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Primula  作者: 澄葉 照安登
第五章 台風一過
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台風一過 9

 曇天の町というものは、大概が肌寒い印象を受けるものだ。日の光も届かない、雫降り注ぐ町に寂しい印象を抱くのは当然のことだと言える。人にとって日の光は暖かさであり、雲はそれを阻む悪戯心なのだから。

 冬場であれば寒いことこの上ない。夏場であっても普段から比べればいくらか涼しくも感じられる。けれど肌に張り付くような湿度をはらんだ梅雨の雨や、この台風という気象状況の場合はその限りではない。

 十月入り涼しさを感じ始めた体を狂わせるように、薄暗い街は生暖かさをはらんでいた

 俺はそれに耐えかねて、来ていた黒い学ランを背もたれに掛けていた。目の前の彼女は体感温度の差のせいか、それともワイシャツ姿になるのを恥じているのか濃い紺色のブレザーを着たまま、ただじっといつもの席に座っている。

「…………」

「…………」

 朝の挨拶を済ませてから、もうどれくらいの時がたっただろう。町は一向に明るくなろうとはせず、それと同調するかのように俺たちの間にもなんとも言えない重みがのしかかっていた。

 お互い目も合わさずに窓の外を見る。雨は一向に弱まる気配はない。それどころかノイズじみた雨音がさらにその音を大きくしている。いつ止むかもわからない、それどころか本当に青空が戻ってくるのかと疑問に思えてしまうほどの豪雨にため息が出そうになる。

「……今日、休校になっちゃいそうだね」

「そうですね」

 ため息の代わりに言えば、何を思っているのかわからない無感情な声が返ってきた。

 普段の彼女らしからぬ声色に疑問を抱いて彼女のほうを見やれば、窓の外へと向けられていた視線は、その焦点をわずかにぼやけさせていた。

 心ここにあらず、とはまさにこのことだろうと思った。受け答えこそしてくれているけれど、視線も意識もこちらには向けてはくれない。それ以上に気になっているもの、気になっていることがあるのだろうというのが一目でわかった。

 だから俺はそれ以上彼女に話しかけることはなく、喚くような豪雨に耳を澄ませた。

 雨が窓を殴りつける。窓に張り付いた雫がさらにあとからやってきた雫に追いやられ、幾重にも別れ、街をモザイク模様に変えている。灰色の町は、それこそ神隠しが如く人の気配がしない。この学校だって、目の前にいる彼女以外の人の声も気配も何もない。

 まるで、地球最後の日に逃げ遅れてしまったかの如く、俺たち二人はこの町で孤立していた。

 けれど、本来ならばここにいるのはきっと俺だけだったはずだ。そう思いながらちらりと物憂げにも見える彼女の横顔を見る。

 彼女はなぜ、こんな時間に学校に来たのだろう。

 声に出して尋ねてしまえばいいのに、俺は彼女の横顔を見ながら心の中で問いかけた。

 彼女は、俺の様に忘れ物を取りに来たというわけではなさそうだった。ともすれば、文化祭用の小説を書くためにやってきたというわけでもなさそうだ。彼女は部室に来るなりいつもの席へと腰かけてそのまま窓の外を眺め続けているのだから。

 この場にやってきた理由もわからない。連日朝早くに部室に訪れる理由もわからない。焦点の合わない何も見えない瞳でひたすらに外を見続ける彼女の気持ちも思惑も、わからなかった。

 わからない、だから気にはなってしまう。けれど、なぜだろう。それを言葉にできない。自分のことなのに、わからない。けれど確信に似たものがあった。

 それを易々と聞いてはいけないと。

 理由はやっぱりわからないけれど、そう感じた。

 だから俺は何も言えないまま、物憂げな彼女の横顔を見ているしかできなかった。

 すると、ふとその視線に気付いたのか、彼女が俺のほうを見た。視線がぶつかり反射的に怯えるように数センチのけぞる。背もたれに体重をかけたせいで椅子が動き出そうとして小さく音を鳴らした。

 俺は逃げようとする体をなんとか抑え、目が合ってしまった以上何か話さなくてはいけないと思って俺は口を開こうとする。しかし浮かぶ言葉はどれも声には出せなくて、俺は驚いたように口を開けたまま硬直してしまった。

「先輩は、今日とても早かったんですね」

 そんな俺を気遣ったのか、彼女が笑顔を浮かべながら囁くように言った。とても優しい笑顔に思わず息が止まる。

「え、うん。……実は昨日スマホ忘れちゃって」

 俺はその空気の固まりを飲み下してから、つい先ほど回収したばかりのスマホを手に持って見せる。すると彼女は聞き取れないほど小さく「あ、そうなんですね」と呟くとまた、同じように笑顔を浮かべた。

