台風一過 8
灰色の空が、すごい速さで流れていく。流れれば流れるほど汚れるように濁っていく雲がおどろおどろしくて視線を下ろす。
その空越しに太陽の光が届いているのかいないのか、いつもと変わらないはずの町並みは、まるで朝を迎える寸前で時が止まってしまったかのように薄暗さを保ち続けていた。
文芸部の部室で後輩たちにお土産を配った翌日の火曜日。俺は普段に比べてかなり早く家を出て徒歩で学校へ向かっていた。
何も、天気が心配だから早く出たというわけではない。雨が降ったとしても自転車を学校に置いて傘を差して帰ればいいだけの話だ。もし仮にそういう理由だとしても俺の隣にはいつもと変わらず幼馴染の姿があっただろう。
しかし今俺は一人きりだ。二年生になったから、おそらく初めて一人で学校へ向かっている。そのことを寂しく思ったりはしないけれど、突風がとぐろを巻く音を聞いていると不安にもなってくるもので、俺は少しだけ歩調を上げた。
俺は昨日、部室にスマホを忘れてしまったらしい。
家に帰って学ランのポケットや鞄の中を隅々まで確認しては見たのだが一向に見つからず、どういうことだろうと昼間の自分の行動を思い返してから気が付いた。
昨日は帰りがバタバタしていたからその時には気付かなかったが、あの時俺はスマホを机の中に放り込んだのだ。
それを失念したまま帰宅してしまった俺は今現在、連絡手段も持たずに本当に朝方なのかと疑いたくなるような暗い道路を歩んでいた。
一応、ソウには昨日のうちに家の固定電話を使って先に学校に行くという旨を伝えてはいたので、そこの心配はいらないのだが……。
俺は数分前よりもさらにどす黒くなった空を見上げながら息を一つ吐いてさらに歩調を上げた。
ソウが言うには、もしかしたら今日の昼くらいに台風が直撃するかもしれないとのことだった。一応雨は降っていなかったので早々に家を出てきてしまったのだが、雲行きと、田舎人特有の湿度を感じ取る嗅覚が告げている。
もう、数時間と経たずに天気が荒れる。
決して天気予報を見たわけではないが予感した。
突風といっても差し支えない、冷たくもじめっとした中途半端に暖かい風。少し先の空から迫るように向かってくる暗雲の大軍。何より肌に張り付く湿度と、雨に溶けた土の匂い匂い。
これだけの条件が揃うと、一時間二時間後なんて言っていられない、数十分後には降り出してもおかしくなかった。
だから俺は見慣れた十字路を早足で抜け、学校へ向かう一本道を靴底で叩きながら歩く。
どうか雨は降らないで欲しいと。自分の握りしめている傘を見つめながら祈った。
けれど、俺の願いをあざ笑うかのようにぽつり、と手の甲に何かが当たった。嫌な予感に足を止めてみると真上に広がった暗雲がキラキラとそれを落とし始めた。
「やばっ」
耳をすませば、十数メートル先から雫の殴りつける音が聞こえた。
俺は急いで残り百メートルもない学校までの道を駆けた。外に出た住人はおろか、野良猫一匹見当たらない道を全力で駆け抜ける。
けれど、空を進行する雨雲に勝てるはずもなく、校門が目と鼻の先に迫ったというころには、追い風を受けた空の雫が突き刺さんとばかりに俺の体を打ち始めた。
腕で顔を隠しながら校門を走り抜ける。滝のような雨に打たれながらも、この突風の中では使い物にはならないか紗わ握りしめたままだ。
鞄で頭を守りながら昇降口に飛び込む。瞬間、短距離走を終えた俺は大きく息を吐き出した。
自分の背中を振り返ってみるといつもは灰褐色のグラウンドがその姿を変えていた。
俺は黒橡のグラウンドに背を向けて今一度息を吐き出す。そして視線を暗い昇降口の向こうへと向けた。
全くと言っていいほど人の気配がしない。髪の毛をかき上げながらスマホを取り出そうと学ランの左ポケットへと手を突っ込む。しかし、部室に置き去りにされたスマホが俺のポケットから出てくるはずなどなく、代わりに先日ソウに言われた通りポケットに突っ込んだ紺色のハンカチが顔を出した。
俺はそれをポケットに戻しながら犬の様に頭を振った。
時間はわからないけれど、誰もいないということはないだろう。俺が家を出た時間を考えても少なくとも六時はとうに過ぎているはずだ。普段はこんな時間に学校に来ることはないので確かなことはわからないが、毎日朝練している運動部だってあるくらいだから部室の鍵を借りることが出来ないなんてことはないだろう。それに職員室に行けば教員の一人や二人くらいならいるだろうと思って、ほの暗い、恐ろしさすら漂わせる校舎へと足を踏み入れた。
鉄製の下駄箱に手を伸ばして靴を履き替える。靴が靴箱を叩いた音がいやに大きく聞こえて少しびっくりしてしまう。必要以上に気を遣って冷たい鉄の扉を閉めて外履きをしまうと、機能していない上履きのゴムを滑らせながら職員室へと向かう。
見れば、先程まで鈍色に見えていた屋外が、ノイズの走ったようなモザイクに塗り替えられていた。
