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Primula  作者: 澄葉 照安登
第六章 思いを言葉に
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思いを言葉に 3

 家に帰宅して暫し。

 メッシュ生地の長ズボンに長袖パーカー。内側には半袖のTシャツと季節の変わり目で気候に左右されてもいい部屋着に着替えて自室に戻ると、枕元にあるデジタルの目覚まし時計が目に入った。

 時刻は午後八時四十分過ぎ。風呂から上がって寝る準備も一通り済ませたにしてはいささか早い時間だった。

 それもそのはず。今日は休日、日曜日だ。

 だからこそソウの家でダラダラと勉強会なんて言うものに身を投じたわけだし、悠長に恋バナで盛り上がっていたわけだ。

 テスト自体は水曜日から始まってしまうというのに何をのんびりとしているのかと思わなくもないが、学生の勉強会なんてこんなものだ。いつもと変わらないテスト期間の一幕に無駄な疲れを感じてふうと息を吐いて後ろ手にドアを閉めた。

 もう何年も前から使っているキャスター付きの椅子に腰かけて、これまた長年の付き合いの学習机に向かいあう。見れば机の表面はところどころ削れたりへこんだりしていて幼少期の自分は乱暴な扱いをしていたんだと思い知らされる。

 そんな長年の友を撫でながら俺はすぐ横に置いてあった学校指定の鞄から現国の教科書とノートを取り出した。

 筆箱は今日ソウの家に持って行ったときにほかの鞄に入れていたので机の奥のペンケースに立てかけてあったさしてつかわれた痕跡のない鉛筆を握る。

 さて勉強しないとな、と体を伸ばして重ねて持っていた教科書とノートを広げようと机の上に置くと、ノートと教科書の間から数枚の紙が顔をのぞかせた。なんだろうと思いながら見てみると、それはタイトルだけ書き加えられたあの原稿用紙だった。

「はぁ……」

 嫌なタイミングで見てしまったなと思いながらそれを抜き取ると、頭の片隅の押しやる様に鞄の中に戻す。

 今書こうとしたところで何も書ける気はしない。それより今は勉強が優先だ。いい点数を取ろうとまでは思わないが、せめて平均以上は取らないとまずい。今後に影響してしまう。そう思いながらノートを広げ、端のほうに書いてあったテスト範囲を見てそれに沿った教科書のページを開く。

 一応、それほど集中はできなかったけれど今日半日ほどは数学の勉強をしていたので今は現国だ。ほかにも古典やら何やらがあったりはするが、とりあえずは範囲の広めな教科から勉強していくことにする。

 我ながら少し自分は真面目かもなんて思いながら教科書を読み進め、ノートを記していく。

 テスト勉強と言えば、大抵はテスト勉強しようなんて口にしてファミレスで遊んでいるか、勉強なんてしないよなんて言いながらまじめに勉強しているかの大体二パターンではないだろうか。勉強しないと言って本当にしてこない人もいるにはいるが、それはあくまで少数だと信じている。勉強していないアピールは自分が努力に見合う成果を得られなかった時の保険のようなものだから。

 勉強していなければいい点が取れないのも当然のこと。だから必死で勉強してはいても勉強していないなんて口々に言って見せるのだ。自分は今回本気で勉強しなかったから、やればできるだけだからと自分に言い訳しているんだと思う。

 俺だってそういう経験がないわけじゃない。中学生のころなんかは必死で勉強しても八割以上の点数が取れないことを理解して、毎回のようにその言い訳を口にしていた。自分の頭の悪さを直視しないように、逃げていた。

 けれどさすがに高校生にもなると多少は現実が見えてくるようにもなる。いくら勉強しても成果に現れないから勉強しなくていい、ではなく。やらなくてはいけないにすり替わる。

 純粋に努力すればいつか報われるではなく、やらなければいけないからなんて脅し文句を自分に言い聞かせていることに苦笑いの一つでも浮かびそうになるが、それは紛れもない事実だから仕方のないことだ。

