台風一過 10
「俺はなんてことを……」
部室を飛び出した勢いそのままに反対側の校舎まで駆け抜けた俺は、緑色の非常灯が怪しく光る廊下で、壁に手をついてうなだれていた。
手に握ったままのスマホが学校の分厚い壁にぶつかってカチッと音を鳴らす。そんな音も聞こえないままに俺は両手を壁について深くため息を吐いた。
俺は永沢さんの努力を無下にするようなことを言ってしまった。笑顔でいようと、笑顔を見せようと頑張っていたのなら多少は作り笑いが混じってしまって当然なのに、俺はまるでそれを不快に思ったかのように彼女に指摘してしまった。ついさっき文芸部の部室であった彼女との会話を思い出すたびにため息と同時に消えてしまいたいという気持ちが漏れ出してくる。
「最低だ、俺……」
笑顔を見せたほうがいいと同級生に言われたから頑張っていたのに、その頑張りを一つ上の先輩に無下にされるだけでなく、まるでそれが何か嫌なことを隠しているようにも見えたなんて言われたも同然なのだ。きっと彼女は今締め付けられるような胸の痛みに苛まれているだろう。
そう考えると余計にため息と無力感、同時に罪悪感がこみあげてくる。
この数日間、文芸部の部室に早く来ていたのも、もしかしたらその一環で、みんなに内緒で笑顔の練習をしていたのかもしれないのに、俺はなんてことを。
体に圧し掛かった罪悪感と後悔が俺の膝を折って体を丸めていく。誰もいない不気味さすら感じる廊下で一人、しゃがみ込むようにして項垂れた。
「それに、永沢さんを置いて出てくるとか……ほんともう……」
自身の所業に後悔を通り越して罪人になっている気分だった。本当に最低なことこの上ない、相手の努力を否定して、その上傷心であろう女の子を置いて一人逃げ出すなどとても十代後半に差し掛かった男子のすることではない。小中学生の、人付き合いのまだわからない時期ならともかく、高校生になってこんな風に逃げ出すなど。悔やんでも悔やみきれない。今現在も自分の身に罪を重ね続けている重みで今度は肩身まで狭くなってくる。
「って言うか、俺は何言ってるんだ……。かわいいとか、魅力的だとか…………あれ? 俺好きになりそうとか言ってた? えっ、何言ってんの! 何言ってんの!?」
思わず自分の胸中を吐露してしまったと思って猛烈な後悔がさらに押し寄せてくる。不慮の事故とは言えとっさに自分の思いを口にしてしまったことを理解して焦りがこみ上げてくる。
「あっ、でも…………」
しかし頭を抱えようとしたその時、ふと今までのことを思い出す。
「俺結局、永沢さんのことどう思ってるんだろう……」
口にして、自身の気持ちすら決めかねている優柔不断な自分を自覚してさらに肩身が狭くなった。
結局のところ、俺のこの気持ちは恋と呼べるようなものなのだろうか。
修学旅行開けて久々に彼女の姿を見て、話して、笑いあって。何か変わったことがあったのだろうか。
何もない。何もないのだ。ときめきも、照れも、焦りも。何も感じなかった。
彼女の姿を見て、修学旅行の時感じ取れたはずのそう言ったものが何一つ感じ取れなかった。
感じたものなど、彼女の努力の結果たる笑顔に違和感を抱いてしまったことくらい。それを否定してしまうような、この気持ちだけ。
「ほんと……最低だ」
俺はそう呟いて、ゆっくりと頭を壁にぶつけた。
結局、真琴の言い分は正しかったのだ。俺は結局、恋する相手を間違えた。彼女に心惹かれていたのではなく、ずっと昔から変わらないままに、恋に恋し続けていただけなのだ。それをあたかも彼女に心惹かれているように錯覚していただけ。
間城の口にした状況が、あまりにも俺の状況に酷似していたから。この気持ちはきっと恋なんだと、そう呼んでも許される出来事なんだと思ってしまった。欲していたからこそ、そばにあったもので代わりにしようと、浅ましく愚かしい結論に至ってしまったのだと、今になって自覚する。
