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Primula  作者: 澄葉 照安登
第五章 台風一過
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台風一過 12

「もともと春くらいから体調は良くなくて、ほとんど寝たきりだった。ご飯もあまり食べなかったし、散歩に行く気力もなかった」

 そこまで言って、俺は彼女の様子をうかがう。本当にしゃべっていいのかと、確認するように。けれど彼女は何も言わず、俺の言葉に耳を傾けている。

 俺はそれが相槌にも等しいものだと勝手に解釈して一つ息を吸い込んだ。

 小学校六年生のころ。だんだんと弱っていく、兄にも等しい愛犬を見ながら、俺は目を逸らしたい気持ちでいっぱいだった。見ていられない、子供心にそう思った。

「調子が悪くなってからは、毎日家に帰ってきてはリクに話しかけてた。毎日欠かさずに、頭をなでたりしてた。散歩に行けない代わりにね」

 決して、俺が散歩に連れて行く当番ではなかったけれど、それでも残された時間を惜しむように、春からずっと愛犬との時間を大切にしていた。

「でも、その日だけはそれをしなかった。夏休みが始まるからって浮かれてて、その時仲良かった友達と遊びに行ったんだ」

 言って、胸の奥で何かが自身を苛んだ。ずっと隅の方へと押しやっていたそれが、いまだに消化しきれていない感情が、顔をのぞかせた。

「それで、帰ってきたときには、遅かったんだ。最後の最後で大丈夫だなんて油断して、一日くらい平気だなんて勘違いしてさ。一番大事な時に全然違うことやってた」

 今まで口にできなかった。誰も聞かなかったから。聞いてくれなかったから。自分の中に押し込めるしかなかった。もう三年以上経つのに、あの時の後悔はずっと胸の中にわだかまり続けている。

 ふっと息を吐けば、同じタイミングで衣擦れのような音が聞こえた。不思議に思って音のしたほうを見やれば、彼女の肩がひどく強張っているのが見えた。つむじが見えるほど首を垂れ、見えはしないがきっと膝に置かれた手は爪が食い込むほどに握りしめられている、そんな気がした。

 その様子に俺は少し戸惑いながらも、制止を口にしない彼女を言い訳に今まで俺の中で化膿し続けてきた想いと出来事を口にする。

「だから、さ。その時以来、俺はあんまり大勢に人とかかわりを持たなくなったんだ。いろんな人と仲良くするのは好きだった。楽しかった。けど、そのせいで大切にしてたものを、取りこぼしちゃったから……」

 今年の夏前、クラスメイトに遊びに誘われたりもした。確かその日は永沢さんの歓迎会があるという名目で断ったとは思うのだが、もしもその予定が入っていなくても、俺は断っていたような気がする。自分の手でつかみとどめておける物はとても少ないことを知ったから。絶対に手放したくないものだけを掴んでおこうと、不器用にふるいにかけた。

「だから、泣けなかったな。悲しくないとかそういうことじゃなくて、そこで泣く資格なんてないなって思った。大切なものほったらかしで遊んでた自分にそんなことする資格なんてないって、そう思ったから」

 泣いたら、それこそ悲劇のヒロインを演じているだけに思えて。泣けるだけの何かがあったわけでもないのに涙を流すことは自分勝手だなんて思って、そのことで涙を流すことは今日まで一度もなかった。

「その時は、すごい辛かったと思う。生まれた時からずっと一緒に居たからっていうのもあると思うけどね」

 俺はいつかの間城の様に憶測を立てるような言い方をした。過去の自分のことだから、その時の気持ちはその時に置いてきたと、言い訳するように。

「けれど、辛かった理由は、悲しいからだけじゃなかった」

 けれどその言い訳は、いともたやすく瓦解する。消化しきれていない気持ちは、今なお化膿し続けて心のふちの残っているから。

 そう、泣かなかった理由、泣けなかった理由はそんなものじゃなかった。泣くまいとした理由は、悲しさを紛らわすためじゃなかった。その理由は、

「悔しかった。最後の最後で間に合わなかったことが。すごく、悔しかった」

 そう言って曇天の彼方を見つめた俺の瞳は、虚ろにも見えただろう。まるで、悔しさ以上の虚しさがあったようにも、見えたに違いない。事実、俺を覗うように見ていた彼女は、ひどく悲しい顔で俺のことを見ていた。

 それと同時に、彼女の前髪が揺れた。やっぱり、気を遣わせてしまった。そう思った。けれど、彼女の様子を見てそれは違うと思い至る。彼女の様子は、同情を通り越して、それこそ同じ気持ちを共有しているような気がしたから。

