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Primula  作者: 澄葉 照安登
第六章 思いを言葉に
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思いを言葉に 12

「先生、部誌の原稿出来上がったのでお願いします」

 職員室に向けたはずの自分の声が廊下で跳ね返って自分に耳に戻ってくる。

 手に持ったUSBメモリを指先で撫でれば釣りりとした感触のせいで落としてしまうんじゃないかと思って強く握りしめた。

 職員室の入り口で声を上げた俺をちらりと見た桐谷先生はふっと安堵のため息を吐くと落ち着いた動作で立ち上がりゆったりと歩いてこちらに来た。

「お疲れ様です。データは?」

「あ、これです」

 尋ねられ、真琴から預かったUSBを差し出す。

 先生はそれを受け取ると待っていてくださいと丁寧に言ってから職員室の奥のほうへと消えた。

 しかし数分と経たずに姿を現すと、その手に数十枚のコピー用紙を持って再び俺たちのもとへとやってきた。

「あとは資料室に行きましょう」

 そう言って桐谷先生が持ち上げたコピー用紙には、無数の文字列が刻まれていた。

「あ、わかりました」

 先生が廊下へ出られるように半身で避けると、その意図をくんだのか先生は「ありがとうございます」と丁寧に言ってから俺の横を抜けた。

「珍しいですね、岡林君ではなく二人が来るのは」

 廊下に出た先生が俺のほうを振り返り、俺の背中に隠れるようにして立っていた彼女をその瞳にとらえて無表情に言った。

 急に見つめられたからか、俺の後ろにいた彼女が焦ったようにペコリをお辞儀をした。

「では行きましょう」

 別に話を広げようとは思わなかったのか、先生は会話を打ち切るかの如く言うと歩き始めてしまった。

 俺は堂々とした立ち居振る舞いをする背中を追いかける直前、ちらりと彼女のことを振り返った。

 黒髪の彼女は、部室にいたときから変わらず、なぜか申し訳なさそうに瞳を伏せていた。

 彼女がそんな風にする理由はわからないが、俺は悪いことをしてしまったなと思いながら気付かれないように小さくため息を吐いた。

 そもそも、俺が永沢さんと二人で職員室に来ているのには理由がある。それは当然言わずもがな部誌を印刷するためなのだが、ソウのいらない気づかいのせいでもあるのだ。

 つい数分前、俺の作品がようやく完成を迎えた。決して長くはない物語ではあるがやはりというべきか当然というべきか、俺は最下位で完成にたどり着いた。

 そして脳が疲労困憊で体までだるく感じていると、ソウが一番遅かったからお前が先生の所へ行けなんて笑顔で言ったのだ。もちろんその時一応は抗議した。そういった仕事はいつだってソウの役目だったし、何より疲れていたから。

 しかし俺の幼馴染は心配いらないとばかりに笑顔で付き人を任命したのだ。ほかでもない彼女のことを。

 その時のソウの得意げな顔を思い出すに、おそらくは二人きりにでもしてやろうといらない気を回してくれたのだろう。俺の幼馴染はまったく悪びれもせずに歯をのぞかせて笑っていた。

 当然、誰かに気を遣わせたり迷惑をかけることを嫌う彼女がそれを断るなんてことをするはずもなく、少し迷うようなそぶりを見せただけで快く手伝いを引き受けてくれたというわけだ。

 俺の幼馴染のせいでこんなことに巻き込んでしまったことを思うとやはり申し訳ない。俺自身は彼女と一緒に居る時間を苦には思わないが、彼女がそうだとは限らない。だから俺は彼女に振り返りながら苦笑気味に言う。

「手伝ってもらっちゃってごめんね?」

「あ、いえっ、そんな」

 彼女は少し焦ったように手を振って否定してくれる。気にしないで下さいと言いたげに。

 けれどその瞳には影が差していて、その輝きも曇って見えた。

 俺のせいでこんなことに付き合わせてしまっている事実に申し訳なく思いながらも、八つ当たりのようにソウに遺憾の念を送れば前を歩いていた先生がくるりと振り返った。

「プリンターの使い方はわかりますか?」

「あ、わからないです」

 目の前を歩く自分よりも少し背の高い男性教諭に言うとやはり丁寧な言葉で「そうですか」と無感情な声が返ってくる。

 そんな風に言いながら、桐谷先生は資料室と書かれた部屋へと入っていく。

 何も言わずに入って行った先生の後を追うように薄暗いその部屋に入ると、鉄製の棚や古本の束ばかりの教室のど真ん中に、灰色をした古い型の大きなプリンターがあった。

 普段入りなれないその部屋に物珍しいものを感じながら天井を見上げていると、先生が早く来いとばかりに俺たちのことを見つめているのに気づいて早足に印刷機の前に向かった。

