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Primula  作者: 澄葉 照安登
第五章 台風一過
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台風一過 11

 ソウとの電話を終えて暫し、スマホでちらりと時間を確認しては見たがまだ九時も回っていなかった。

 こうして時間を気にするのは、何度目だろう。そう思ってはみるものの、その数を数えてなどいなかった俺は、何度もと表現することしかできなかった。

 未だ寒々しい廊下で立ち尽くしている俺は、怪しげな動きで文芸部の部室をのぞき込んでいた。

 後ろ姿の彼女は、どうやら窓の外をじっと見つめているようだった。

 そう、変なところも変わったところもおかしいところも何もない。それなのに俺は隠れるようにドアの影からのぞき込むように中の様子をうかがっていた。

それもこれもすべてつい先ほどまでの自分の行いのせいだ。部室に入る直前で、俺がさっき彼女にした仕打ちを思い出して足が動かなくなってしまった。

「……はぁ…………」

 雨音に隠しながらため息を吐いて、どうしたらいいかわからない俺は部室に背を向けるように中庭のほうへと視線を投げた。当然、部室の扉ぎりぎりの場所に立っているので中庭など見えはしない。けれど、俺は逃げるように視線を斜め下へと向ける。

 さっきあんなやり取りをしたというのに、何もなかったかのように戻ってくることなんてできるはずもない。彼女の笑顔を不出来だと言ってしまった、気遣うように苦笑いを浮かべた彼女を置き去りに逃げ出してしまった。それなのに、何もなかったかのように入っていくなどできるはずもない。

 どうしたものかと思いながら、俺は苦しい時間を数えるようにスマホの時間を確認した。

 ここでまた誰かから連絡が入ってくるなんて都合のいいことは起きない。スマホの画面がブラックアウトするまでじっとそれを見続けると、今にもため息を吐き出しそうな男の顔が映った。

「……よしッ」

 これ以上このまま立ち往生しているわけにもいかない。彼女にひどい仕打ちをしてしまったと後悔し続けているのならば今すぐにでも謝りに戻るべきだ。自分をそう奮い立たせて叱咤の代わりに小さく息を吐いた。

 そして今まさに文芸部の部室へと振り返ろうとしたとき、

「あっ、先輩……」

「ふにゃい!?」

 真横からおずおずと、彼女が俺のことを呼んだ。

「あ、永沢さん!? えっと、ごめん、いやその、ごめんっ!」

「え、いや、はい。あ、すみません驚かせちゃいましたか?」

 俺が勢いよく謝罪の言葉ともわからない大声を上げると、扉からひょこりと顔を出した彼女は俺のことを気遣うような不安げな瞳を向けていた。

「あ、いや大丈夫だよ」

 驚いたとも、驚いていないとも答えずにそんな風に口にして俺はバクバクと破裂しそうなほどに脈動を繰り返す心臓を落ち着けるために小さく息を吐いた。

「えっと、さっきはいきなり出て行ってごめんね?」

「あ、大丈夫です。……何かとりに行ったんですか?」

「あー、いや、そんなところかな?」

 正直に、気まずくなって出て行ったと口にすることはできなくて、俺は曖昧に笑顔を浮かべた。

 すると彼女は、少し後ろめたそうに視線を逸らす。そのしぐさの意味するところが理解できなくて首を傾げる。そしてついでに疑問に思ったことを尋ねた。

「永沢さんはどうかしたの? どこか行こうとしてた?」

「いえ、その、人の気配がしたので……」

「あ、そうなんだ。ごめんね?」

 忍者のようなことを口にする彼女にわずかながらに申し訳なく思って、再び謝罪を口にすると彼女は「いえ」とだけ言って逃げるように部室の中へと戻っていく。

 彼女に見つかってしまった手前、今からどこかに逃げようという気も起きず。そもそも中に入る決意していたことを思い出して俺は一呼吸おいてから彼女の後を追うようにいつもの定位置に向かう。

 部室に入口から見て手前側には女子部員の席、そして奥側には俺たち男子部員の席となっているので、必然的に俺は先に定位置に戻った永沢さんの横を通り過ぎるように席へ向かう。

