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Primula  作者: 澄葉 照安登
第六章 思いを言葉に
86/139

思いを言葉に 10

 真琴の後を追って教室に駆け出して数秒後。ほんの少し俺の先を歩いていた真琴に追いついて笑顔を向けた。

「二人して忘れるなんて面白いね」

「はぁ」

 そう喋りかけてみれば、それですべてを察したのだろう真琴から何にも面白くないとばかりにため息が返ってくる。俺は真琴の態度に笑顔を浮かべながら自分より少しだけ背の低い真琴と肩を並べる。

 少しだけ軽く感じる足でリズムを取りながら、寒々しい色の廊下を突き進む。

「……ずいぶん機嫌いいな」

 するとそんな俺を見た真琴が、鬱陶しいなと言いたげに俺のことを見る。それに「まあ、そうだね」と返すと真琴は怪訝そうに俺を睨む。

「書けるようになって気が楽になったか」

 真琴の問いに頷く代わりに笑顔を浮かべた。

 ソウには進捗が芳しくないことを指摘されてしまったが、それでも全く進んでいないわけじゃない。それは去年の自分からは考えられないことだった。自分の成長を意識して気分が高まってしまうのは仕方のない事だった。

 しかし、俺はその笑顔に安堵を混ぜて言う。

「それもあるし、テストも終わったからさ」

「お前成績悪くないだろ」

「今回はいろいろとあってちょっと危なかったんだよ」

「あっそ」

 聞いといて興味もないと言いたげに会話を打ち切られて苦笑いが浮かぶ。

 相変わらず愛想のない真琴の様子に苦笑いがどんどん濃くなるが、それは決して邪険にしているわけではないことを知っているので苦笑いで済む。

 はたから見れば本当に仲がいいのかと問いたくなるような関係だけれど、真琴に関して言えばその限りではない。真琴はその辺が極端だから。

 嫌いな相手には悪意を持って接するどころか興味もないと言いたげにいない者扱いする真琴だから、こうして話しているだけでもかなり仲がいいと言えるのだ。

 そして真琴から話を広げてくれるともなればなおのこと。

 興味ないと話を打ち切った真琴は、ぼそりと嫌味ったらしく言う。

「それで原稿用紙教室に忘れなければ満点だったな」

「真琴もね」

 真琴の指摘はごもっともだったが、それはUSBを忘れた真琴にも言えることだったので即座に返した。

「取材なんて言って後輩に詰め寄った奴が何か言ってる」

「すねないでよ……」

 俺の指摘が図星だった真琴は、そんな風に言って見せる。

 俺は苦笑いを浮かべながら、意地っ張りで素直じゃない子供のような友のことを見つめる。俺よりも少し背の小さい真琴は、少し長めの漆塗りのような黒い髪の毛を揺らしながらため息を吐く。

 その様子はもはや見慣れてしまっていて、ため息と言えばまず真琴が出てくるほどだ。

 そんな友と二人で廊下を進む。ソウがいないこともあってこの二人でいるときは比較的静かだ。真琴はもともと口数が少ないし、俺だって妄想に取りつかれたときくらいしか声を荒げたりはしない。