「永沢さん……」

 だから、俺は彼女の名を呼んだ。体を強張らせ、顔を俯けていた彼女を。

 彼女は恐る恐る顔を上げると、不安げに俺のことを見つめた。涙こそ流れていないものの、不安に歪んだ彼女の顔をただ見ているだけなんてとてもできずに、俺は彼女に問いかける。

「だいじょう…………」

 言いかけて、言葉が途切れる。大丈夫かどうかなんて、見ればわかる。何もない人がそんな顔をするはずがないのだから。だから俺は一度息を吸い込んでから、なるべく彼女に気持ちが届くように、声を落として、それでも彼女をまっすぐに見て、吐息を混ぜながら口にした。

「何か、あったの?」

「……ぅ……ッ」

 言った瞬間、彼女の瞳が揺れた。不安げにひそめられた眉がその形をさらに歪ませ、引きむすばれた口元から嗚咽が漏れる。そして数瞬の間をおいて彼女の頬に雫が流れた。

「……んで…………そんな優しい声出すんですか……っ」

「え、あいや……」

 いきなり言われて、俺は狼狽えるしかできない。けれど、彼女の瞳からは大粒の涙が流れている。それに気づいた彼女は隠すように腕で顔を覆った。

「ぅ…………ぅあ……。っうぅ……」

「え、あああっと」

 うろたえながら、どうしたものかと手を動かしながら視線もあちこちへと向ける。

 けれど、助けを求めようにもいってしまえば今この学校は陸の孤島。ほかに誰かがいるわけでもないし、いたとしてもしゃくりをあげる彼女を置いてこの場を離れるなんてできるはずもない。

 どうしたものかと思いながら、ズボンのポケットを漁り、ワイシャツの胸ポケットをまさぐり、椅子の背もたれにかけてあった学ランのポケットに手を突っ込んだ。

 すると、その手が何かに触れた。

「あっ」

 その感触の正体に思い至り、ゆっくりと学ランのポケットからそれを取り出す。

 それは、まだ使ってもいない沖縄で買ったハンカチだった。

「永沢さん、これ……」

 そう言いながら手に持ったハンカチを彼女に差し出すと、腕の隙間からハンカチを見た彼女が息を呑んだ。けれど、そのまま涙が止まってくれることなどあるはずもなく、彼女は泣き顔を見られまいとひたすら腕で顔を隠し続ける。

「永沢さん、これつかっ――」

「せん、ぱいぃ……ッ」

 彼女のすぐ目の前にハンカチを突き出そうとすると、しゃがれた声が俺を呼び止める。

 その声に驚きながら腕で隠れた彼女の顔を見ると、腕の隙間から涙にぬれた頬が見えた。

「私っ。わたし、も、悔しくて……ッ。わかってた、のに、それなのに…………っぅ」

「え……え?」

 嗚咽交じりに、叫ぶ様に。いつも物静かな彼女が心の内を吐露する。俺は、見慣れない彼女の様子に戸惑いながらもその声に耳を傾けるしかできない。

「ルルが、そうだって、わかってたのに……ッ、私……私ッ」

「え? ……………………え!?」

 言われて、驚き疑問しか浮かばなかった。けれど主語を交えない彼女の言葉を理解しようと頭を働かせれば、そうだということが嫌にでも伝わってくる。

「一日くらい、って、そう思って、私……わ、たしぃ……」

「…………」

 俺は、何も言えずに黙ってしまう。永沢さんが何か言葉を求めているわけじゃないとわかってはいる。けれど、何かを口にしなくてはという気持ちと、何も口にしてはいけないという気持ちが折り重なって何一つ行動起こすことが出来ない。

 けれど、頭は動いていた。もしかしたら、あの鍵の貸し出し履歴は、そういうことなのではないかと。そして、ここ最近の彼女のあの笑顔は、そういうことだったのではないかと。

 彼女に差し出したハンカチもそのまま、まるで時間が止まったように彼女を見つめて硬直する。

「先輩……せんぱい……ッ。ぅ…………ッぅ……」

「え、あ、な、永沢さん?」

 泣きじゃくり、嗚咽が言葉を押しとどめてしまう。そんな彼女を見て俺はただただ狼狽えるばかり。気付けば彼女の腕の隙間から流れ落ちた涙のせいで、雨の中を歩いたかのようにワイシャツが濡れていた。

「永沢さん、とりあえずこれ、使ってッ」

 ハンカチでは、顔全体を覆い隠すことはできないかもしれないが、このまま涙で服を濡らすわけにはいかないと強めに言って彼女に差し出す。すると彼女は嗚咽で喉をしゃくらせながら片手を伸ばして、ハンカチではなく俺の手を掴む。

