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Primula  作者: 澄葉 照安登
第六章 思いを言葉に
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思いを言葉に 20

 さっきまで暖かかった部室が、途端に寒く感じ始める。別に肌に触れる温度が低くなったわけでもない、変わったのは色味だけ。

 オレンジ色をしていた空は薄暗くなり、それに倣うように部室もまた闇色に変わっていく。空の端はまだ朱色なのに、もう電気を付けなくては自分の足元すら見えはしない。

 それなのに、私は電気を付けもしないで、その場を去ることもできずに立ち尽くしていた。

 もう、どれだけの時間が経ったのだろう。もう何時間もそうしていたように感じる。

 体が動かなくなって、息の仕方すら忘れていた。

 息苦しくなると同時、胸の奥まで苦しくなった。

 私はそれを紛らわすために振り返り、窓の外を見つめた。

 さっきまで後ろにいたあの人は今どこにいるだろう。まだ校舎の中にいるだろうか、それとも外に、あるいは学校を出ているだろうか。

 そう思いながら視線を落とせば、ちょうど真下に学ラン姿の人影が見えた。

 闇色に同調するように黒く見えるその髪の毛は、紛れもなくあの人だ。太陽に照らされれば淡く明るく 見えるその髪の毛を、私はよく知っている。

 私はその二つの人影を見ながら、窓に付いた手に力を込めた。

 隣にいるのは、肩口までの明るい茶髪の女の子。私と同じブレザーに身を包んでスカートを揺らしている。

 彼女も私のよく知る人物だ。

 二人はゆっくりとした足取りでどこかへ向かう。おそらく自転車を取りに行くのだろう。先輩は自転車通学だと聞いたことがあった。

 いつそんな話をしたのかも思い出せないけれど、その事実だけを思い出して息を吐いた。

「はぁ、ぁ……」

 これでよかったんだ。

 そう思って吐いたはずの息は震えて途切れ途切れだった。

 その震えを止めるように空いているほうの手で自分の胸を握りしめた。窓に付いた手と違って、胸の前で握りこんだ手は力を入れ過ぎたせいでたまらなく熱かった。

「よかった……」

 だから私は、それを意識しないためにそう口に出した。

 今見えているものが私が求めたものなんだと言い聞かせるために。

 それなのに、私の言葉は震えていて、少し裏返った声は今にも泣きだしてしまいそうだった。

 自覚したらダメだ。そう思って私は心臓の鼓動を止めるように両手で胸を握りしめた。指先で引っ掻かれて肌が熱くなる。ブレザー越しなのに胸の音が手を伝って響いてくる。

「なんで……ッ」

 止まってくれないの。心臓が止まってしまったら死んでしまう。そんなことはわかっている。けれど今だけは、胸の音が消えてほしかった。消えてくれないと、苦しさがなくなってくれない。

 今なお早くなり続ける心臓の音を手で押さえつけながら、必死に祈る。止まって、止まらなくてもいいから音を消して。

 そう思いながら目を瞑る。眼下に広がる景色を見たくないわけではなかったのに、まるで逃げるように顔ごと視線が逸れる。

 するとその時、背後から足音が聞こえてきた。先輩は今真下にいる、先輩が来たわけではないのはわかっている。けれどだからこそ、誰も来ないはずの部室に誰かがやってきたことに驚いた。

肩を跳ねさせ、恐る恐る振り返る。さっきまで胸元を握りしめていた手は、怯えるようにその場で固まっていた。

「原、先輩…………」

 振り返った先にいたのは、ぶっきらぼうな先輩だった。先輩の名を呼びながら体ごと振り返ると、釣り目がちな目が私へと向けられる。

「あ、ぇ……ぁ……」

 睨まれたというわけでもないのに私は狼狽えながら視線を逸らして体を強張らせる。

 すると原先輩は何も言わないままに部室へと踏み入り、いつも彼が座っている教卓の前まで行くと、その陰に隠すように置かれていた鞄を掴み上げた。

 どうやら荷物を取りに来ただけらしい。それもそうだ、この先輩がわざわざこんな状況を見るためにこの場に来るなんてことあるはずがない。私は安堵の息を吐きながらもう一度窓の外へと視線を落とした。その先にはまだあの二人がいる。