 だから、上履きが廊下を擦る音や、歩くたびにわずかに聞こえる学ランの擦れる音なんかもよく聞こえる。

 屋外の運動部の声は、まだ部活が始まる前だから聞こえない。

 それも余計に作用して、周囲の音がよく聞こえてきてしまう。

 別にそれが取り立てて良いというわけでも悪いというわけでもない。それはその人同士の空気感だ。正解も間違いもありはしない。

 けれど、今この瞬間においてはよかったと言わざる負えない。

 俺と真琴が二人で教室の扉の前までやってきたとき、中から誰かの声が聞こえた。

 決して大きな声とは言えない、けれどはっきりと聞こえてくる。そんな声に気付いて俺は扉の前から姿を隠すように数歩後退った。

『悪い。こんなこと、言うべきじゃないってわかってる。でも、けじめとして言っておきたかったんだ』

 その声は、クラスでは聞いたことのない声だった。

 俺は教室を間違えたのかと思って扉の上に取り付けられていたプレートに視線を向けるが、そこにはしっかりと二年一組と書いてあった。

「あっと、真琴? なんか取り込み中っぽいんだけど」

「は?」

 小声で言うと、真琴はわけがわからないとばかりに顔をしかめた。そしてそのまま俺を押しのけて扉に手を掻けようとする。

 けれどそれより一瞬早く、中にいる声の主が言葉に続きを語った。

『俺は、前からお前のことが好きだった』

「真琴ストップ!」

 吐息の音だけで言いながら慌てて真琴を引き留める。そしてそのまま真琴の腕をつかみ扉から数歩離れて隣のクラスの扉の前まで移動する。

「なんだよ」

 隠れるようにしゃがみ込むと真琴はうざったそうに俺のことを見てきた。

「いや、なんだよじゃなくて、今入ったらダメでしょ!」

 声を押し殺しながら真琴に迫る。けれど真琴は依然として俺が何を言ってるかわかっていないようで怪訝そうな顔で口を開けていた。

「いやだから、今告白の最中だからっ。中入っちゃダメだって!」

「なんで?」

「真琴話聞いてた!?」

 わけがわからないとばかりに聞き返してきた真琴のさらに詰め寄る。けれど真琴は鬱陶しいなとばかりにため息を吐くばかり。

 俺の言いたいことどころか、口にしたことの意味を理解していないのかと思って真琴にもう一度説明する。

「今中で告白してる人がいるから、入っちゃだめだよ」

「一人芝居の可能性だってある」

「そんな寂しい人いないよっ」

「いやいるだろ」

 俺が慌てて言うと真琴は冷静に突っ込みを返してくれた。確かに、そういった人がいないとは言い切れないかもしれない。演劇部の泉州で大本でも読んでいる可能性も無きにしも非ずだ。

 そんなふうに納得しかけてしまった俺は頭を振る。

「どっちにしたって今入っていくのはダメでしょ!?」

「じゃあ原稿どうすんだよ」

「それは、時間つぶしてからで。多分部活が始まる時間になればいなくなると思うし」

 この学校は部活動が義務つけられている。だから中の人も時間になればいなくなるはずだ。活発ではない部活動に在籍して幽霊部員、という人もいないわけではないが、もしそうならば午前中で解放されるテスト最終日にわざわざ残っていることもないだろう。

 そう思って提案したのだが、真琴は面倒だとばかりに吐き捨てると立ち上がってもう一度俺たちのクラスの扉の前に向かった。

「あ、ちょっと真琴っ」

 慌てて呼び止めるが真琴は止まってくれない。俺は急いで真琴の後を追いかけ今まさに扉に手を掻けようとしていた真琴の手を掴んで止めさせる。

「なんだ――っ!」

 そしてそのまま文句を口にしようとした真琴の口を押さえて数歩後進。

「真琴、あとで取りに来ようっ、絶対そのほうがいいからっ」

 言いながら扉に隔たれている二年一組の教室を見つめる。

 その時、扉がわずかに空いていることに気付いた。ほんの僅か、小指が通るかどうかというほどの隙間が。

 気付いてしまった以上、そこに視線が行くのは当然のことで、その先をみつめれば中にいる人が小さく見えるのも当然のことだった。だから、俺は真琴を羽交い絞めにしながら後退り、背中が窓に触れるところで止まるとずるずると腰を下ろしながら真琴に言った。

「真琴。今中にいるのって……」

「――んっ、は? なんだよ」

 口を押えていた俺の手をはがした真琴が不機嫌をあらわにしながら睨む。けれど俺が視線で示した先にあるのが何なのかを理解した真琴は、悪い目つきをさらに細めて言った。

「ああ、旅行の時できたって奴か」

 真琴もその姿を見て理解したらしく、俺の言いたかったことを代弁してくれた。

 そう、今中にいるのは――告白されているのは先日ソウに聞かされて付き合っていることが判明したあの女の子だった。男のほうは姿が見えなかったが、声を聞く限り同じクラスの物静かな彼ではない。もしそうならば声を聴いただけでなんとなくはわかるし、そもそもその声に聞き覚えがないなんてことはあり得ない。

 だから、今目の前で起きている状況を指す的確な言葉は、

「彼氏持ちに告白とか馬鹿だな」

 言葉自体はとても乱暴だったけれど、真琴の口にした言葉は妥当と言えた。

 そう、成功する確証どころか可能性もない告白。真琴ならそれを無意味だと感じることはわかっていた。

 それは、俺も同じ気持ちだった。

 間城の口にした、気持ちがあふれて言葉になる、という言葉を忘れているわけではないが、今目の前で起きていることに関しては別だ。

 何せ相手はもう好き合って付き合うようになった恋人がいるのだ。けじめと口にしているということは、彼自身それが実らないことを理解しているのだ。それを理解したうえで、なおもぶつかりに行こうとしているのだ。