 やらなきゃ平均の輪からはじかれてしまうから。出る杭もは打たれ、沈んだ杭は埋められる。

 だからやりたいと思っているわけではないのに、半ば条件反射に勉強をしている体を装うのだ。

 そうやって形だけ整える。あまり身にならないとはわかっていても、やらないよりはましだということもわかっているから。

 なんとも後ろ向きだけれどそういうものなんだろうと思って少し苦笑いが零れた。

 そうやって一時間二時間と身になっている実感のわかない勉強に精を出し、体が固まってきたところで一つ伸びをした。

 そうすると、かろうじて保っていた集中力が霧散していくのを感じて、息を一つ吐いてから今日はここまでだなと思ってノートを閉じる。

 明日の時間割は何だったかなと思いながら主要教科以外のノートや教科書は学校においてあるので結局は数時間前に取り出した原告の勉強道具を学校指定の鞄にしまうだけだ。

 学習机のペン立てに先の丸くなった数本の鉛筆を入れてノートを片手でつかんで空いているほうの手で鞄の口を大きく開ける。

「…………」

 すると、そこには白紙の原稿用紙が見えた。

 俺は手の持っていた教科書を突っ込んで、代わりにその原稿用紙を取り出した。

 ファイルに入っていたわけではないので紙の端がよれてしまっている。

 俺はそれを学習机に広げてなんとなく眺めてみた。

 テスト勉強と違って、これをすればいいという明確な道筋はない。ただ完成というゴールがあるだけで、どんな手段でゴールに向かうか、どうそこまで進んでいけばいいかは記されていない白紙の原稿用紙。

 どう手を付けたらいいのかもわからないそれを眺めながら俺はふっと息を吐いた。

 結局俺は、どんな物語を書くのだろう。やっぱり恋愛なのだろうか。それとも異能バトルもの、はたまたSFだろうか。

 誰かが書いてくれるわけでもないのにそんな風に思いを馳せてみる。誰かに向けたわけでもないそれは、結局自分に跳ね返ってきて苦笑いに変わった。

 勉強と違って答えのないそれは、ある人からすれば息をするように当たり前で簡単なことなのかもしれない。けれど、それに今まで足を踏み入れなかった人からしたら、それは何よりも難しいことに他ならない。

 好きな恋愛ものを夢想しても、文章になってはくれなかった。

 だって初恋すらままならなかったのだから。いくら恋愛ものが書きたいと言ってもそれらしい気持ちを文章に書くことなどできない。妄想だけで書くなんてことが出来るほど器用でもないし、文章を書くことに慣れていないのだから書くこと自体危うい。

 そんな状態だったから、今に今まで一文字も書くことが出来なかった。

 それは、今も同じだった。

 自身の気持ちを自覚して、その気持ちをどう呼ぶかを定義づけた今でもやっぱり物語は書けない。

 今はまだ、気持ちを自覚しただけで、どうなりたいという先の願望が見えないから。妄想だけを頼りに書くにはあまりに俺の中にあるものは不足していた。

 やっぱり一番は、経験の無さなのだと思う。文章を書くことに関しても、物語を夢想することに関しても、作りたいものを見つけることも、手に付けることに関しても。そのすべてにおいて経験が足りていない。

 勉強の様にほかから吸収してこなかったから、基盤となるものすら俺の中にはなかった。

 今まで一歩を踏み出してこなかったから。何もできないままでいる。

「はぁ……」

 こういう時、自分の中にあるものが不足しているとき、ソウたちはどうしているのだろう。今まで南下雲物語をかき上げてきたソウは、そういうときどうしていただろう。そう考えて、ふと夏休みのことを思い出した。

「取材、か……」

 夏休みの時に行った、江之島までの遠征。ソウはあれを取材と呼んでいた。

 あの時はただの遊びの口実に過ぎないと思っていたけれど、思い返してみればソウは取材という言葉を昔からよく使っていた。

 たぶんそれは今の俺同様、自分の中に何かが足りないと感じたからしたことだ。物語を書くためにソウが必要な何かを求めて行ったことだ。

 なら、俺もそれを真似てみるのもありかもしれない。

 どうせ今のまま一人で悩んでも書けないのはわかっているし、もしも糸口になるものが見つかるなら試してみて悪いことはないだろう。そう思って俺は机の表面に爪を這わせて原稿用紙をさらいあげた。

