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Primula  作者: 澄葉 照安登
第六章 思いを言葉に
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思いを言葉に 8

「私は、そんな片思いばかりしてました」

 駅へ向かう道すがら彼女はそう口にして話を終えた。幼いころの自分の恋を、思いを、経験を。彼女はゆっくりとしたテンポで話してくれた。

「はぁぁぁぁッ……」

 そんな彼女の話を聞き終えて俺は最初に発したのは、感嘆に漏れた声だった。

 息をすべて吐き切った俺は自転車をカラカラと鳴らしながらはちみつ色の空を見上げる。

「胸がいっぱい……」

 胸元に手をやりながら呟いた俺を見て、女はなんとも言えない表情であははと笑った。

 俺は少し恥ずかしくなってはにかみながら返す。

「永沢さんは、いろんな恋をしてたんだね」

「あ、そんないろんなというようなことじゃ……」

 彼女は両手を振りながら否定したけれど、そんなことはないと思った。

「俺に比べれば経験豊富だよ」

 俺比べれば彼女は間城同様恋が日常の中にある人として生きていた。

 彼女の小学生の初恋から今まで経験した恋の話を聞いてそのことを理解したから、自分よりも年下の、けれど先輩ともいえる彼女のことを見ながら俺は自嘲気味に言った。

 それを聞いた彼女はあっと思い出したように声を上げた。

「先輩は、恋をした事がないんでしたね」

「あ、そう、だね」

 素直に頷くことが出来ずに、俺は曖昧に返事をした。

 確かに、俺には恋愛経験と呼べるようなものは今まで一つたりともない。恋人は愚か好きな人だっていなかった。

 けれど、それは少し前までの話。彼女にそんなことを語った、夏のころの話だ。

 今はもう、その時とは色々な事が異なっている。

 俺の気持ちも、彼女との距離感も。

 しかし、それを本人の前で口にすることはできない。そんなことを口にしてしまえばそれこそ告白。間城がいつかしたのと同じことになってしまう。

 だから俺はごまかすように彼女に笑顔を向ける。彼女はそれを自嘲と取ったのか、ふっと笑うと、なぜか少しだけ寂しそうな顔をして言った。

「先輩なら、すぐにいい相手が現れると思います」

「そうだと、いいんだけどね。あはは」

 その相手は目の前にいる、なんて言うことができすに、笑って誤魔化した。

 すると彼女は同調するように笑顔を作ると、おもむろに切り出した。

「美香には、こういうこと聞いたんですか?」

「え、ああうん。少し前にね」

 こういうこと、というのが恋愛経験の話をしているんだと勝手に解釈して頷く。すると彼女は笑顔を浮かべた。

「美香は、なんて言ってました?」

 そう口にした彼女は、視線をそらしてしまった。まるで見たくないものでもあるかのように。

「えっと、恋はまぶしいもの、って言ってたかな?」

「え? まぶしいもの……」

 しかし俺がそう言うと彼女は何の話と言いたげに目を丸くした。

 俺はその時の状況を知らない彼女に付け足して説明する。

「えっと、恋って何だと思うって質問をしたらそう言われたんだ」

 永沢さんと立花さんでは質問した内容が若干異なるから、同じ質問をしたものだと思っていればそんな反応になるのも当然だろう。

 たははと笑いながら言うと、彼女はなるほどと言いたげにあっと声を上げた。

 そしてそのまま少し不安そうに俺を見上げる。

「えっと、好きな人がいるかっていうのは、聞かなかったんですか……?」

「え? うん。聞かなかったけど?」

 そう口にすると、彼女はほっと安堵のような息を吐いた。けれどその直後、彼女はまるで悔やむかのように苦い顔をしてしまう。

「永沢さん?」

 俺はその表情の意味が分からず、不安に駆られて彼女の名を呼んだ。

 すると彼女ははっと思い出したように顔を上げると自嘲気味な笑顔を浮かべた。

「あ、私にだけ、そういうのを聞いたんだなって、思いまして……」

「あっごめん! やっぱり嫌だった!? 本当にごめんね!」

 慌てて言うと、彼女も慌てて手を振った。

「あ、そういうことじゃなくてですねっ。えっと……あ、はは……。気にしないでください」

 どういうことかと思って言葉を待つと、彼女は言いにくそうに口ごもると、誤魔化すように笑顔を浮かべてそう口にした。

 何かあるのだろうなというのはわかったけれど、彼女はそれを話してくれるつもりはないらしい。もう一度問い返すこともできるが、それをしてもあいまいな笑顔しか返ってこない気がして俺は「そっか」とだけ返した。