 それが、どんなに辛いものか。

 すべてを理解できはしないけれど、前よりかはわかるようになっていたから。

 自分の頭に思い浮かべた空想ですら息苦しくなってしまうようなものだと、知っているから。

 それは、無駄とまではいわないけれど、とても苦しく、ひたすらに辛い道だと思った。

 だから、俺ならば、なんて過程は少々的外れかもしれないけれど、もしも俺ならば、そんなことはできないと思った。相手に心に決めた相手がいるのならそんなことはしないと、できないと思ったから。

 俺はその苦しい結末を予期しながら、それを見るまいと視線を下ろした。

 扉の中から、声はしない。扉越しなのに中にある時計の秒針の刻む音が聞こえてくる。

 その長い間に耐えられなかったのだろう、中からもう一度男の声がした。

『無理なのはわかってる。でも言っておきたかったんだ。ごめん』

 相手の女の子は、気まずい表情でも浮かべていたのだろうか。その声には先ほどまでのはっきりとした響きはなかった。

 それを言い終えると同時、中から教室の床をする音が聞こえた。俺はやばいと思って真琴を半羽交い絞めにした状態のまま立ち上がろうとする。けれど真琴がそれに合わせてくれることなんてあるはずもなく、俺は中腰の状態で固まった。

「真琴っ、隠れるよッ」

 小声で真琴に訴えるが、なんでそんなことしなきゃいけないんだと冷たいまなざしが返ってくる。

 まったく協力的ではない真琴の様子に焦りは増して、どうしようと目の前の教室の扉を見つめた。

 だんだんと、足音が近づいてくる。それがカウントダウンのようにも聞こえて息を呑む。

 喉を鳴らし、扉のわずかな隙間が人の陰で隠れたとき、ガタリと扉が震えた。

 手をかけたのだろう。もう今からどうすることもできない。顔もわかっていない男子生徒と目が合う。そう思った。

『ま、待って!』

 けれど、それを引き留める声が上がった。

 その声が聞こえたと同時、扉がもう一度怯えるように震え、俺と真琴の視線もその先へと向けられた。

 なんで、と思った。

 なぜ呼び止めるんだろうと。

 返事をしっかりしなかったことに罪悪感を感じたのだろうか、そう思った。けれど、その予想はものの見事に裏切られた。

『ちょっとだけ、時間をちょうだい』

 中から、そんな声が聞こえた。

 もちろんその声は女子生徒のもの。男のほうがそんなことを言うはずがないのだから。

 俺は目を見開いた。あまりに事態に、頭が追い付いてくれなかった。

 だってそうだ。彼女には恋人がいるんだ。答えなんてわかり切っている。それを先延ばしにする意味も理由もないはずだ。男の方だってけじめとして伝えたかっただけだと言っているんだ。付き合えるなんて思っていない。誰から見ても答えは明白で、ここでこんな風に迷ったような言葉を出すのは、ありえないことだ。

 俺は依然意味が分からず目を見開く。中の男子生徒もきっとそうだったのだろう。

 しばらくの間をおいて、彼は開きかけていた扉を閉めなおした。

 足音が、遠ざかっていく。自分を呼び止めた彼女のもとへ向かったのだろう。

 のぞき見していたことがばれずに済んだことを安堵するべき場面だ。胸をなでおろして詰まった息を吐き出せばいい。それなのに、俺はどうしてと思うことしかできなかった。

 固まったまま、もう隙間のない扉を見つめる。足音は遠ざかり、それは次第に聞こえなくなった。声も、聞こえてこない。

 隙間がなくなったせいもあって声が届きにくいのだろうか、それともただ単に言葉を発していないだけなのだろうか。

「……チッ」

 そう思った時、俺のすぐ目の前、自分の胸元のあたりから舌打ちが聞こえた。

 俺は驚いて抱え込んだ真琴のことを見つめる。けれど見えるのは底が見えないほどに濃い漆黒の髪の毛だけ。表情はうかがえなかった。

 ため息ばかりの悪友の、聞きなれない舌打ちに驚いて固まっていると、真琴が乱暴に俺の腕を振りほどいた。

 そしてそのまま、体を九十度回して目の前の教室から遠ざかっていく。

「えっ、真琴っ?」

 さっきまでさっさと入ろうと態度で示していたというのに、どんどん遠ざかっていく。

 俺も慌てて起き上がり、なるべく音を立てないようにと早足に真琴の後を追う。

 けれど、自分よりも身長の低い真琴の背中がとても遠い。いつもとは比べ物にならない速さで廊下を歩いていく。

「真琴待って!」

 教室からある程度離れたので俺は大声を上げた。しかし真琴は止まらない。いらだちをあらわにしながら廊下を突き進んでいく。

 なんでそんなに苛立っているのか。原稿用紙が取れなかったこと、USBが取れなかったことに対して?

