二人きりの修学旅行 3
「あーあ! 楓が羨ましいな!」
お風呂上り、濡れた髪の毛をそのままにベッドに座ってクマのぬいぐるみを抱きしめていた美香がその手からぬいぐるみを、そして足を投げ出して言った。
「うらやましいって言われても……いいことなんてなかったのに……」
私は不謹慎だとも身勝手とも感じるその言葉を聞いて、私の気持ちをわかってくれないことに対する不満で唇を尖らせた。
しかしそんな私の反応を見てもなお、美香は足をバタバタと動かしながら私と同じく唇を尖らせて言う。
「えー、だって女の子の憧れでしょ。羨ましいなー」
「そんなのじゃないよ……」
私たちは二人して唇を尖らせた。一方は羨ましさに、もう一方は理解を示してくれない不満に対して。
入浴直前、話があると口にした私を引き連れて浴室に向かった美香は、あろうことか二人で湯船に浸かっているときにその話を切り出した。日本には裸の付き合いなんて言葉もあるけれど、それは女の子に当てはまる言葉じゃないだろうと思いながらも逃げ場を失った私は話さざる負えなくなってしまった。
衣服を身に着けていないこと、自分の心の内も話さなくてはいけないこと。その二つがとても恥ずかしくて、隠すように首元まで湯船に浸かりながら私は話した。
漫研にいたこと、そこで理不尽な物言いをされたこと。文芸部にやってきた当初のこと。漫研の先輩に手首をつかまれたこと、先輩たちが助けに来てくれたこと。そのすべてを、今まであったことのすべてを話した。
そして最後には、ごめんねと口にした。
今まで黙っていてごめんと。文芸部に顔を出さなくなった時に何も言えなくてごめんと。
色々な事があったということに驚くだろうか、自分勝手だと軽蔑するだろうか。そう思いながらも震えを押し込めてすべてをしゃべり終えてから美香の顔を見た。
すると美香は、今と同じように唇を尖らせて「いいなぁ!」と口にした。
予想外の反応に意を決して話した緊張感も消し去られ、私は湯船で体育座りのまま呆けた顔をしてに違いない。
決死の覚悟で、嫌われてしまうかもしれないと思いながら口にしたのに、美香はあまりにも的外れな反応をしてきた。
見方によればそれはとても嬉しいことだと思う。何一つ深刻な顔も見せずに、特別気遣って何かを口にするでもなく。ただ私の過去を聞いて、的外れに羨ましいなんて口にしてくれたのは、きっととても嬉しいことだ。
「うらやましーなーッ」
しかし、その話を終えてから、美香はずっとこんな調子だった。
きっと気を遣っているわけではないだろう言葉に、私は呆れを通り越してわずかな不満を感じていた。
「羨ましくないよ。男の人に手首掴まれて付き合えなんて言われて。怖かったし、いいことなんてなかったのに……」
「うらやましーなー」
「……美香私の話聞いてないでしょ」
あまりにも的外れすぎる感想に、私は憤りすら感じ始めていた。
同情されたり気を遣われたりとか、嫌われ軽蔑されるとかなら考えていた。けれどこんな、羨望に満ちた言葉で不貞腐れたような声を向けられるとは思っていなかったから、私の話を聞いていないんじゃないかと本当に思ってしまう。
けれど、美香がそんなことするはずがない。付き合いは短いけれど、私が部活に来なくなった時は毎日連絡をくれたし、私の味方なんて言ってくれたことだってある。そんな彼女が、私の意を決した行動を無下にするはずなんてない。それもわかっていた。
美香は、なおも足をばたつかせながらベッドの端に腰かけた私に言う。
「羨ましいよ。そんな風に誰かに好かれるなんて羨ましいー」
「私は怖かったのに……」
私は唇を尖らせながら目についたミニクッションサイズのフクロウのぬいぐるみを手に取って抱きかかえる。
たいして美香はシーツが濡れるのも構わずにベッドに仰向けに寝転がりながら私の顔を覗き込んだ。
「それに、松嶋先輩と総先輩に助けてもらったんでしょー? 羨ましい」
「それは、確かにすごい嬉しかったけど……。でも、先輩たちにすごい迷惑かけちゃったし、申し訳なくて……」
