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Primula  作者: 澄葉 照安登
第六章 思いを言葉に
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思いを言葉に 18

 白い雲が茜色に染まった。ともすれば水色の空も朱色に染まり、空の端は光彩のせいで白くも見えていた。すすけた校舎も日の光に照らされてはちみつ色に化粧され、自身が身に着ける黒い学ランさえ窓から差し込む夕日の力でわずかに明るく見えていた。

 眉をしかめて、手で日の光を遮る。二年生のクラスのある廊下でそうしながら、俺は息を吐いた。ひそめるようにしたその吐息は思いのほか大きく聞こえた。

 それもそのはず。文化祭はもう終わりこれから後夜祭が始まろうとしているのだ。

 窓の外からかすかに聞こえる喧騒は、開け放たれた体育館の入り口から漏れ出ているのだろう。この場から体育館を見ることはできないが人の波を飲み込む大口を想像した。

 俺も去年はその人の流れに沿って体育館に向かったものだ。大して理由があったわけでもなく、ただソウたちと一緒に暇つぶしの感覚で。

 けれど、俺がこれから向かうのは階段を下った先にある体育館ではない。俺が向かうのはその真逆。

 細めた目もそのままに、俺は天井を見上げた。

 俺が向かうのは見慣れた部室。同じ校舎の四階にある文芸部の部室だ。

 いつもなら、ソウたちとそろってカギを借りに行って、そのまま急ぎもしない足取りで部室に向かうところだが、今日は違う。文化祭で部誌の販売をしたせいもあって部室は開けっ放しだし、その部室はいつもの通りに数人の部員で彩られているわけでもない。

 今日この時間に、あの部室には誰もいない。

 それを改めて思い出して、俺は一度深呼吸をした。

「何してんだ」

 すると、静まり返った廊下にぶっきらぼうな声が響いた。

 驚いて振り返ってみれば、そこには今まさに階段を上ってきたらしい真琴の姿があった。

「あ、真琴。えっと…………今から行くところ」

「そ」

 口ごもりながら言えば、真琴はまるで興味ないとばかりに単音の返事をした。そしてそのまま、無関心に声の抑揚もなく真琴が言う。

「終わったら連絡しろ」

「えっ?」

 真琴にそんなことを言われて、素っ頓狂な声が漏れた。

 もしかして待っていてくれるのだろうか。望まない結果が出てしまった時のために。珍しく優しいななんて思いながら目元をほころばせると、真琴は呆れたようにため息を吐いた。

「鞄、部室に忘れたんだよ」

「あ、そういう……」

 変な期待はするなと言いたげに真琴が言い放つから、俺は苦笑いを返した。

 普段通りの真琴を見て、肺にたまっていた空気が少し抜けた。心なしか心臓の音も静かになった気がする。決して落ち着いたわけではないが、無駄な力が抜けた。

 俺は自分が思いのほか緊張していた事実を理解してまた苦笑いをこぼした。

 すると、真琴が何も言わずに俺の横を通り過ぎる。そしてそのまま立て付けの悪いスライド式の扉を開けるとちらりと視線だけ俺に向けて言う。

「お前鞄は」

「あ、教室にある」

「そ」

 俺がもう一度教室に戻ってくるということを伝えると真琴はやはり興味ないと言いたげに吐息を漏らした。

 けれど真琴はそのまま開け放たれた扉をくぐって見慣れた教室へと入って行った。

 ここで、俺を待っていてくれるなんて勘違いはしない。そんな勘違いはさっきの一度で十分だ。

 きっと真琴は、ここで待っていればそれが終わったかどうかすぐにわかるから、なんて理由で教室で時間を潰すことにしたのだろう。わざわざ今鞄を取りに行ってその現場に居合わせるのは、さすがの真琴でも思うところがあったのだろう。

 気を遣っているわけはない。頑張れなんてエールも口にしない。それどころかもう目線すら合わせようとしない。

 そんな悪友を見ながら、俺は大きく息を吸った。そして、それを吐くと同時に足を動かし始める。

 行ってくる、なんて宣言はわざわざ口にしない。口にしたところで真琴はまたどうでもいいと言いたげな返事しかしないだろうし、そんなこと言う暇があるならさっさと終わらせろと思うだろうから。

 だから、俺は上履きを擦りながら階段へと向かった。

 少しだけ埃の溜まった階段は、少し寒々しい。人の気配がしないせいだろうか。それとも単純に日が落ちて気温が下がってきたせいだろうか。そう思いながら俺は身じろぎした。その拍子に、学ランの袖と裾がこすれてシュッと音を鳴らした。