 いや、それは絶対に違う。わかっている。真琴が苛立っている理由は。

 あの女子が、呼び止めたからだ。

 それで真琴はこんなにも苛立っている。それは、火を見るより明らかだ。

 けれど、わからない。何でそのことで真琴がこんなに苛立つのかが。

 だって真琴は、関わりを持たない相手に対しては無関心を決め込むような人間なんだ。言葉すら交わそうとしないようなそんな人なんだ。そんな真琴がただクラスが同じというだけの相手を気にかけていることなんてあるはずがない。ましてやこんな風に、怒りをあらわにしたりしない。後輩たちが部活にやってきた当初だって、真琴は我関せずを貫き通していたのだから。

 けれど、そうしなかった。…………いやそうじゃない。

――そうできなかったんだ。

 無関心を決め込むことのできない理由が、あったんだ。女性嫌いで、色恋沙汰が嫌いで、それを無意味なものだと吐き捨てるような真琴が無視できない理由が。

「……っざけんな」

 そう結論付けたところで、真琴がまるで同調するかのように舌打ちをした。

 仕方ないと、興味ないと、諦めたようにため息を吐くのではなく。明確な敵意と憎悪をもって吐き捨てた。

 そんな真琴がようやく立ち止まったのは、校舎の端にある階段の踊り場だった。

 階段を通り越し、道がなくなったところで止まった真琴は、振り返らない。

「真琴、どうし――」

 なぜそんなに苛立っているのか、尋ねようとしたときに思い出した。

 いつか真琴に質問してはぐらかされたことを。

 取材と称して後輩二人には訊ねたそれは、ソウと真琴にも尋ねたことがあった。

 その中、文芸部の中全員の同じような質問をした。けれど、真琴からだけは、ちゃんとした答えが返ってはこなかった。

 だから、俺は疑問に思うと同時、確信に近いものを得ながら真琴に尋ねる。

「真琴が、女性嫌いなのって、理由があったの……?」

 言った瞬間。真琴が振り返る。それは、憎悪と表現していい表情だった。

 それ向けている先は俺でないとわかっている。けれど、今までにないくらい感情的な真琴を見てすくんでしまう。

 それは、頷きにも等しいものだとわかってしまったから。

 真琴も、それをわざわざはぐらかそうとは思わなかったのだろう。俺をまっすぐに見ながら、吐き捨てるように言う。

「関係ないだろ」

 後ろめたそうに、視線を逸らす。そんな真琴を見て、俺は口にすべき言葉を失ってしまって黙り込む。すると真琴はすねたように言った。

「それとも、取材でもするか?」

 すねたように吐き捨てながら、俺を試すかのように目で問うてくる。

「それ、は……」

 俺はそんな真琴に、どう答えていいかわからずに口ごもった。

 取材のつもりではない。ただいつもの様に興味本位で尋ねただけだ。もしかしてと思ったから聞いてしまっただけだ。無理に聞きたいわけじゃない。

 親しい間柄でも隠し事や口にできないことはある。俺であればあの時の後悔。ソウだったら、文芸賞に応募していたこと。

 言えないことも、言わなくていいと思っていることもあって当然だ。それをすべて聞き出そうとは思っていない。

 けれど、思ってしまった。

 真琴が隠している出来事は。今の彼を作り上げた理由なのだと。

 やすやすと、聞くことはできないけれど。気にはなってしまう。

 だから俺は何も言えずに、視線を足元に落とす。

 そうしたとき、一時のチャイムが鳴った。

 真琴はため息を吐くと来た道を引き返す。USBを取りに行くのだろう。チャイムが鳴った今、止める理由もない。

 俺の横を通って再び教室へと向かった悪友に振り返ってみる。

 真琴は学ランのポケットに両手を突っ込んでいる。それも見慣れない光景で、それがまるで、手元どころかその中にある何かを隠しているようにも見えてしまう。

 俺は一度足元に視線を落とした。真琴の影は見えない。けれど肩を揺らしながら歩く真琴に重なって少し昔の、まだ俺にすら敵意を向けていたころの真琴が見えた気がした。

「行くぞ」

「あっ、うん」

 真琴の足元を見つめていた俺は慌ててその背中を追いかけた。

 憎悪をしまい込んだ、その背中を。



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