あの時、話をするどころか逃げることもできなかったあの時。私の前に先輩たちが現れてくれたのは、涙が出そうなほどに嬉しかった。
自分勝手な行いで招いた結果だった。だから誰も助けてはくれない。それが当たり前だったはずなのに。先輩たちは、入部数日の私のことを必死になって守ってくれた。私のもとまで駆けてきてくれた松嶋先輩にも、文芸部の一員だと言ってくれた総先輩もにも。なんてお礼を言っていいかわからないほどのものをもらってしまった。
だからこそ、感謝を真っ先に抱かなくてはいけないはずなのに、迷惑をかけてしまったことに対する申し訳なさがいつも前に出てきてしまう。わたしがいなければ、こんな迷惑はかけずに済んだのにと。
そんなこと、先輩はおろか文芸部の誰もが望んでいないとわかっているけれど、やっぱり思ってしまう。
「本当に、迷惑ばっかりかけちゃって……」
夏休みだってそう。先輩達には、迷惑かけてばかりだった。
思い出して申し訳なさに視線を下ろしていると美香が不服そうに声を上げた。
「えー。迷惑じゃないでしょー。というか羨ましいー。松嶋先輩にそんないろいろしてもらったのが羨ましいよー」
「だから美香、羨ましくなんて……あれ? 松嶋先輩?」
呆れてもう一度美香にどれだけの後悔があるかを語ろうと思ったのだが、美香の口から意外な人物の名前が挙がったことに気を取られて途切れてしまう。
「え、美香、総先輩のことが好きなんじゃないの?」
続けざまにベッドに寝転んだ友人に尋ねた。
美香は、私が入部した当初から総先輩にアタックしていたように思う。私の歓迎会と銘打たれた神社のお祭りの時も、美香は総先輩と二人きりになるのを嬉しそうにしていたし、そのころから美香と話すときは総先輩の話題ばかり上がっていた。
それなのに、今美香の口から出たのは松嶋先輩の名だった。
どういうことだろうと思ってあ仰向けに寝寝転んだままの美香の顔をのぞき込んでいると、美香は不思議そうに首を傾げた。
「あれ? 楓に言ってなかったっけ? 私総先輩に振られたんだよ?」
「…………えぇ!?」
数秒の間の後、私は驚愕に声を上げた。あまりの衝撃に体まで驚きを隠しきれなかったのか、小さく跳ねてしまってベッドのスプリングがキシッと音を立てた。
さっきまでの美香の態度も予想外だったけれど、今の美香の言葉はそれ以上に予想外だった。だって美香のそんなそぶりは見たことがなかったから。
私が文芸部にやってきた七月からようこの日まで、美香はそんなそぶりは見せなかった。先輩たちとも明るく談笑していた。総先輩だって例外じゃない。むしろ総先輩とは仲睦まじいと表現できるほどに笑顔を絶やさず談笑していた。
それなのに、振られていた。そのことがあまりに衝撃的で私は手に持っていたフクロウのぬいぐるみを放り投げてしまうところだった。
飛び上がった私を見て美香はアハハと笑うと笑顔のままに言った。
「ごめんごめん。言ってなかったんだね。私あの神社のお祭りの日に総先輩に振られたんだ」
「…………えぇ!?」
いったいいつのことだろうと考えて、みんなで手持ち花火をした日のことを思い出した。
あれは私が入部してちょうど一週間がたとうとしていた時のことだ。
「えっと……。美香。本当に?」
にわかには信じられなかった。だってあの日だって美香は総先輩と楽し気に話をしていた。花火の時だって私と松嶋先輩の前にやってきて、からかうようにはしゃいでいたのを覚えている。
それからだって部室ではいつも美香と総先輩が口火を切って談笑を繰り広げていた。とてもそんなことがあったようには思えなかった。
それでも、信じられないことであっても、何が起きたかを知っているのは当事者である美香だけだ。想像で美香は総先輩が好きなんだろうなんて決めつけていた私には事実はわからない。
だから、どれだけ信じられないことであっても美香の言うことを聞くしかない。
「本当だよ。お祭りの時総先輩と二人っきりになった時が合ったでしょ? あの時に振られちゃったんだよ。……んー、振られちゃったというよりは告白してくるなって言われちゃったって感じかな?」
「え、嘘……」