いやな低音が聞こえて奥歯をかみしめる。それが雨の音なのか、はたまた雷の唸る声なのかもわからない。それほどまでに強まった雨脚は突風の勢いそのままに校舎の窓ガラスを殴り続けていた。
雫の流れる窓ガラスを見ながら職員室のドアを開けると、電気もついていない、廊下よりもさらに暗い部屋が顔をのぞかせた。
「誰も、いない?」
いつもは教師や生徒の声、パソコンを打つ音や書類にペンを走らせる音でごった返している職員室がしんと静まり返っていた。
「えっと、失礼しまーす……」
誰もいないとはわかっているけれど、条件反射で口にしながら職員室入って数歩先の鍵ロッカーへと向かった。
部活動用のカギはすべてこのロッカーに管理されている。職員室でカギが管理されているためテスト期間や入試直前などは基本的に部活動は禁止とされているが、どうしてもやむおえない場合は中にいる先生に頼んで鍵を取ってもらうこともできる。俺たち文芸部は活発な部活動ではないのでそう言ったことに縁はないが、運動部の生徒たちはテスト期間も練習していたりするのでそういう多少面倒な手順も経験しているのだろう。
けれど俺はそんな面倒な手順もしなければ教員誰一人にも顔を合わせずに黙々と鍵の収納されている小さなロッカーを開いて、文芸部とラベルの付いたカギを手に取る。そして鍵を借りたことを証明するためのノートがすぐ横に用意されているのでそれを開いて日時と部活名を記入。
するとそこで、少し上段に文芸部の名前が複数並んでいるのが目に入った。決して連続して並んでいるわけではないがほかの部活動に比べればやや多い。それこそ大会を控えた運動部と同じ比率で記入されている。
熱心な部活動とはとても言えない文芸部の珍しい光景に興味を惹かれて見てみると、貸出時刻を記入する欄で目が留まった。
「六時、三十二分?」
目に留まって一度、口に出してもう一度、計二回どういうことだと思った。
十六時と見間違えたのかと思ってもう一度確認してみてもそこに記された数字は変わったりはしない。先週の木曜日の日付で六時三十二分。確かに鍵を借りた記録があった。
書き間違いか、そんな風に思った。けれどその少し下を見れば十六時に借りた記録が記されている。そしてその朝早くに借りたという記録は消されてはいない。
どういうことだろうと、再び思った。
もともと文芸部はそれほど熱心な部活動ではない。平日こそ毎日のように活動してはいるが休日は学校に集まることは全くと言っていいほどないし、夏休みなどの長期休みの時も活動日数は多くはない。今年こそ週に二回活動してはいたが、去年は一度も活動していなかったくらいなのだから。
だから、不思議で仕方なかった。朝練を義務付けられているわけでもない文芸部の誰かがその時間を記していることが。
そしてもう一つ。日にちを見て不思議に思った。
先週の木曜日、九月最終週の木曜日。それは俺たちが修学旅行で沖縄にいた日にちだった。
ないとは思うけれどソウや真琴が朝早くに部室に来るなら理解できなくもなかった。二人は文芸部の中でも真面目に文章を書き連ねているし、気分転換として家でなく部室で書くというのもわからなくはなかったから。
けれど、日にちを見る限り、鍵を借りたのは立花さんか永沢さんのどちらかだ。顧問の先生という可能性もなくはないだろうが、普段からあまり部室に顔を出さないあの先生が朝早くに部室に行ったというのも考えにくい。
だから、この記録は後輩二人のどちらかが、わざわざ朝早くに部室に来たことに他ならない。それも、一度ではなく何度も。
見れば、先週の木曜以外にも金曜日、そして今週の月曜日にも同じような時間に貸し出しの記録があった。
俺の様に、たまたま忘れ物をして取りに来たという感じではない。それこそ部活動に熱心なイメージすら抱くことのできる借り方だった。
どういうことだろう。その疑問は費えることはないけれどとにかく俺は先にスマホを回収しようと記入をすませて職員室を後にする。
「失礼しました」
誰もいないことはわかっていてもそう口にしながら頭を下げて職員室を出る。
俺は長い階段を上って四階にある文芸部の部室へと向かった。
隅に埃の溜まった階段をのそのそと昇る。当然誰かとすれ違うこともなく、聞こえるのは俺の上履きが階段をする音と、窓ガラスが悲鳴を上げる声だけだった。
大荒れ、そう言って差し支えないであろう屋外をチラ見しながら螺旋状の階段を上る。
外の様子に気を取られて、少し慌てながら踊り場のところをクルリと回ったとき、手元のカギがタグとぶつかりチャリっという音を鳴らした。
ギザギザとした形のカギと、それがどこのものか記載された百円均一で帰るネームタグ。寂しい姿のそのカギをもう一度チャラリと鳴らしてみる。
この鍵はいったい誰が、何のために借りたのだろうか。朝早くに、一度ではなく先週の中ほどから昨日まで毎日、何のために部室に訪れたのだろうか。