「んー」

 唸りながら浮かせた原稿用紙を睨む。当然考えているのは文章や構成のことじゃない。誰に取材するかということだ。

 物語としては恋愛を想定しているのでそう言った話のできる人を思い浮かべる。

 まず浮かんだのは間城。間城に関しては数少ない俺の関わった恋愛ごとの話がある。だから話題に地雷が埋まっている確率は一番低い。もし俺の知らない何かがあっても、何も知らないわけではないからまだ構えていられる。

 けれど、間城にもう一度それを聞くのは俺の気持ち的にハードルが高かった。なにせ俺が直接が関わってしまったわけだから、それを俺自身がもう一度掘り起こすのは気が引けてしまう。それに加えて、間城のその話に関してはかなり深いところまで俺は聞かされたように思う。もう一度聞いてもあの時と同じ話だけで新しい何かを得られないような気もしたのだ。

 だから俺は一応候補としては上げてはみたけれど第一候補とは呼べずに保留とした。

 次の浮かんだのは真琴。これに関してはいい意味ではなく悪い意味で。

 真琴にそう言った取材。こと恋愛に関する話を尋ねたところでいい返事が返ってこないのはわかっている。それどころか不機嫌にさせてしまう可能性すらある。直接口にすることは無いけれど、態度だけ見ても真琴がそういうのを嫌っているのは明白だ。真琴に取材するのはおそらく無理だろう。

 そして同じように浮かんだのはソウ。ソウに関してはつい最近「恋って何?」としつこいくらいに聞いてしまったし、良い答えが返ってくる気がしない。答えてくれたとしてもおふざけ半分な答えしか返ってこない気がした。顔だけよければいいとか。

 となると、浮かぶのは後輩二人。どちらにそう言ったことを尋ねるべきか、尋ねていいかを考えて俺は首を捻った。

「異性の先輩にそういうの聞かれるってどうなんだろう」

 彼女たちとはまだ出会って一年にも満たない間柄だ。間城のように深い話をしあった仲というわけでもないし特別親しいとまではいえない気がする。部内に限っていえば二人とも俺よりもソウと話している時間のほうが圧倒的に長いだろうし。

 どうしたものかと考えながら腕を組んで二人との出来事を思い返す。

 立花さんとは比較的軽い感じで話せる気がする。何せ俺の妄想の話に同じテンションで乗ってきてくれるような相手だ。それに関しては大丈夫だと思う。彼女自身のことを聞いていいかはいまいちわからないけれど。

 永沢さんは。正直聞いていいのかわからない。後輩二人との仲をもし比べるのならば、きっと深い話をできるのは永沢さんだ。彼女とはいろいろなことがあったから多少抵抗は少ないだろう。だからもし真剣な話を求めるならば彼女に聞くのが一番だとは思う。

 しかし、何と言うか、聞くのがはばかられる。

 まがいなりにも俺は自分の気持ちを自覚したわけだし、もし彼女に恋愛経験を尋ねて今誰かに恋していることを知ってしまったらと考えるとそのダメージ計り知れない。というか想像しただけで胸の内側が圧迫されるような感覚に襲われた。

「んぉー」

 息苦しさで妙なうめき声をあげなら彼女に尋ねることの恐ろしさを理解してしまった。

 こうなったらもう立花さんと間城に尋ねるほかない。男子二人はいい答えが返ってこないだろうし永沢さんは俺の心的に無理だ。

 自分の心臓の脆さにため息を吐いて、息苦しさを落ち着けるために数度深呼吸をした。

 とりあえず、俺が自主的にする初めての出来事だ。何事も慎重にしなくてはいけない。地雷踏み抜いたらパニックになるだろう自分を想像して今から自分を落ち着ける練習をする。

 少し呼吸が落ち着いてから手に持っていた原稿用紙を再び鞄にしまい込んだ。

 二人とは決めてはみたけれど、話を聞くならば多い方がいいはずだ。機会があって聞けそうなタイミングに恵まれたのならば他の人にも聞いてみようと未練がましく思いながら俺は彼女の姿を思い浮かべた。

「うぉう、嫌な想像止めて俺」

 彼女にほかに好きな人がいたら、なんて想像に心痛めながら俺は椅子に座ったまま胸元を握りしめた倒れ込んだ。

 こんな気持ちも奇行も、初めてのことだった。


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