 一対一だからか妙な緊張感を感じて、いつも通りの歩き方すらわからなくなってしまって歩調が乱れる。俺はそれを誤魔化すように永沢さんのほうへとちらりと視線をやった。

 そこでふと、彼女の前の机に折り畳み式のケースから画面をのぞかせたスマホが目に入った。

 当然、それは永沢さんの持ち物だろう。今文芸部には俺と永沢さんの二人だけだし、そもそも学校内に誰かいる様子もないのでほかの誰かというとこはあり得ない。

 ちらりと視界に入ったスマホには、ブラックアウトする寸前、黒い猫の写真が表示されていた。

 俺は椅子を引いて永沢さんの真正面の席に腰かけると、もうすでに画面が黒く塗りつぶされていたスマホを見て言った。

「そういえば、永沢さんの家の猫って名前なんて言うの?」

「えっ?」

 何気なく問うと、彼女は思いのほか大きな声を上げた。

「え、いやスマホの画面に猫の写真が見えたから、永沢さんの家の猫なのかと思って聞いただけなんだけど……」

 人のスマホをのぞき見するなんてマナーがなっていないと自分でも思ってしまうが、見えてしまったものは見えてしまったし、口に出してしまった言葉はなかったことにならない。

 戸惑いながらも説明すると永沢さんは戸惑いがちに納得の声を上げると机の上に置きっぱなしにしてあったスマホをを隠すように手で覆った。

「えっと、ルルっていいます」

「そうなんだ」

 さっきの写真の猫がそうなの。そう問いそうになったけれど、そんなにしつこく質問攻めにされても嫌かもしれない。スマホをのぞき見されたというだけでも嫌なはずだ。そのうえさらにプライベートな事情にまで踏み入ってこられるとさすがに警戒もするだろう。

 わかりもしない相手の心の内を想像して勝手に彼女との心の距離を広げていると、ことりと小さな音がした。

 目を向けてみれば、彼女が先程まで隠すように手で覆っていたスマホを手に取って何やら操作している。誰かと連絡でも取っているのだろうかと考えながら暫しその様子をチラチラと見ていると、彼女の手がそれを差し出してきた。

