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Primula  作者: 澄葉 照安登
第六章 思いを言葉に
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思いを言葉に 19

「ごめんなさい。……私は、先輩とは付き合えません」

 しんと静まり返った部室に、彼女の吐息交じりの声が響いた。

 その声が耳に届いて、反響して、意味を理解するまでに数秒の時間がかかった。

「…………ッ……」

 理解すると、途端に胸が苦しくなる。息がうまくできなくなって、横隔膜が痙攣でもしているのか胃のほうまで痛くなってくる。

 体の関節が熱くなって、それなのにだんだんと感覚が薄れていく。視界が傾き、足元もおぼつかなくなって、動こうなんて思ってもいなかったのに後退る様に半歩足が下がった。

「……」

 そこでようやく今自分がどこにいるのかを思い出して、目の前にいる女の子が誰で、自分が何者なのかを理解する。

 眩暈がひどくなって倒れそうになりながらも彼女の姿をとらえる。朱色に染められた彼女の顔をよく見れば、苦しそうに、申し訳なさそうそうに唇を噛んでいた。

「ぁ…………ッ……」

 何かを口にしようと思って、声がうまく出ないことに気付いた。それに口に出すべき言葉も見つかっていないことにも。

 眩暈に続いて、平衡感覚も危うくなってくる。自分の足が今どこにあるのか、足の裏は何を掴んでいるのか、そもそも自分に足があるのかどうかなんてことまで分からなくなる。足を流れる熱い血の感覚はあるのに、とらえるべき外界の情報が何一つ入ってこない。

 手も、ただ熱いだけで何も感じない。触れている空気も、手にこもる力加減もわからない。関節がくっついているのかどうかすら危うくなってくる。

 しまいには、自分自身が今ここにいるのかどうかもわからなくなる。

 もしかしたら俺はここに居なくて、何かドラマやアニメなんかのワンシーンでも見せられているんじゃないかと、そんな気持ちになってくる。

 目も前にいる彼女は描かれた絵画か何かで、誰もここにはいないんじゃないかと思えてくる。

 それでも、自分の体を流れる血の感覚だけははっきりしていて、振れる空気の温度もわからずとも、体の内の熱だけはわかってしまうんだ。

 彼女の震える唇が、彼女がそこにいることを証明している。

 そしてその視線が、俺がいることを訴えかけてくる。

 これは現実で、ほかの誰でもない自分自身の起きた出来事なんだと叫んでくる。

 彼女の唇が、形を歪める。するとその唇があえぐように小さく空いた。そしてそのまま、声とも表現できないようなかすれ切った音で、言葉を紡いだ。

「ごめんなさい……」

 その声が、俺へと向けられているのだと理解するのに時間はかからなかった。俺と彼女以外に誰もいないこの場所で、ほかの誰かに向けられるはずがないのだから。

「ぁ、いやそ、の……」

 受け答えは、どんな言葉が最適だろうか。そんなことを考えて冷静を気取ってみたけれど、結局何も浮かばずに言葉尻がすぼんでいく。肺の酸素を吐き切ってしまったのか、胸の内が苦しくなって大きく息を吸った。

 彼女は、どんな顔をしているだろう。そう思っても見ることが出来ない。視線は彼女に向けられているのに、彼女の口元から上が見えない、見ることが出来ない。

 けれど、見なくともどんな顔をしているのか簡単に想像がついた。その胸中を考えることが出来た。

 半年にも満たない付き合いだけれど、彼女のことを少しは知っているから。

 迷惑をかけることを嫌い、気を遣わせまいと気を遣い続け、異性に対して苦手意識のある、臆病な女の子。

 そんな彼女が、こんなときどんなことを思うのかなんて、考えるまでもなかった。

「えっと、大丈夫だよ?」

 絞り出した言葉は、嘘にまみれていた。

 震える声で、目も合わせずに、ぎこちない笑顔を浮かべながらそんな言葉を口にすれば、いやがおうにも気付いてしまう。気付かれてしまう。それなのにそんな言葉しか出てこなくて声に出してしまった。