文芸部は、言ってしまえば必要な道具などがほぼない部活動だ。ソウの様に原稿用紙とペン、プロット用の小さなノートがあれば十分だし。原稿用紙でなくともノートやルーズリーフなんかがあればそれで書くこともできる。真琴のようにパソコンで書く人もいるだろうが、特別部室に行かなくては作業が進まないなんて言うことはないはずなのだ。
それに、後輩は二人とも自分で小説を書いている様子はなかった。だから、なぜと思わずにはいられなかった。
階段を数十段上り、足が熱を持ち始めたころようやく四階に到着した。さっきより時間が経ったというのに一向に明るくならない街を見つめながら、俺は足に任せて文芸部の部室前まで行くと、手に持っていた鍵を扉のカギ穴に差し込んで捻った。
ガチャという開錠音と一緒に扉が少し動いて音を立てた。俺は縛りを失った扉を無造作に開けると電気もつけずにいつも俺の座っている窓際に一番近い教室奥手の席に行って、その引き出しを覗き込んだ。
「あった」
言いながら引き出しの中に手を突っ込むとさわり慣れた古い型のスマホが俺の手に引きずられて顔を出した。
とりあえずちゃんとあったことに一安心しながらスマホの画面を立ち上げると、電池残量数十パーセントの表示と共に現在時刻が表示された。
「六時四十九分、か」
朝のホームルームは八時半からだ。それまで一時間以上の時間が余ってしまった。
もともと、こうなることがわかっていなかったわけではない。必要以上に早く家を出れば、その分学校でつぶさなくてはいけない時間も多くなる。
わかってはいたけれど、それでも現代人としての性なのか、自分の手元にスマホがないというのは不安なもので、こんなにも早く部室に顔を出す羽目になってしまったのだ。
自分の無計画ぶりと依存具合にたははと苦笑いを浮かべていると、電池残量がわずかなスマホが手の中で震えた。
いったい何だろうと思って画面を見てみると、珍しくSNSの通知ではなくメールの受信があったことを表示していた。
昨今SNS普及の影響でメールでのやり取りをすることはほとんどなくなってしまったから、珍しいと思うと同時に、嫌な予感がして窓の外を見た。
メールで来る内容など、大体は登録したサイトのメルマガ、それ以外だと迷惑メールなどそう言った大して目も通さないものが多数を占めているものだ。けれど、そんなメールの中にも、重要なものがいくつかある。携帯会社からの通知だったりとかがいい例だ。
そしてその例に漏れず、このタイミングでないとは思いつつもそんな可能性があるのではと思いながらメールを開いた。
こう言うときに、当たってほしくないと思った予想ばかり当たってしまうもので、俺はメールの内容に目を通すとため息を吐いた。
メールの送り主のところには今いるこの高校の名前が入っていた。そして、その内容は、
『本日は十時までは自宅待機となります』
「嘘でしょ……」
ついさっき雨が降り始めたばかりだというのに、そのメールは臨時休校を知らせるものだった。
俺は台風は明日来るものだとばかり思っていたから今日は急いで学校に来たというのに、そんなときに限って臨時休校とは神様とは何て意地悪何だろうと思う。
「スマホ忘れなければな……」
そうは呟いたものの、時刻はもう七時近い。こんな時間に休校の知らせが来ても、もう家を出てしまっている人もいるかもしれないし、もしかしたら学校内に一人二人程度なら生徒がいるかもしれない。メールが来たということは、少なくとも教員が誰かしら学校に来てはいるのだから。
自宅から近い俺はスマホさえ忘れなければ家でのんびりできたのだろう。きっとソウは休校の知らせを受けて満面の笑みを浮かべながら家でのんびり執筆でもしているはずだ。
俺はハイテンションに身を任せてベッドから飛び上がった友人を想像してため息を一つ吐いた。
そして恨みを込めながら天気予報を調べて警報注意報の情報を確認する。見れば、確かにこの辺一帯に大雨洪水警報と強風警報が出ていた。
これは今日一日休校になりそうだなと思いながらたははと苦笑いを浮かべると、職員室のカギの貸し出しノートのことが頭を過った。
先週から毎日朝早くに訪れているんだ。もしかしたら、今日も朝早くから学校に向かっているかもしれない。
理由はいまいちわからないけれど、後輩のどちらかが毎日来ているんだ。もしかしたら今日も。
そう思ってスマホに表示された天気予報アプリを閉じると、部室の扉がガタッと震えた。
窓を開けているわけではない。雨が吹き付けているんだ開けるはずがない。だから、風で動いたわけではなかった。
確かな人の気配を感じてそちらを向くと、小さく口を開いた扉の向こうに黒っぽい紺色のスカートとブレザーの裾が見えた。
「……永沢さん?」
なんとなく、そう思った。もしも立花さんなら、隠れるように、様子をうかがうように扉を小さく開けたりはしないと思ったから。
俺が言うと扉の向こうのスカートがひらりと揺れた。それが頷きにも等しいものだと理解しながらも返事を待つと、細く華奢な手がおずおずと扉を開いた。
「おはよう、ございます……」
思った通り、やってきたのは永沢さんだった。