「これがそうです」

 そう言って差し出されたスマホに表示されていたのは、先程の写真同様黒っぽい猫がとらえられた写真だった。

「そうなんだ」

 俺はそれを見ながら、かわいいねと口にするでもなく空っぽの言葉を口にした。俺の瞳に映った彼女は、いつかの時とは違っていたから。

江ノ島で猫の話をした時、彼女は幸せそうに、嬉しそうにそのことを語っていたように思う。だというのに、今の彼女は何を考えているのか読み取れない無表情だった。

 どういうことだろうと首を傾げているとそれに気づいた彼女が思い出したように笑顔を浮かべた。

 不可解な行動に首を傾げそうになったが、笑顔を向けられてしまった手前そんなことができすはずもなく、俺は同じように笑顔を浮かべた。

 すると手を引く際、彼女が「そういえば」と口にした。

「松嶋先輩は、犬でしたか?」

「え、あー」

 聞かれて、そういえば前に彼女とそんな話をした事があったなと思い出す。

「うん。飼ってたよ。といっても親がもともと飼ってただけだけどね」

「……あっ」

 言うと、彼女がしまったと言いたげに声を上げた。どうしたんだろうと思いながら首を傾げると永沢さんは黙ったまま視線を背けてしまった。

「? どうしたの?」

 いきなり態度の変わった彼女を見て俺は問いかける。すると、彼女は言いずらそうにうつむいたまま口にを開いた。

「その、ごめんなさい」

「へ? 何が?」

 いきなり謝られてわけのわからない俺は間抜けな声を上げた。すると彼女はさらに言いにくそうに、消え入りそうな声でもじもじと口にする。

「その……飼ってたって……」

「え? うん。そうだけど……?」

 なおも彼女の言いたいことがわからない俺は頭上にクエスチョンマークを浮かべる。

彼女の言葉の続きを待っていると、彼女は本当に申し訳なさそうに口を開いた。

「今は、もう飼ってない、ということ、ですよね……?」

「え? …………あー」

 言われてから少し考えて、ようやく彼女の言わんとしていることの輪郭が見えた気がした。

「そんな気にしなくても大丈夫だよ? もう何年も昔のことだし」

 なるべく笑顔でそういうと、彼女は一度頭を下げた。

「本当に気にしないで? 大丈夫だから」

 そう繰り返しながら、俺は笑顔を浮かべ続ける。気にしなくていいと、些細なことに過ぎないとそれを証明するべく笑顔を浮かべ続ける。

 そうやって必死に作った笑顔は、多分満面の笑みではなかったろう。きっと苦笑いにも似ている、不完全な笑顔だと思った。頬が、引きつる様に痛みを発していたから。

 けれど、彼女のそんな様子を見ていられなくて。俺は笑顔を浮かべ続ける。周りを、他人を気にしすぎてしまう彼女の重みを取り除こうと、必死に。

「それに、こういう話もう何年もしてなかったから久々で楽しいし。ほんと大丈夫だよ?」

 疲れを訴え、形状記憶の様に元に戻ろうとする表情を力業で押しとどめる。それでもやっぱり、彼女の俯けた顔が上がることはない。

 けれど、代わりにくぐもった声が聞こえた。

「……本当に、大丈夫ですか……?」

「うん、大丈夫。だから気にしないで」

 不安そうな彼女の声に間を開けずに答える。すると彼女は様子をうかがうように顔を上げた。

「……なら、聞いても、いいですか……?」

「……? 家で飼ってた犬の話?」

 俺が問うと彼女はコクリと頷いた。

 どうしてうちの犬の話をそんなに聞きたがるのかはわからなかったけれど、聞きたいというのであれば頷きを返す。なので俺は半ば記憶から抜け落ち始めている愛犬のことを思い起こしながらぽつりぽつりと話し始める。

「えっと、うちの犬はそうだな……。すごい人懐っこかったかな。庭で飼ってたけど吠えたりとか全然しなかったから、番犬には向いてなかった。お菓子をくれる人にはすぐなついちゃったからね」

 思う出しながら、我が家の一員ながら即物的で調子のいいやつだななんて思って笑顔が浮かぶ。俺よりも少し年上の、柴犬を思わせる雑種の家族の姿が。

「散歩は、母親がよく行ってたかな。俺もたまに行ったりしたけど、そのころは小学生だったからいろんな友達と遊んだりしてあんまり世話をしなかった」

 自転車を必死に漕ぎながらはしゃぎまわったころを思い出して、懐かしさに目頭が熱くなる。思いを馳せても、あのころには戻れはしないのに。

「うちの犬は、俺よりも二つ年上で、行っちゃえば家の長男だった。俺は生まれたときからずっと一緒だった」

 そう、ずっと一緒だった。幼馴染のソウよりも、長い時間を共にしていた。

 けれど――。

「…………」

 そこで、俺は口ごもってしまった。

 いくら長い時間を共にしたと言っても、それは今の話ではない。昔の、そうだったころの話だ。生物として種類が違う以上、生きていられる時間も違うのは当然のこと。誰もが知っている。犬や猫は人より長く生きることはできないことを。

 気を遣わせてしまう気がする。だからやめて方がいい。楽しいばかりの話を口にすればいい。なのに俺の頭にはそのことばかりが浮かんでいた。

 俺は、相手の様子を気にかけてしまう彼女のことを見る。やはり彼女は、不安に瞳を揺らしていた。

けれど、さっきまでは気付かなかったがその瞳には、違うものも混じっていた。疑念ではない、申し訳なさと、そしてこれ以上ないほどの、期待が満ちている。

「もしかして、永沢さんが、聞きたいのって……」

 そう口にして、途中で言葉を切った。口に出した瞬間から、彼女の表情が申し訳なさであふれてしまったから。

 それは多分、肯定にも等しいものだ。彼女が聞きたいのは、そのことだ。なぜかはわからないけれど、彼女はそれを聞きたがっている。そう思った。

だから俺は大きく息を吸ってから彼女を呼ぶ。

「永沢さん」

すると彼女は怯えるようにびくりと肩を震わせた。そして肩をすぼめながらおずおずと俺を覗うように見る。

 俺は彼女をまっすぐに見ることはできずに、代わりに窓の外の豪雨を見つめながら、まるで人ごとの様に、ぽつりと口にした。

「うちの犬……リクは、俺が小6の時の夏休み前日に居なくなったんだ」

 その時から、一度も。ソウにも真琴にも言わなかったことを。俺は初めて自分口から言葉にした。

 誰にも言えずに、心の奥にしまい込んでいたものを。


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