「え、ちょ、永沢さん!?」

 続けてもう片方の手も俺の手へと伸ばし、両手で包み込むように俺の手を握りしめる。

「ほら、ハンカチ使ってっ」

 慌てて言うが、彼女は嗚咽を漏らすだけで言葉を返してはくれない。けれど、泣き顔を見られるのは嫌なのか顔を隠すように顔を俯けた。

「ながさ……」

 再度彼女にハンカチを促そうとしたとき、俺の手を握る彼女の両手に、ぎゅっと力が込められた。

 きっと、俺の言葉を遮るためにそうしたわけではないだろうが、俺の言葉はそこで途切れてしまう。そして代わりに彼女の嗚咽が聞こえてくる。

 未だ外は土砂降りだというのに、彼女の涙にぬれた嗚咽がクリアに聞こえる。普段は感情を表に出すことの少ない彼女の涙交じりの声は、皮肉なことにとても綺麗に聞こえる。

 それでも、いつまでも聞いているわけにもいかず、かといってハンカチを受け取ってもらえないので、俺は息を一つ吐いてから彼女に問いかけた。

「ちゃんと、お別れはできた?」

 俺が問うと、彼女は髪の毛を振り乱しながら首を横に振った。

 小さな問いにも必死に答えてくれる彼女を追い詰めまいと、なるべく静かなトーンで、優しい声音になる様に心がける。

「じゃあ、ちゃんとお別れした方がいいよ。……そうしないと、後悔しちゃうと思うから」

 それは他でもない、自分のことだった。

 資格がなんだと言い訳をして、しっかりと向き合ってこなかったから、俺はそのことを後悔し引きずり続けている。

 いつか間城が言っていた。どう後悔するかの選択ではない、どんな後悔をしたくないかの選択だと。

 確かに、その通りだ。もう、時間は戻ったりはしない。起きてしまったことは決して変わりはしない。だから、ここからは、同じ後悔をしないために動かなくてはいけないんだ。

 彼女が俺の様に、後悔を化膿させてしまわないように。自分と同じ失敗をしないように。

 人が手の中にとどめておけるものなんてとてもちっぽけで、欲張れば何かが零れ落ちてしまうのは当たり前だ。人の掌は、とても小さいから。繋いで握りしめられる手は、たった二つしかないから。

 俺もそうだった。そうやっていろんなものを取りこぼしたから、根拠のない、それこそ幻想のような希望を夢想していたんだ。

 決して奪われない、運命の相手なんていうものを。

「永沢さん、大丈夫だよ」

 何が大丈夫なのかなんて、わかっていない。きっと何一つ大丈夫な高知尾なんてなかったんだと思う。けれど、その言葉が彼女を少しでも癒せたのならと思って口にした。

 もちろん、泣くな、なんて無理な要求を押し付けるべきではない。悲しく悔しいのなら、泣いてしまう方がいいに決まっている。我慢してもそれは結局後回しにするだけで、いつ固まった感情が吹きこぼれてしまうから。

 だから、泣けるなら泣いていいはずだ。それなのに俺は彼女の涙を見たくはなかった。

 目を逸らすことはできない。してはならない。だから、涙が止まってほしい。

 きっと、俺の見たかったものはそんなものじゃないから。

 取り繕うような笑顔でも、感情のままに泣き叫ぶ姿でもない。俺が見たいのは、そういうものじゃない。

「だから、永沢さん……」

 早く止まればいい。嗚咽を漏らす彼女は辛そうで、それがまだ出会って間もないころの彼女を彷彿とさせる。男性を遠ざけていた、文芸部になじむ前の彼女と重なる。

 俺たちだけでなく、周りの誰もを信用するのをためらっているようだった、あの時の姿が脳裏に浮かんだ。

 だからこそ、大丈夫だと、伝えたかった。あのころとは、違うということも仲間がいるということも含めて。

 誰にも気づかれないように、隠れるように早朝の部室にやってくる必要なんてないんだと。そういう意味も込めて。俺は彼女の手を、包むように握り返した。

「泣かないで?」

 最近幾度となく見た彼女の笑顔は、今も思い出せるのに。傲慢にも俺は思ってしまった。

 彼女の笑顔が見たい。

 だから俺は、必死に握り続ける彼女の手に、同じ力で返し続けた。

 雨音にかき消されながら嗚咽を漏らした彼女が泣き止むころには、雨の音は消え始めていた。


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