美香は笑顔のままに、他人事のように言う。そんなだからその言葉に真実味を感じることが出来なくてとっさにそう口にしていた。
けれど美香は声のトーンも寝ころんだままの体制も、笑顔のままの顔も何一つ変えずに言う。
「本当だよ」
「…………」
私はやっぱり信じられなくて、からかっているのかと思ってじっと美香を観察した。
事実は知らない私は、美香の言葉を信じるか疑うかしかできない。知っているのは当事者の美香だけだから、美香の言葉が本当のことかどうかを私が見極めるしかない。
冗談だ、そう思った。自分の失恋体験をこんなにも明るく話すから。
失恋体験を話すときはこんなにも楽しそうに話せるものではないと思う。気まずそうな苦笑いや、無理に取り繕ったような不自然な笑顔。そんな顔でするものだと思う。
だから、何事もないかのように平然と語るその姿からは真実味が感じ取れなかった。
けれど美香は、あくまで笑顔のまま、まるで今日の天気の話でもしているかのように何事もなく口にする。
「文芸部に入ったのも総先輩目当てだったんだけどねー。入部三か月で破綻しちゃったねー」
寝ぼけているわけでもないだろうに、間延びした声でどうでもいいことのように語る美香は、やはり冗談で言っているようにしか見えなかった。
私だって、恋愛経験が全くないわけじゃない。
誰かと付き合ったことはなくとも、片思いくらいの経験なら何度もとまでは言わなくとも数度くらいはある。
小学生の時、内気な私に声をかけてくれた人に恋をした。
中学生の時、クラスで人気の男の子にひそかに思いを寄せていた。
決して何かその人と特別な出来事があったわけではないけれど、一般的な、普通な恋愛経験は確かにあった。
どれもこれも実りはしなかったけれど、恋と呼べる経験は私にもあった。
だからこそ、美香の言葉が真実味を帯びていないと感じてしまう。
今でこそ過去の恋愛を思い出して冗談めかして話すことはできると思う。しかし、つい数か月前、さらに当人がすぐそばにいる環境でその恋を未練なく終わらせることが出来るかと言われれば、それはとても難しいことだと思う。
人それぞれ性格は違うけれど、まったく傷つかない人なんていない。それを隠すのがうまかったりするだけで、男女の差異もなく皆一様に傷ついたりするもののはずだ。
それなのに、美香からはその傷が見て取れない。隠そうとするはずの何かが見て取れなかった。
だから、冗談だと思った。
けれど美香は何食わぬ顔で、それが真実だと言うように私を見て言う。
「多分総先輩も気付いてたんだろうね、私の気持ちに。だから、告白される前にそんな風に言ったんだと思う。告白されちゃったら……告白しちゃったら。多分その後は気まずくなっちゃうからさ」
かみ殺すような笑顔を浮かべて言うなら真実味を帯びてくるのに、美香は変わらず何食わぬ顔で口にした。
なおも疑念を抱く私は何も言わずに、美香の挙動を見つめている。からかっているのか事実を口にしているだけなのかを見極めようと。
すると、美香の口角がクイッと上がった。
「っていうか、楓はどうなの?」
「え?」
いきなりの話を振られて頭がついていかず、私は今日何度目とも知らない疑問符を浮かべた。
そんな私の反応が面白かったわけではないだろうけれど、美香はニヤリと笑って仰向けのまま芋虫の様に私のほうまでズリズリとすり寄ってきた。
「楓の恋バナ、何かないの?」
美香は私の太ももに触れそうになるほどまで顔を近づけると、さっき同様私のことを見上げて言った。
「えっと……」
いきなり振られた話題に戸惑いながら逃げるように後退る。けれど、後退った分だけ美香がにじり寄ってくる。
もともとベッドの端に腰かけていた私はそれ以上後退ることができす、私の太ももに頭をぶつけた美香から逃げるように体を逸らした。
すると美香は可愛らしくも恐ろしい小悪魔のような笑みを浮かべて言った。
「修学旅行といったら、恋バナだよね~」
仰向けのままにそう言った同級生の瞳は、まるでオモチャを見つけた子供の様にキラキラと輝いている。
私は逃げることなんてできるはずもなく、ただ美香のペースに飲み込まれていった。