「使い方は基本的には普通のコピー機と一緒です。とりあえず一枚やってみますね」

 先生はそう言うとてきぱきとコピー機にセットしていく。

 見て覚えろとばかりに手元を見えるようにしながら作業を進めていく先生の一挙手一投足に注目していると、その指がぴたりと止まる。

「何部作る予定ですか?」

「五十だそうです」

 俺が言うと先生はピピッとボタンを操作して印刷開始のボタンを押した。古い型の印刷機が音を立てながら動き始める。

「では、後はお願いしていいですね?」

 正常に動き始めたのを確認した先生は、俺たちのことを信頼しているのか興味がないのかそんな風に言った。

「え、チェックとか何もしないんですか?」

 あまりに無感情な態度に驚きながら聞くと、先生は希薄な表情を笑顔に変えながら言った。

「あとは印刷するだけですし、今更チェックもいらないでしょう」

 言うと先生は印刷機を撫でた。

 今更も何も、ただの一度も顧問らしいことはしていなかったと思うのだが、それでも先生は笑顔で、正しいことをしているとばかりに自信に満ち溢れた顔で言う。

「それに、これは君たち学生の物語です。私が何かするのは邪魔にしかなりませんよ」

 そんな風に言うから黙ってしまったが、いくらなんでもそれは無責任が過ぎるとも思った。

 けれど、異を唱えなかったのをいいことに先生は俺たちにあとはまかせたとばかりに手を上げで資料室から出て行ってしまった。

「……じゃあ、やろうか」

「はい」

 苦笑いで言うと、彼女は同じように返してくれる。

 印刷機が静かになれば手動で新しい原稿に差し替え、音を立てている間は時たま彼女と話をしながら終わるのを待つ。

「先輩、印刷した後はどうするんですか……?」

「ホッチキスで止めて本にするんだよ」

 俺は文芸部の部室でほこりをかぶっている去年の小冊子を思い浮かべながら説明する。ホッチキス止めしたところにはテープか何かを張って危なくないようにはするのだが、それはこのあとやることなのでその時に説明があるだろうと思ってそんな風に言う。

「今日はもう遅いからできないだろうけど、明日はやると思うよ」

「そうなんですね」

 俺がそう言うと、彼女は優しい笑みを携えて言った。

 自分たちの書いた作品が本になる、そのことを実感したのだろうその笑みに違和感はなく、不要な感情は含まれていなかったと思う。

 彼女は、最近よく笑うようになった。つい数週間前まではまだどこかぎこちなく、気遣うような、迷ったような笑みを浮かべていた。

 けれどここ数日は、そう言ったものが消えた笑顔を浮かべ続けている。

 もちろんずっととは言わない。ふとした時に申し訳なさそうに笑ったりもする。けれどやはり、彼女は笑うようになった。自信を持つようになったと思う。

 きっと、ここ最近で彼女の中に何かしらの変化があったんだと思う。それは小説を書いたことが関係しているかもしれないし、もしかしたら、傲慢かもしれないけれど台風の日のことも関係しているのかもしれない。

 そんな口には出せないことを思いながら、言葉数も少なく印刷機を動かしていく。

 そうして印刷も折り返し地点に差し掛かろうとしたとき、ふと懐かしさを感じる声が聞こえた。

「あの、すみません。コピー機って……使ってますよね?」

 申し訳なさそうに、自信なさげに言った声に振り返ると、そこにはまだ夏休みに入る前に、ほんの短い会話を交わした名も知らぬあの後輩の姿があった。

 彼女に――永沢さんに漫研に戻ってきて欲しいと口にした、あの後輩の姿が。

「あっ、あの時の……」

 俺は彼のことを思い出すと同時、応接室に呼び出された時のことを思い出す。彼女の怯えたような様子を、悔しそうに虚しさを抱え込んだ瞳をしていた彼のことを。

「あっ」

 俺が振り返ると、彼もそのことを思い出したのか勢い良くお辞儀をした。お互い名前も知らない間柄だけど、そのことは忘れることなんでできなかったのだろう。妙に懐かしいものを感じながら俺は笑顔を返す。