自信満々に真琴に断言したことを、取り消してしまいたいとすら思ってしまう。時間は戻ったりしないのに、あの時のことを無かったことにできたらなんて。
「何て、最低な……」
呟きながら俺は壁に付いた手を握りしめた。
なんで、世にいる人は息をするように恋に落ちて、それを花開かせようと動くことが出来るのだろう。その気持ちが偽りじゃないとなぜ理解できるのだろう。
学校も親も、誰だってそんなことは一切教えてくれはしないのに。何でそれを知っているんだろう。
羨ましくて仕方ない。ほかの人には見えているものが、俺には見えていない。
もしもこの世界に神様がいるのなら、きっと神様はとても意地悪だ。
求めれば求めるほど、それをどこかへ持って行ってしまう。欲しがれば欲しがった分だけ遠ざけられてしまう。それなのに見えないところにはもっていかずに手の届かないぎりぎりのラインで揺らして見せる。俺だけでなく、誰にだってそうしてみせるのだ。
恋を求めた人にはそれは手に入らず、思い人との強固なつながりを求めた人にはそれを与えず、幸せな学校生活を求めた人にはそれ諦めさせる。
そんな残酷な平等を、いったい誰が求めるのだろう。世の中全ての人がもし平等でいなければいけないのなら、誰だって幸せな平等を求めるのに、なんでこんなにも苦しい平等を与えてくるのだろう。
そう思いながら奥歯を噛むと、ふと自身の手と壁とで圧迫されていたスマホが悲鳴を上げるように震えた。
こんな時にいったい誰だろうと、半ば恨めしい気持ちでスマホの画面を見やれば、そこには俺の幼馴染の名前が表示されていた。
いったい何だろうと思いながらSNSを開けば、ソウから気にかけるようなメッセージが届いていた。
『ハルもしかして今学校にいるか?』
心配そうに瞳に影を落としながらメッセージを打っているソウを想像して、思わず苦笑いが浮かんだ。俺は幼馴染の不安を払拭しようとそのままソウに電話をかける。メッセージを送った直後だからか、ソウはワンコールと経たずに電話を取ってくれた。
「もしもしハル? お前ほんとに学校に居んのかよ」
「あ、うん。スマホ取りに早めに来たら休校になっちゃって」
「いや休校とか以前に台風来てんのに学校行くなよ」
たははと苦笑いを浮かべながら言うと、ソウは電話越しにため息を吐いた。ソウの不安そうな、それでも身元確認が取れて安堵したかのようなため息を聞いて申し訳なさに肩をすくめる。
ソウには前もってスマホを忘れたという旨を伝えておいたため、もしやと思ってかけてきてくれたのだろうが、こんな風し窘められるとは思わなかった。
そう思っているとソウが電話越しにいつものように軽々しく「まーいいや」とか呟いた。
「多分夕方っつーか三時くらいには天気回復するらしいからそれまでは学校に居ろよな。さすがに今日は他に生徒なんかいねぇだろうから暇かも知んねーけど、そこは自業自得だ」
「あ、うん分かった。でも、誰もいないってわけじゃないよ」
俺が頷きながらも付け足すように言うとソウは驚いた声で「マジか」と呟いた。
「クラスの誰かか? マコは絶対いないだろうけど」
「まあ真琴は間違いなく来ないだろうけど、違うよ」
真琴はたとえ休校でなくても天気が荒れていれば休みかねない。というかほぼ休む。これでも三年を超える付き合いだから多少は真琴のことだってわかってはいる。
真琴が面倒くさそうに家の窓から外を眺める様子を思い浮かべて笑みが浮かぶが、それを噛み殺してソウに伝える。
「えっと、永沢さん……が来てる」
「おいマジかよ、お前らマジ運命じゃん」
「ソウ? 俺が乗り移ってない?」
もちろん俺は今ここにいるし乗り移れるような能力は持ち合わせていないからそんなことは決してないのだが、ソウがあまりにも俺みたいな反応をするからとっさにそう突っ込んでしまった。多分俺が逆の立場だったら絶対にソウに向かって「それ運命だよ何それいいな!」とか言ってる間違いない。
