! 商品のパンツに履き替えないと!」
ファッションの時、アテンドは必ず、その回に売る商品を身に付けるのだ。
「もう時間がないわ。急いで。
なんなら最初はモデルのウォーキングで時間を作るように、プロデューサーに言っておく」
「お願いします」
時計を見ると、あと二十分はある。
うん、大丈夫。
「輝夜さん、頑張って下さいね!」
更紗ちゃんの応援を受けて、更衣室に駆け込む。
しかし、私の受難の夜はまだ始まったばかりだった――。