 すると彼は言いにくそうにこちらを覗い見る。

「えっと……コピー機、いつまで使いますか?」

「あ、えっと」

 言われて、まだ半分ほどしか印刷の終わっていない紙の束と、もうすっかり暗くなった空を見詰めた。

「まだ結構かかるかも……ごめんね?」

 俺が言うと彼は焦って「いえっ」と口にした。そして暫し悩むようなそぶりを見せると何かに思い至ったのかコクリと頷いた。

「明日は使いませんか?」

「……うん、明日は使わないよ」

 俺は学ランのポケットからスマホを取り出して時間を確認。今日中には問題なく終わるだろうと思ってそう言った。

 彼も何かを印刷しに来たのだろうか、そう思ってそう言えば彼が漫研の部員であったことを思い出す。時期も時期だ、彼も俺たちと同じく部誌の印刷に来たのだろう。そう思いいたって一人で納得していると彼が申し訳さそうに口を開いた。

「じゃあ、明日にします。すみません、お邪魔してしまって」

「え? あ、いいんだよ?」

 邪魔だなんてことは全くないのでそう言ったが、彼は依然申し訳なさそうに言う。

「永沢も、邪魔してごめん」

「あ、大丈夫」

 彼女はいきなり自分に矛先が向いたからか、すこし驚いたような声を出した。

 俺は彼女の聞きなれない壁を感じさせない言葉遣いを聞いて、思いのほか二人の仲がいいんだということを理解する。

 小さな声で言った彼女に、彼は苦笑いで返すと踵を返して去っていく。

俺はその姿が見えなくなってから、自身に苦笑を向けながら言った。

「えっと、仲いいの?」

「えっ? いえ、クラスが同じというだけで、とくには……」

 彼女は俺の質問に意外そうに目を丸くしたが、依然俺の苦笑いは消えない。

 情けない、こんなことでもやもやするなんて。これは多分、そういう感情だ。

 イライラする、という感じではない。今感じているのは、焦りだ。

 ずっと忘れていた。彼の存在を。彼と交わした言葉を。彼の気持ちを。

 たまたま縁があって一度二度話しただけの相手だったから、もうすっかり忘れてしまっていた。それ以来、一度も顔を合わせていなかったから。

「そうなんだ」

 なるべくいつも通りに返そうとしたけれど、声のトーンがいくらか沈んでいた。

 そうだ、一人じゃない。一対一じゃないんだ。

 先日見たあの告白の様に、一人の人に複数の異性が思いを寄せることだってあり得るんだ。この学校内一学年だけにしても百人を優に超える人数がいる。そういったことが起きても不思議はない、むしろ起きないことの方が不思議なのだ。

 それなのに、そんなことを考えもしなかった。彼女がもしほかの誰かに惹かれていたらとは考えたけれど、彼女が誰かから好意をよせられていたらとは考えていなかった。自分と彼女以外の人を無いものとして考えていた。

 だからいま、俺はそれを実感して焦っている。

 彼女の言うように、特別仲がいいというわけではないだろう。それは様子を見ればわかる。けれど、彼の気持ちを考えると焦りが募る。

 もしも、彼女が誰かと付き合ったら。

 考えたくもないことを考えてしまう。胸が内と外から圧迫され、運動をしたわけでもないのに息苦しさを感じる。苦痛に顔をしかめそうになるが、彼女のいる今そんなことはできずに、奥歯をかみしめこらえる。

 もしも彼女に相手がいたら、俺はもう何もできないだろう。俺はそんな状況で何かできるほど勇気に満ち溢れていない。そうなってしまったら、もうそれまでだ。

 それを理解して、余計に焦りが募る。

 悠長に構えていた。ソウに告白しないのかとからかわれた時、いつものように軽く受け流した。周りが見えていなかったから、自分の気持ちしか見えていなかったから。

 告白は、まだできないと思っていた。間城の様に溢れ吹きこぼれるような大きな思いにはまだなっていなかったから。そんなことをする実感がわかなかった。いつかそうしたいと思ったときにすればいいんだと、勝手に思っていた。

 そのいつかは、いつ消えてしまうともわからなかったのに。

 奥歯をかみしめ、コピー機から出てきた原稿用紙を集める彼女を見る。

 今、彼女にそういう相手がいないとも限らない。けれど、このままでいたらきっと後悔する。このまま何もしなければ、後悔する。

 そう思いながら次の原稿用紙をセットして機械を動かす。

 いつか間城に言われた。どんな後悔をしたくないかだと。

 それがいま目に見えてわかる。俺はそんな後悔をしたくない。その後悔の仕方だけはしたくなかった。

 けれど、情けないことに俺にはまだ、踏み出す勇気がなかった


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