 やはり彼女のその顔を見ると、息が止まる。

 胸が高鳴るような感覚ではない。胸の奥で、気持ちの悪いものがうごめいているような、そんな不快感だけを訴えかけてくる感覚。

 彼女の笑顔に感じたものは、そんなものだった。

「…………」

「…………」

 雨の音を聞きながら、また二人で口を噤む。そして鼬ごっこの様にまた何かを話さなくてはと脅迫観念にさらされる。どこまでも違和感をそのままに、ぎこちないまま、時間が過ぎるのを、雨が弱まってくれるのを待ち続ける。別にこの部室に居なくてはいけない理由なんてないのに、立ち上がって部室から出て行くことはせずにただひたすら、この重々しい部屋の中に張り付いている。

「永沢さんも、何か忘れ物?」

 俺はもう一度目の前にいる彼女に声を投げかける。

 台風の生暖かい気温のせいで湿気が肌に張り付いているのに、喉の奥は脱水症状の様にカラカラに渇いていた。

「あ、えっと………なんとなく、です」

 俺が訊くと、彼女は答えにくそうに言葉を濁した。

「そうなんだ。早く目が覚めちゃうこととかって、あるよね」

 なんとなく、なんてことはないのはわかり切っていた。けれど俺はそれを問い詰める気にはなれずに同調して笑顔を浮かべた。

すると、まるであざ笑うかのように空では雷が転がった。

「……本当に、すごい台風だね」

「そう、ですね」

 俺が呟くと、彼女もいっしょに鈍色の空を見ながら言った。

「永沢さんは、雷大丈夫?」

「大丈夫です。あんまり大きな音の時は、そのあれですけど……」

 刹那、雲の上を転げまわっていた雷がその勢いのままに転落したらしく、ドォンと空を裂く轟音が鳴り響いた。

「きゃっ…………」

 続いて可愛らしい悲鳴が聞こえたので彼女のほうを見てみれば、目の前に座っている後輩は恥ずかしそうに顔を俯けていた。

「す、すみません……やっぱり、苦手、ということにしておいてください……」

「いや、今のは誰でも驚くと思うよ。俺も驚いたし……」

 事実俺も肩を跳ねさせるほどに驚いていたのでそう付け足したが、彼女はよほど恥ずかしかったのか亀が殻にこもるように肩をすぼめて小さくなってしまった。

 その様子を見て不謹慎にも笑いがこみあげてきてしまって、気持ち悪く歪みかけた口元を隠そうと手で覆った。

 こうしている分には、何の違和感も感じない。それなのになぜだろう。彼女の笑顔を見るたびに心がざわつく。不快感を感じるはずもないのに、心の奥を何かがはい回るような感覚が確かにある。

「えっと、永沢さんはその、文芸部には慣れた、かな?」

「え?」

 俺の突然の問いに、永沢さんは目を丸くした。

「あ、ごめん今更だよね!? 変なこと聞いてごめんねっ?」

いったいどんな質問をしているんだと自分を振り返って途端に恥ずかしくなる。なれたかどうかなんて今更過ぎる問題だ。彼女が入部してもうすでに何か月も――。

 そこで数えてみて、今度は俺が目を見開いた。もう彼女がやってきてから何か月もたっているように感じる。それこそ今年初めから一緒だったかのように、彼女がいることが当たり前になっている。

 けれど、今数えてみて驚いた。彼女がやってきたのは七月。そして今は十月だ。そう、まだたった三か月しかたっていない。

 衝撃の事実に、俺はただ目を丸くするしかなかった。

「えっと、先輩?」

 いきなり目を見開いた俺を不審に思ったのか、永沢さんが不安そうに俺のことを呼んだ。俺はとっさに「ふえっ!?」とか妙な声を上げて、それを取り繕うように早口に言う。

「ほ、ほら永沢さんて文芸部に来てまだ三か月くらいしかたってないから、どうなのかなって思って!」

「え、あ、そういう……」

 俺がまくし立てるように言うと、永沢さんは気圧されたように小さくつぶやくいてから少し考えるようなしぐさをした。予想外の問いだったのだろう。彼女は数秒間かけて俯き考えると、おずおずと、まだまとまり切っていないのであろう胸中を吐露し始めた。

「えっと、そうですね。先輩たちはとてもいい人たちで、話しやすいですし。美香とも仲良くしてもらっていると思います。……なので、慣れてはきた、んじゃないかなとは思います……。あっ、えっと、はっきりしなくてすみません」

 つっかえながらもそう言い切ると、彼女は思い出したかのようにまたあの笑顔を浮かべた。恥ずかしさにはにかんだような、自身の言葉の拙さを悔やむような苦笑いではなく、穏やかな、それこそ精巧に組み上げられた作り物のような優しい笑顔を。