 思えば、彼女と出会ったころはまだ夏服だった。半袖のワイシャツ姿で、蝉の声ばかり聞いていたのを覚えている。

 あの頃は、こんな気持ちを抱くなんて思いもしなかった。何度も彼女に言っていた。そんな風には見ていないよと。何度も確認した。この気持ちはそうではないと。

 応接室での虚実入り混じった問答の時も、みんなで花火大会に行った時も。そう、思っていたんだ。

 階段を、一段一段上っていく。普段は上った段を数えるなんてことはしないのに、自分の足元をじっと見つめている。

 それがいつ変わったのかと言われれば、明確にこの瞬間と言えるタイミングはない。けれど、夏休み終盤にはもう変わり始めていた。

 彼女の手を掴んでしまったこと、怖がられたこと、大丈夫だと言われたこと。その時にはもう変わり始めていたと思うし。その後連絡先を交換したときには、もう変わり切っていた。

 踊り場の窓から、夕日が差し込んでいた。俺はそれを避ける様に次の段へと足を向ける。

 あのころは、ただ気付けていないだけになっていたんだと思う。

 そしてその気持ちが何かわからなくて、悩むようになったのは二学期に入ってからだった。そして、わからなくなってしまったのも、その時だった。

 間城のことがあったから、俺は気付くきっかけを貰えた。そしてそれと同時に、真琴にそれを砕かれた。今になって思えば、真琴に何を言われようとも気にする必要はなかったのかもしれない。けれど友達の言葉で、たった一言であんなにも揺れてしまったのは、きっと当てはまるところがあったのだと思う。

 きっと真琴に言われなければ、今の気持ちとは少し違ったものを抱いていたように思う。それこそ、昔からの理想の形を張り付けていただろう。

 だから、真琴の言葉には苦しめられてしまったけれど、無意味なんて言うつもりは無かった。むしろそれは、必要なことだったんじゃないかとすら思う。俺は昔から、自分の意思を強く持つことは無かったから。

 いつだって周りに合わせるように生きてきたから、周りに意見を聞けばそれも一理あると、そうかもしれないと鵜呑みにしてしまっていた。そんな俺が、誰かの言葉に左右されることなく、自分の気持ちを信じることが出来るようになったから。強固でなくとも自分の気持ちを信じようと思えるようになったから。それは、必要なことだったんだと思えた。

 階段の先に、廊下が見えた。けれどそこは俺の進むべき場所ではない。俺が進むべきはもう一つ上の階だ。

 俺は廊下には出ずにそのまま階段を上がっていく。

 いつも一階の職員室から四階の部室まで行かなければいけないことを億劫に思っていた。わざわざ一度一階に降りてからまた最上階の四階に向かうのは、ただひたすらに面倒だと思っていた。

 もともと小説を書いたりする人間じゃなかったし、文芸部だってこの学校で部活動が義務化されているから作って所属するようになっただけに過ぎない。

 ただソウたちと集まるなら、部活なんて形をとらなくてもよかった。

 だから俺は文芸部に行くこと自体にそれほどの意味は見出していなかった。

 今でこそその気持ちはなくなったけれど、同じような気持ちをつい一か月前にも感じていた。

 部室に行くのがだるい。顔を合わせるのが怖い。答えを出すのが恐ろしい。

 あの嵐の日まで、ずっと思っていた。顔を合わせるたびに思ったから。勘違いだったんじゃないかって。彼女の笑顔を見ても、違和感を感じるばかりでそれ以外の何かがあるわけではなかったから。

 でも、あの時彼女のその笑顔が作り物だったことを知って、確信に至った。

 彼女の本当の笑顔が見たい。そう思えたから、俺はその気持ちをそう呼ぶことにしたんだ。

 自信はなくて、そう自分で決めただけだったけれど、全てが過ぎた今だからわかる。そうではないと口にした夏から、変わり始めた海での出来事、悩んだ南の地、決めた嵐の日と。その全てが過ぎたからこそわかる。

 俺は、本当はずっと、彼女に惹かれていたんだ。

 そう思った時、足の裏が虚空をとらえた。視線を上げてみれば、その先にもう階段はなくなっていた。振り返っても、上へと続く階段はない。見えたのは、足元に見にくい黄土色で書かれた『4』という数字だけだ。

 俺は息を吸って、廊下へと踏み出す。さっき落ち着けた心臓がまたうるさくなり始める。呼吸も荒くなって運動をしたわけでもないのに体が熱くなる。

 歩きながら深呼吸をして自分を落ち着けようとする。けれど、足が前に進むたびにそれが近づいてくるのがわかって鼓動が早くなる。いくら落ち着けようとしても静まってはくれない。