 触れているわけでも握りしめているわけでもないのに胸の奥が圧迫されるような感覚に襲われる。それを無視するために体ごと窓の外へと向き直った。

「…………はぁ」

 すると、私のすぐ真横からため息が聞こえてきた。私は驚いて振り返ると、私のすぐ横で原先輩が同じように外を見ていた。

 その目に映っているのは、さっきまでの私と同じものだろう。そんなことは先輩の視線を追えばすぐに分かった。だから私は怯えるように後退った。

 すると私よりもほんの少しだけ背の高い先輩は、私を横目で見てぼそりと呟いた。

「そういうことか」

「…………」

 私は何も言えずに半歩後退った。

 その言葉だけで、その瞳に移した光景を理解しただけで、先輩がすべてを理解したのだということが分かった。どうして今こうなってしまったのかを、理解したんだということが。

 私はそれが恐ろしくて、後退りながらも口にする。

「仕方ないんです」

 苦笑いを浮かべながらそういうと、先輩は私のほうをじっと見つめた。説明してみろと、言い訳があるなら聞いてやると敵意すら感じる瞳で。

 私は震えだしそうになりながらも、言葉を紡ぐ。

「私、男の人が苦手で、だから、誰かと付き合うなんて、できないんです」

 先輩は、きっと私が告白されたことを知っている。先輩だけじゃない。文芸部のみんなが知っているのだろう。わざわざ部室に呼び出されたんだ。誰が来るともわからないのにその場所を選ぶなんていうことは、あの先輩だったらきっとしない。だから、文芸部の全員が知っている、協力しているはずだ。

 そう思ったから、私は知っていることを前提に話した。

 その過程は口にせず、結果とそれに至った理由だけを口にする。

「異性として、見られるのが苦手で、だから、ダメなんです」

 嘘は言っていない。今でも男の人は怖い。それは紛れもない事実だ。

 けれど何事にも、例外はある。できてしまうものだ。

 私はそれを覆い隠しながら、まったく違う話へとすり替える。

 笑顔を浮かべて、冗談めかして先輩に言う。

「原先輩みたいに、私を、女の子だと思わない人なら、平気かもしれませんけど」

 そんなこと、口にしたいわけじゃなかった。それなのに、胸の苦しさに押し出されるようにして吐き出したその言葉は自嘲気味な笑みすら携えていて、とたんに罪悪感に押しつぶされそうになる。

「あ、はは……」

 けど、それでもそれを顔には出すまいと、苦笑いを浮かべて乾いた声を上げてみる。

 すると、原先輩は小さくため息を吐くと窓の外を見ながらぶっきらぼうに言った。

「なら、陽人にも異性として見られなければよかったな」

「ッぅ……!」

 先輩に言われて、思わず声が漏れた。息ができなくなって、同時に目元に熱が帯びる。

 声を抑え込むために手を口元へ当てれば、またしてもため息が聞こえた。

「泣くくらいなら、そんなことしなければいい」

 言われて、私は慌てて目元を指で擦る。けれど目元は熱いだけで涙なんて流れていなくて、瞬間私は鎌をかけられたことを理解した。

 目を見開きながら先輩を見れば、呆れた様にため息を吐く姿が映った。そして息を吐き切ると同時、いつもの様にぶっきらぼうに、先輩は言う。

「簡単に諦められるなら諦めろ。自分で決めたことだろ」

 そんなこと、言われなくてもわかっている。自分で決めたことだから言い訳なんてできないことも、簡単に諦めるなんてできもしないということも。

 なのに先輩は言うのだ。簡単に諦められないんだろうと、後悔しかないんだろうと。

 私自身がそう口にしないから、先輩がそれを口にしてくる。

 先輩の言う通り、泣く資格なんてないのに泣いてしまいそうになる。涙を流して感情を吐露してしまいたいと思うほど胸の内にたまったもので心が圧迫されている。先輩の言葉はどれも的を射ていて、それでいてすべてに皮肉が混ざっている。

 逆上してしまいそうになる。私のほうが間違っているとわかっているから。

 必死に胸を押さえつけ、落ち着けと言い聞かせる。落ち着いてと、願い続ける。それでも胸の内にあるそれは収まってくれずに、私は表面だけ取り繕うように笑顔を浮かべた。

「そう、ですよね……。自分で決めたことですよねッ」

 自分で決めたんだ。身を引くって。

 美香の耳に届いてはいなかっただろうけれど、そう口にしたから。応援すると口にしたから。私はそれを選んだんだ。

 夕紗先輩が言っていた。どうするかは自分で決めればいいと。自分の気持ちとあの時口にした言葉とで板挟みになってどうすればいいかわからなくなっていた私に、答えをくれた。