奇行とも呼べる俺の妄想癖に近いものを感じて苦笑いを浮かべているとソウがカラカラと笑った。
「いやほんとマジ運命だろ。ハルもそういうの好きだろ?」
「いや好きだけどそういうのじゃ――」
「ってかハル楓ちゃんのこと好きなんじゃねぇの?」
「……………………違うよ」
言われて、俺は電話越しで見えもしないソウに向けて俯き気味に言った。
「ちげーの? 俺てっきりそうなんだと思ってたんだけど」
「いや違うよ。そういうのじゃない」
俺は自分の浅ましい考えを口に出して説明はせずに、苦笑いを浮かべて誤魔化すように言った。
するとソウは「ほーん」と納得したのかしていないのか、わからない返事をして黙ってしまった。何を言っていいかわからず苦笑いを返すが電話口からソウの声は聞こえてこない。俺は手持ち無沙汰を紛らわすために渡り廊下のほうまで行って、つい先ほどまでいた校舎とは逆の校舎の四階に視線を向けた。雨のノイズと黄ばんだ白い壁に阻まれた、あの部室へと。
俺はため息を吐いてから、先程置き去りにしてきてしまった彼女のもとへ戻ろうと足を動かす。そして同時に、俺の口から愚痴じみた言葉が漏れ出てきた。
「……ソウ、恋って何?」
「それ、前も言ってたな。感情がわかんねーロボットかお前は」
俺が訊くとソウは笑いながら突っ込みを返した。俺はそれに苦笑いを返すとソウの言葉の続きを待った。
前に聞いたとき、ソウはどんな風に答えただろうか。確か、見た目がよければとか、そんなことを言っていた気がする。一目惚れだって外見で好きになっただけだろとも。
きっとソウの口からは俺が望むような答えは返ってこないだろうなと思いながら廊下の先に視線を向ける。雨のせいか、湿気の張り付いた廊下が削れ切って機能していない上履きのゴムをきゅっと鳴らした。
俺はそれが面白くてもう一度意図的に上履きを鳴らすと、それと同時にソウから言葉が返ってきた。
「こいつを幸せにしてぇなって思ったら、そういうことだろ」
「え、何それかっこいい」
幼馴染の男気溢れる回答に思わず感嘆の声を上げてしまった。ほえーと口をあけっぱなしにしている俺に、ソウは笑いながら言う。
「恋って、そういうもんなんじゃねぇの? ハルにとっては」
「え、いやソウにとってはどうなのかなって思って聞いただけなんだけど」
「顔のかわいい子」
「えー」
付け足された言葉に異を唱えたくて言うと、俺の幼馴染はふざけているのかまたそんなことを言った。
不貞腐れたような声を上げながら渡り廊下を抜けて三階から四階へ向けて階段を上る。俺の不満そうな声にソウは面白そうに笑っていた。
「まあ、そんなん聞いても意味ねぇってこったよ。それよりか、ちゃんとやって来いよ?」
「ちゃんとって何を」
「まあいろいろだよ。じゃな」
階段を上り切ろうというときに、ソウは矢継ぎ早に言うとさっさと電話を切ってしまった。いったいソウが何を言いたいのかもわからないし、何ならソウの態度もわからない。いや多分深い意味なんて何もないんだろうけど。
「小説が恋人の人はいいですね」
通話画面の消えたスマホに向かってそう悪態をついてから、俺はスマホをポケットにしまった。小説が恋人なんて俺はいいとは思わなかったけれど、そう堂々と言えるのが少しだけ羨ましかった。俺が今言えるとしたら、恋が恋人とかそんな風にしか言えない。そんなのカッコ悪いどころか女々しいことこの上ないし、何なら後輩たちをはじめ女子部員全員に引かれてしまうかもしれない。
たとえごまかしであってもそんな風に言えるのなら、今の俺よりも数段マシだろうと思って、誰もいない廊下で一人ため息を吐いた。
けれど、それをかき消すかのように、分厚い窓ガラスが語りと震えた。
俺は少しだけびっくりして顔を上げて階段の先の窓ガラスを見た。
窓に吹き付ける雨は、依然その力を増していくばかりだった。