 当たり前だ。何せ初めてのことなんだから。緊張しないはずがない。焦らないはずがない。

 俺は自分を落ち着けるのを諦めて足元へ落していた視線を上げた。

 足元しか見ていなかったのに、顔を上げたときに見えたのはいつもの光景だった。何度も通って見慣れた景色、体を九十度回せばもう部室だ。

 さっきの階段とは違ってなんの意識もすることなくそこにたどり着いてしまったことに少し呆れて、同時に通り過ぎなかったことを安堵した。

 通り過ぎても、戻ってくるだけなのだが、こんな日にそんな間抜けなことはしたくない。誰に見られているわけでもないけれど、それは恥ずかしいと思った。

 俺は自分を落ち着けるためではなく、覚悟を決めるために深呼吸をした。目の前には、教室と同じ扉がある。

 この扉の向こうでは、俺が自分で選んだ結末が待っている。ほかの誰でもない、俺自身が決めて選んだ未来が。

 俺は深呼吸をするさなか、耳を澄ました。物音は、しない。部室の中からも、廊下のどこからも。

 けれど、その奥に人の気配を感じた。

 俺は扉に手をかけようとして、ノックをするかどうか悩んだ。けれど、わざわざそんなことをする必要もないだろうと思って吸い込んだ息を吐いた。

 指先が、扉に触れる。

 立て付けの悪い扉を、ゆっくりと引いていく。

 滑車がうまく働かなかったせいで、一瞬動きが止まったがすぐに動く。ゆっくりと力を咥えて扉を開き切ると、その奥を見つめた。

 いつもの円卓へと向かうのならば、教室の中ほど――入り口から斜め左へ向かわなくてはいけない。けれど、そちらに彼女の姿を見るよりも先に、真正面の窓際に人影を見た。

 シルエットだけで彼女であることを確認すると、俺は部室へと足を踏み入れた。

 静かだ。とても静か。秒針の音と共に体育館の喧騒も聞こえては来る。けれどとても静かだった。

 俺はその静寂に吸い込まれないようにと息を呑んでから、彼女に言った。

「呼び出して、ごめんね……」

 まっすぐに見て言うと、彼女は小さく、そしてゆっくりと首を振った。

 俺は彼女のテンポに合わせるように間を開けると息を吐いた。

 彼女は、どうして呼び出したのかと問うてはこない。それもそうだろう。呼び出した段階で、あれだけあからさまに言ったのだ。今更問うまでもないだろう。

 夕日が雲に隠れて、空全体が茜色に輝く。そのせいで電気の付いていない部室が少しだけ暗く感じられて、彼女の表情を見逃すまいと目を凝らした。

 前髪に隠された表情はうかがえない。けれど、夕日の加減かそれともまた別の影響か、彼女の頬が朱色に染まっているのが見える。緊張しているのだろう、口元はかみしめるように引き結ばれている。

 俺は、少しだけ何を言おうかと考えて、息を吸った。

 今更呼び出した理由を語ったりする必要はない。これまでのことを二人で振り返る必要もない。俺が二人になりたかった理由に、彼女ももう気付いているから。

「永沢さん……」

 吸い込んだ息と一緒に言葉を吐き出せば、その声はわずかに震えていた。

 まだいうべき言葉を口にしてもいないのにそれだけですべてを出し切ったような気すらしてしまう。事実、俺は肺にため込んだ空気をすべて吐き出していた。

 俺は呼吸を整えるためにもう一度息を吸った。肺は空気でいっぱいになったのに、胸から肩かけてが苦しい。本当に息を吸ったのかと思えるほどに呼吸が整わない。

 初めてだから当然だけれど、こんな風になるなんて知らなかった。

 間城はすごい。こんなことを一度ならず二度も、同じ相手にして見せたのだから。

 言葉になるのはどういうときかを口にした彼女を思い浮かべながら、俺は彼女に負けまいと拳を握って深く息を吸った。

 ようやく呼吸が整う。そのことに安心して息を吐いてしまいそうになるのをぐっとこらえた。

 けれど、もう堪え切れそうもなくて歯を食いしばった。

 息が続かないんじゃなくて、言葉が出てしまいそうで。

 歯を食いしばっても、もうそれは待ってなんかくれなくて、だから俺は半ば自分の胸の内に言わされる形で、それを口にした。

「好きです……」

 そしてそのまま息も絶え絶えに、声を震わせながら口にした。

「俺と付き合ってください」

 黒髪の彼女は、頬を真っ赤に染めて見せた。


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