 それは私に向けられた言葉ではなかったけれど、確かにその言葉で私は改めて決意した。

 私の気持ちは押し込めて、あの時の言葉を形にしようと。

 あの先輩が誰かに心惹かれているなんて言う話は聞かなかった。いつだって優しいあの先輩は、恋に憧れているだけだと言っていた。だから、こんなことになるなんて思わなかったんだ。

 昔から私の気持ちは一方通行で、それは今回も例外ではないと思っていた。

 だから、何もしないままでいればいいのだと思っていたのに、そううまくいってはくれなかった。

 告白された。告白されてしまったんだ。私が、あの先輩に。

 私はもう、断るしかなかった。

 先輩の気持ちが嬉しくなかったわけじゃない。好きだと言われたあの瞬間、涙をこぼして先輩のもとへ駆け寄りたくなるほど私はあの人を特別だと思っていた。

 けれど、それをしてしまったら、美香を裏切ったことになってしまう。だから断るしかなかった。

 もちろん、私が付き合わなかったからと言って必ずしも美香の思いが成就するわけじゃない。そんなことはわかっている。もしかしたら松嶋先輩の隣にいるのは、私たちが会ったこともない女性かもしれない。そんなことはわかっている。

 けれど、私が断れば可能性がゼロにはならないから。あの人の隣の、たった一つだけ空いている席を埋める結末にだけはならないから。

 だから私は決めたのに。

 苦しくて仕方ない。死んでしまうんじゃないかと思うほどに苦しくて、泣き叫びたいのにそんなことできなくて。そんな状況を作ってしまったものの正体が私の気持ちなんだと目の前にいる先輩に攻め立てられている。

 私の言葉を聞いた先輩は、ただじっと私を見つめる。できもしないことを口にするなとため息を吐くことはせずに、ただ真っすぐに。

 けれどそれはほんの数瞬のことで、原先輩はふっと息を吐いて踵を返した。そしてそのまま視線だけを私へ向けて言う。

「どうにかなる程度なら、それでいいだろ」

 ぼそりと言うと、そのまま何事もなかったかのように部室を後にした。

 その背中を見送ると、私はもう一度窓の外を見た。

 もう、二人の姿は見えない。一緒に帰ったのだろうか。そう思いながら私は窓から離れて、いつもの席に置いてある自分の鞄を肩にかけた。

 帰ろう。もうここにいる理由はない。カギは部室にはないから誰かが持っているはず。カギを閉めて帰る必要もない。電気もつけていないしただこのまま廊下に出ればいい。

 そんなことわかっているのに、私の足は動いてくれない。縫い付けられたようにいつもの席の前から動かない。

 私の視線の先には、あの人の席がある。

 私の真向かいの席。最も近い場所にあの人の席がある。あまり顔を合わせることは無いけれど、みんなの話を聞きながら、時折困ったように笑って見せるその横顔を私は一番近くで見ていたんだ。

 足から力が抜ける。そのまま重力に従ってしゃがみ込むと自分の黒い髪の毛が視界の端で揺れた。

 涙は流れない。だって決めていたから。こうするんだと、前から決めていたから。

 けれど、あの人の姿を思い出してしまうと、心が揺れる。

 すぐに忘れられる、気持ちが切り替わる、どうでもよくなってしまう。そんな気持ちなら、その程度の気持ちなら気にすることなんてない。

 原先輩の言った通り、その程度なら、よかったのに。

 喉の奥にたまった叫びを押し込めながら、鞄を握る両手に力を籠める。

「忘れなきゃ」

 いつか握りしめたあの人の温もりを思い出しそうになって、私はそう口にした。

「忘れ、なきゃ……」

 自分に言い聞かせて息を吐く。けれどそれを否定するかのようにふらついた私は、机の脚を手すり代わりにした。

 手の平の熱が吸われていく。それは当然のことなのに、とても虚しい。

 そのまま感情に流されてしまわないようにこらえるように唇を噛む。けれど、堪えきれなかった気持ちが唇の隙間から逃げ出した。

「せん、ぱいぃ……!」

 誰を呼んだかなんて、考えたくなかった。


第六章完結になります

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