 もう一度息を吸って、気持ちを保つために喉の奥で止めた。そしてそのままその空気に音と嘘を乗せて口にする。

「……ッありがとう……」

 そう口にした瞬間。彼女の口元がきつく結ばれた。罪悪感を感じているのだろう。それはそうだ、彼女ならきっとそう思ってしまう。悪い事なんて何一つしていないけれど、彼女ならそう思ってしまう。

 わかっていたのに気付けなかった。考えることが出来なかった。今でもそう。それがどこか朧気で、自分という存在が希薄に感じる。何度も息を吸っているのに苦しさが和らいではくれない。

 この場に空気なんてないんじゃないかと思えてくるくらい、呼吸がうまくできない。

 だから俺は、今度は自分の意思で半歩後退った。そしてそのまま、視線を落として、けれど笑顔を浮かべて言う。

「呼び出して、ごめんね」

 言い切ると同時、俺は踵を返して部室を出た。足がうまく上がっているのかもわからないまま廊下に出て、振り返りそうになりながらも扉の前から離れていく。

「ッく……はぁッ」

 階段に向かいながら、息を吐いて呼吸を整えようとする。

 けれど肺に空気のない状況で吐き出せるものなんてあるはずがない。今すべきは吸うことなのにそんなこともわからず喘ぎながら呼吸を整えようとする。

 呼吸のペースが上がっているせいか、歩調も上がっていく。目の前に階段が見えたと思ったら足が虚空を掴んで転げ落ちそうになった。

 ふらつきながら手すりを掴んで転倒を防ぐと、そのままの勢いで階段を下りて行った。

 来るときは長く感じた階段を十数秒で降りて鞄を取りに向かう。閉められた二年一組の扉を開けると、中にいた人影がかったるそうに振り返った。

 そこにいたのは、真琴。部室に鞄を取りに行かなくてはいけないと言っていた悪友だった。

 目が合うと、真琴は目を大きく見開いた。まさか俺が来るとは思っていなかったのか、確認するように俺の頭上へと視線が向けられる。教室入り口の壁には、アナログの時計がかかっている。

 俺はいたたまれなくなって視線を逸らすと、窓際の真琴の席にはいかずに教室中央に位置する自分の机のところまで行って鞄を掴んだ。そしてそれを担ぐと同時、振り返りもせずに真琴に言う。

「待たせてごめん」

 言い終わるよりも早く、俺は廊下に向かって歩き出した。

 上履きの底を鳴らしながら教室を出て、振り返るどころか足求めずに廊下を歩く。

 駆けてきたわけでもないのに呼吸はいまだ整わない。鞄を担いだことは覚えているのに肩にかかっているはずの重みは感じられない。

 けれど俺はそんなこと気にも留めずに階段を下って行く。

 一階に付くと、体育館から漏れ出ているノイズ交じりの音がよく聞こえた。マイクを使っているのだろう。必要以上にエコーのかかった声が誰のものなのかはわからないが、その声はとても楽しげだった。

 俺は、それを聞いているのがつらくなって、さらに速度を上げて下駄箱へ向かうと、乱暴に靴を脱ぎ捨て、慌てふためいているかのように靴の踵を潰しながら靴を履き替え外に出た。

 外気に触れて、ようやく俺の腕がその感覚を取り戻し始める。校舎内よりもやや寒い屋外は当然と言えば当然だが人の気配がしなかった。騒がしいのは体育館のほうだけ、昇降口には誰もいない。

 そう思って俺は息を吐こうとした。

「……先輩?」

「ッ!」

 けれど、それは叶わず耳慣れた声が聞こえてはじかれたように振り返った。

 昇降口を出たところ、壁にもたれかかるようにしていた立花さんの姿を見て俺は恐ろしいものでも見たかのように後退った。

「え、先輩……。なん、で……?」

 彼女は、信じられないものでも見たかのように目を丸くした。彼女の言葉の続きは、ここにいるのか、と続くはずだったのだろう。けれどその声はそこで止まり、最後まで語られることは無かった。