 それを見て、やっぱり俺は息をのんだ。あからさまな作り物の、取り繕うために取り付けた付け焼刃ともいえるその笑顔は、やはり直視することが出来ない。

「えっと、永沢さん……?」

「え、はい……」

 俺が彼女の名を呼ぶと、彼女は不思議そうに、けれど少し怯えるように返事をした。不安そうにこちらを見つめる彼女から少し目を逸らしたまま問いかける。

「何か……あった?」

「ぁ……」

 俺が訊くと、彼女は悲しそうに眉をひそめた。訊いてはいけないことを聞いてしまったような気がして、俺は彼女をとらえていた視界を窓の外へと投げ捨てた。

「……ごめんね。聞いちゃ、いけなかったかな?」

「…………」

 そう言って数秒間彼女の返答を待っては見たけれど、彼女からはなんの言葉も帰ってこない。視線をそらしてしまったため、彼女がどんな顔をしているのか、どんなしぐさをしているのかもわからない。

 どうしたものかと思っていると、身じろぎをしたのか、豪雨の音に交じって彼女の方から衣擦れの音がした。

 その音につられて彼女の方を振り向いてみれば、ブレザー姿の後輩は顔を俯けて言いにくそうに口にした。

「えっと、ですね……。先輩たちが修学旅行に行ってる間に、その……美香に言われてしまいまして……」

 修学旅行に行っている間、と言われて職員室のカギの貸し出しノートが頭に浮かんだ。多分、それも無関係ではないだろうとすぐに理解した。

 立花さんに何かを言われた、ということはもしかして、喧嘩でもしてしまったんだろうか。そう考えて不安に駆られる。昨日の部活中はそんな感じは全くしなかったけれど、人は誰しも人には言えない、打ち明けることが難しいものを抱えているはずだ。みんなそういったものを抱え込んで、必死に隠しながら生きているのだと思う。

 だから、彼女たちがそのことを隠していたとしてても不思議はないし、俺たちがそれに気づかない可能性なんていくらでもある。

 いきなり俺の頭に浮かんだ予想に思わず背筋が冷たくなる。決して真面目とは言えない文芸部だけれど、部員の中はこの上ないほどに良いと思っていた。ソウは言うまでもなく、無口で不愛想な真琴だって、仲が悪いという雰囲気ではなかった。間城だって、立花さんだってもちろんそうだ。

 それなのに、俺たちが部室を離れている間に後輩たち、さらには同級生同士の間に大きな溝ができてしまったのかと思って冷や汗が浮かぶ。

 もちろんそれが確定したわけではないのだが、彼女の様子を見る限り、とてもいい話という雰囲気ではない。だから、どんな話だとしても決して明るい言葉は出てこないだろうという確証がある。

俺はいったいこの後にどんな言葉が続くのだろうと思って息を呑んだ。

 しかし、彼女の口から出てきたのは、思いのほか軽い言葉だった。

「美香に、部活中あんまり笑わないよねって言われて……。その、笑った方がいいよって言われちゃいまして……」

「え、うん……」

 喧嘩したという雰囲気ではないので一安心。けれどどんな言葉が続くのかわからないので不安半分に、もしかしたら俺はとんでもないことを言ってしまったのではと思って冷や汗が浮かべた。

「それで、その。先輩たちに、あんまり嫌な思いをさせてはいけないと思いまして、最近、なるべく笑顔でいようと思ってたんですけど……」

 そこまで彼女が口にした段階で、普段から人に迷惑をかけることを嫌い気遣うように人の顔色を窺っている彼女からどんな言葉が出てくるのかおおよその予想がたってしまって冷や汗が背中をくすぐるように流れる。

 危機感を覚えながらも彼女の言葉を途中で遮るわけにはいかないと思って黙っていると、案の定、俺の嫌な予感はものの見事に的中した。

「その、私の笑顔、変でしたか……? もしかして先輩に嫌な思いをさせ――」

「いや、そんなことないよ!!? すごい可愛かったよ!?」

 彼女がすべて言い終わるよりもだいぶ早く、俺は叫ぶ様に言って立ち上がった。無駄な言葉を吐いたにもかかわらずそんなこと気にも留めずに続けて言う。

「ほんと大丈夫だからっ。すごい魅力的でそれこそ思わず好きになっちゃうくらいだから本当に大丈夫! もう本当に大丈夫だよ変なこと聞いてごめんね!?」

「あ、はい……。ありがとうございます……」

 勢い任せに言うと永沢さんは気圧されて若干引き気味に礼を口にした。照れているわけでもない様子に俺は自分の失言を振り返ってさらに焦ってもうてんてこ舞い。しまいには両手を千手観音が如く高速で動かして顔に熱を集めた。

「えっと……ご、ごめんねっ! ちょっと教室行ってくる!!」

 結果として、奇声奇行を繰り返した俺は自分の身振りもわからないままに駆け出した。


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