 そんな俺を見た彼女は気を遣ったのか、少しだけぎこちなく笑うと小首を傾げた。

「なら私も、そういう感じで答えたほうがよかったですか?」

「いやいや、別にそんなことはないんだけど……」

 苦笑いを浮かべた彼女に焦り気味で言う。けれど、そういうことを聞いてみたいという欲がないわけではなかった。

 小説を書く分にはいろいろな人の意見があったほうがいいだろうと、そんな風に自分に言い聞かせようとしたけれど、俺はただ純粋に彼女の考えを訊いてみたかっただけだった。

 俺はあーっとうめき声をあげながら彼女に尋ねる。

「そういうのも、聞かせてもらって大丈夫?」

 尋ねていいのかを尋ねるなんて、なんてまどろっこしいことをしているのだろうと思いながら苦笑いを浮かべる。

 けれど彼女は何食わぬ顔で「構いませんけど」と小さく呟いた。

「えっと、恋がどんなものだと思うか、ですよね」

 彼女はそう確認を取るとうーんと考え込んだ。

 よほど頭を使っているのだろう。わずかだが歩調も落ちて、駅にたどり着くまでの時間が延びる。

 俺はそれをいいことに無言で彼女の答えを待つ。それでもよほど悩んでいるのか、彼女は顎に手をやる。

 その状態のまま彼女は少しの間悩み続けると、一度俺のほうをちらりと見てからまた視線を逸らして言った。

「近くにあっても手を伸ばせないもの、みたいな感じですか……?」

 そう口にした彼女から、息苦しさのようなものを感じた。

 答えがうまく出せていないからなのか、それともその答えを認めたくないからなのか、自嘲気味に、自信なさげに、悔やむように笑顔を浮かべた。

「あ、えっと、そんな感じかな」

 俺は虚を突かれて、あいまいに同調して笑顔を浮かべる。すると彼女は「よかったです」と口にした。

 それが余計に物悲しさを増長させて、声をかけていいものかとためらってしまう。

 けれど、ここで何の言葉もかけずにいることはできずに、俺は首を傾げながら彼女に問う。

「えっと、どういう意味か、教えてもらってもいい?」

 どういう意味も何も、言葉のままの意味だろうとは思ったけれどあえて尋ねた。

 その結論に至った理由が、彼女なりの答えが気になった。

 俺がそう尋ねると彼女は息を呑んだ後、戸惑いがちに笑った。

「私、今までアプローチとか、そういうの一切してこなくて。できなくて。だから、そういう感じかなって、思ったんです」

 それを聞いて、ああ、なるほどと思う。

 つい先ほど彼女に聞かされた恋愛経験は、すべて片思い。小学生の時に話しかけてくれた相手や、中学の時には人気のある男の子に恋をしたと。そう語ってくれた彼女の恋愛は、いつだって一方通行で、それでいてその気持ちを相手に伝えてはいなかった。

 その人に気付いてもらえるだけの行動はせず、思いを伝えるだけの言葉は口にせず。ただ好きだという意識が自分の中にあるだけで、それ以上のことは何もしていなかった。

 だから、彼女らしい結論だと思った。

 内気で物静かな彼女だから、そんな結論にたどり着くのだろうと思った。

「ちょっとだけ、切ないね」

 俺がそう口にすると、彼女はどうだろうと問いかけるように苦笑いを浮かべた。どこか諦めてしまっているようにも見えるその笑顔は、何もできない、できなかった自分へ向けられているのだろう。

 それになんと返せばいいかわからず言葉を無くして道の先を見れば、駅は目と鼻の先だった。

 彼女もそれに気づいて、顔を上げると俺に尋ねた。

「えっと、私の話、役に立ちそうですか……?」

 協力すると言った手前不安だったのだろう。前髪の隙間から俺を見上げてくる。

 俺はそれに笑顔を返した。

「うん、ありがとう。多分書けると思う」

 何か浮かんでいたわけではないけれど、俺はそう答えた。

「よかったです……」

 彼女は一安心とばかりに息を吐きながら言う。そうしたころには、俺の自転車を引く音よりも喧騒のほうが大きくなっていた。

 駅の構内へと続く階段の前で足を止める。先に足を止めたのは永沢さんのほうだった。

「先輩、その送っていただいてありがとうございます」

 ただ付いてきただけなのに、彼女は深々と頭を下げた。

 俺は少し戸惑いながら気にしないでと言うと小さく手を上げた。

「じゃあ、また部活で。ありがとね」

「……はい、部活で」

 そう別れの挨拶を済ませると、彼女はもう一度頭を下げてから駅へと向かった。

 黒髪を揺らしながら階段を上った彼女を見送ると、俺は自転車と共に半回転する。そして息を一つ吐いてから帰路に付く。けれど俺はもう一度振り返って、駅構内に消えて言った彼女の姿を探した。

 そうした時、少しだけ変わった彼女との関係を思い出しながらふと思った。

 彼女とは、もしかしたら出会えなかったのかもしれない、と。

 彼女が文芸部にやってこなければ出会うことはなかったし、こんな風に一緒に帰ることもなかった。

 ソウや真琴と共に文芸部を作っていなかったら、彼女が文芸部に訪れることはなかった。

 そして彼女と出会っていなかったら、俺は未だに恋を知らなかっただろう。

 いくつもの偶然が重なりあって、今がある。それは必然とも呼べるものかもしれないけれど、当人からすればすべて偶然。必然とも、運命とも呼べないそれは、偶然としか言えないから。だから運命と呼ぶのは何か違う気がした。

 そんなことを考えながら改めて帰路に付こうと駅に背中を向けたとき、自分鞄の原稿用紙と共に、それに向かい合うようになった時のことを思い出した。

 みんなで騒ぎながら、真琴に借りた本を捲っていた時のことを。

 偶然ではない。けれど、もしほかの言い方をするならそれがぴたりとあてはまると思った。

 俺はつい先ほど駅のホームへ向かった女の子を思い浮かべて気持ち悪く口角を歪ませる。

 確かに、「運命を開く」は彼女にぴったりだ。

 そう思いながら自転車にも乗らず足を動かし始めた俺は空を仰いだ。

 はちみつ色の空は、わずかにその色を暗くしていたけれど、そんな空を見上げながら晴れ晴れとした気持ちで思った。

 今なら、書ける気がすると。


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