 代わりに、俺の視線が地面へと撃ち落される。

「えっ……?」

 それを見た彼女は、信じられないと言いたげな声を上げた。

 俺はなおも足元を見つめていた。

 信じられない。そう思っているのは俺自身だ。

 なぜこの状況が信じられないのかなんて、問うまでもない。

 期待、なんていうものはなかった。そんな危ういものだったら俺は今こうなっていない。

 俺は思っていたんだ。うまくいくはずだと。

 思い込んでいたんだ。これが終われば新しいスタートだと。

 思い上がっていたんだ。彼女も同じ気持ちでいてくれていると。

 期待しているだけならば、俺は告白なんてできていない。何せ初めてのことだ、気持ちよりも恐怖が  勝ってしまう。俺は恐怖に勝てるほど強くない。そんなことは自分が一番よくわかっている。だから、できるはずがないのだ。

 けれど、俺はした。けれどそれは、恐怖に打ち勝ったわけはない。

 思ってしまったんだ、あの時に。

 文化祭まであとわずかに迫ったあの部室で、みんなで部誌を作っていた時に。

 彼女の手に触れたとき、その表情を見て、彼女はそうなんじゃないかと。

 そう思ったから、思えてしまったから。俺は告白したんだ。

 漫研のあの子を見て焦ってしまったというのも多少はあっても、一番の理由はそれだった。

 いつか目の前にいる彼女に問われたことがあった。もしも意識していなかった相手から告白されたらどうするかと。

 俺は付き合わないと答えた。不誠実だから、付き合ってくれそうなら付き合うなんて即物的だからと。そんなことを思って。

 それなのに、俺がやったのはそれと何も変わらない。

 俺が彼女に思いを寄せているのは本当のことでも、告白できたのは、告白すれば付き合うことが出来ると思ったから。思いを伝えたくて口にしたわけじゃない。その結果が欲しいから口にしてしまったんだ。それを手にできるなんて思い上がったから口にしたんだ。

「せん、ぱい……?」

 立花さんが、不安そうに俺の顔を覗き見る。そんなことあるはずないと、不安の中にも期待を混ぜ込みながら。

 けれど、俺はそれに答えることはできない。俺は彼女の視線から逃げるように視線を逸らした。

 信じられない、どうして。そう思い続けている。

 悲しいなんて気持ちは浮かんでこない、あるのはただ驚愕ばかり。

 だから、目頭が熱くなることは無かった。代わりに、胸の奥に熱くてドロドロした感情が浮かび上がってくる。

 どうして、そう思えば思うほど胸の内にあるそれは熱せられて溶け出すように溢れてくる。自分の胸の内が気持ち悪くて醜くて、自覚したくもなくて押し込めるために息を止めた。

 それなのにどんどん溢れてくる。さっきまでは即物的でも焦がれる想いがあったのに、今はそれが黒く塗りつぶされてしまっていた。

 茜色の空が青黒く汚れている。雲間から星が見えるかもなんて淡い期待を抱いてみたけれど、そこに俺の求めるものはありはしなかった。

 空も闇に包まれて、校舎も朱色から苔むしたような白に。一時は明るくすら思えていた学ランも、今は自身の心に同調したかのように真っ黒だった。

 俺は、奥歯をかみしめる。

 お門違いだってわかってはいる。理不尽だとは理解している。それこそ夏にあった出来事の様に。

 それなのに、塗りつぶされた心には虚しさに彩られたそんな気持ちしか残っていなかった。

「はぁ…………ッ」

 深呼吸のつもりで吐いた息は、とても鋭い音を響かせた。

 なんで、どうしてと自身に問い続けながら止めていた息を吐き出した拍子に、胸の汚れもはがれ落ちて姿を見せた。

 いやだ、こんなこと思いたくない。

 それなのに一度見えてしまったそれはもう覆りようがなかった。

 なかったことになんてもうできなかった。

 俺は唇を噛みながら自身を憎んだ。

 裏切られた、なんて思ってしまった自分自身を。


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