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Primula  作者: 澄葉 照安登
第四章 溢れた思いが言葉に変わる
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溢れた思いが言葉に変わる 13

『一階まで下りてきてくれる?』

 入浴時間が終わって部屋に戻ると、そんなメッセージが届いていた。送り主は当然間城。

 俺はソウたちに出てくると伝えるとすぐに一階へと向かった。

 監視の先生に売店で飲み物を買うなんて言い訳をして一階へ降りると、先に来ていた間城に身振りで外に出ろと促された。

 呼び出しに応じてきた手前、こちらから何か言うこともできずに間城と肩を並べてウッドデッキへと向かって明るいロビーを出た。

 暗明の差のせいか、外は墨汁をこぼしたような漆黒で、聞こえてくる波の音だけが海辺なんだということを教えてくれた。

 数メートル先もおぼろげな中を、間城は何のためらいもなく進んでいった。自分だけ立ち止まるわけにもいかず間城に続く。見えない道を踏みしめながら。数秒後には目が慣れて見えるようになるであろう暗闇の中を。

 間城と二人で並んで歩く。考えてみれば、それは今までなかったことだ。

 間城と一緒に居るときはたいていほかの誰かがいたし、間城と一対一で話したりするようなこともなかった。繋がりに強弱や大小があるとするなら、きっと間城とのつながりは細く弱いもので、それこそ今年知り合った後輩たちと大差ないもののような気がする。

 高校に入ってから丸一年以上。もう一年半にもなるのにこうして間城と二人でいることは初めてのことだった。

 俺は目を凝らしてみた。俺の眼前には、いまだ暗闇が広がっていた。

 振り返ればキラキラと明るいホテルへと戻ることができる。何もかも見えている。見慣れていなくともそこに何があるかがはっきり見えるわかりやすい場所に。

けれど、もう戻ることはできない。もうとっくに踏み出してしまったから、踏み入ってしまったから。

 踵を返しても、きっと戻れない。たぶんそれは、立ち止まることと同じだから。

 ふと、隣を見ると、短い髪の毛の彼女がなぜだか軽やかな足取りで歩いていた。訳がかからなくて視線を逸らすと、彼女の身に着けたジャージが目に入った。

 そういえば今は風呂上がりだ。当然昼間と同じ服ではないだろう。別に驚くことではない。驚くべきは、そのことに気付いていなかったことに対してだ。

 なぜだか、俺はずっと俯きながら歩いていたらしい。

 見えないはずだ。前を向いていなかったんだから。地面を見続けても、闇に溶けたアスファルトや地面くらいしかい見えない。

 だから、俺は意識的に視線を上げて前を向いた。すると、思っていたよりもいろいろなものが見えた。実はもうウッドデッキは過ぎていたこととか、足元は砂浜だったこととか、海に向かい合うように立っていたこととか。そんないろいろなものが、よく見えた。

 砂浜を荒らしながらしばらく進むと、間城がほうっと息を吐いた。

「呼び出してごめんね。なんかしてた?」

 振り返った間城が、妙に明るく言う。

「いや、何もしてなかったよ」

「そっか…………」

 きっと、間城自身笑顔を浮かべたつもりだったのだろう。けれどそれは俺の目には笑顔に映らなかった。よくて自嘲気味の苦笑い。見方によっては、泣いているようにすら見えた。涙は流れなどいないのに。

「一応、報告しとこうって思ってさ。協力もしてもらったし」

「いや、協力なんて……」

 力になんて、なれていないと思った。

 正直今でも協力なんて何をすればいいのかわからないし、間城が何をしてほしかったのかもわかっていない。俺自身何かできたかと言われれば、偶然二人が一緒になれる機会を作ることができたくらいのものだ。

だから俺は口ごもりながら視線を落とした。実際俺にできたことは何もなかったから。

「ありがとね」

 けれど間城はそう言った。本当に救われたかのように、優しく、儚い声で。

 俺はそんな声を聴いて何も言えなくなってしまう。どういたしまして、なんてとても言えずに、それでもごめんと口にするのもはばかられてしまって。

 俺が黙っていると、間城はふっと笑った。やり切ったと満たされたように。

彼女はくるりと振り返って闇色の海へと体を向けると、星が瞬く空を見上げた。

「……結局、ダメだった」

「…………」

 俺は何も言えなかった。間城の様子を見れば聞かなくてもわかった。うまくいかなかったことくらいすぐに理解できたから。

 それに、こういう時なんて声をかけたらいいのかわからなかった。励ますのが正しいのだろうか、それとも一緒になって悲しむのが正しいのだろうか。どうしたらいいのかわからない俺は、ただ黙っていることしかできない。

「なんかごめんね、せっかく協力してもらったのに」

 そんな俺を気遣ったのか、間城が俺のほうを振り向いて力ない笑みを浮かべた。そしてそのまま俺のほうへとゆっくりと寄ってくるとおもむろに俺の横に腰を下ろした。

砂浜に直に座ってしまってはせっかく風呂に入ったのに汚れてしまう。そうは思ったが間城が珍しく強請るような瞳を向けてきたので何も言えない。代わりに俺はその場で腰を下ろして間城と目線を合わせた。

 間城は見えもしない水平線へと視線を向けている。間城はそれ以上喋ろうとしないから俺が口を開くべきなのかと思って何を口にするかを考える。けれど考えてもやはり適切な言葉など浮かんでくるわけもない。何が適切なのかすらわかっていないのだから。わかっていることなんて、うまくいかなかったという事実だけだから。

「……残念、だったね」

 何とか出した言葉は、そんなものだった。

 間城は表情を変えないまま俺のほうに向くとふぅと一息ついてまた夜空を見上げた。つられて俺も空を見上げてみれば、周りに明かりがないせいか綺麗な星空が顔をのぞかせていた。

 街の明かりのある場所ではこうは見えないだろう。きっと地元に戻って空を見上げても、こんな風には見えはしない。今しか見えないものなのだろうなと思ってそれを見続ける。流れ星が流れるわけでもないのに、何かを見逃すまいと見続ける。

「松嶋、うちさ……」

 不意に、間城が口を開いた。その声はどこか申し訳なさそうで、失恋したばかりの女子の声としてはいささか落ち着きすぎていると感じた。

 何を話したいのか、聞いてほしいのか。それを聞き逃すまいと俺は視線を間城のほうに向ける。もしかしたらやるせない気持ちをぶつけられてしまうのかもしれないと思った。

けれど、間城は俺のほうを向かずに星空を見上げながら呟くように言った。

「実は前に、告白したことあったんだ。総に」

「……………………え?」

 数瞬の間、間城が何を言ったのか理解できずに固まってしまった。その言葉をゆっくりと反芻して、咀嚼して、幾ばくかの間をおいて理解する。

 間城は俺の困惑した様子など気にしたそぶりも見せずに言葉を続ける。

「中学の時、総に告白したことがあったんだよ。卒業式の日に」

 間城は言葉を続ける、俺のほうを見ずに、空を見つめる瞳に何かを映しながら。

 そして間城は、懐かしむ様な声音で、俺の知らないことを語り始めた。

「簡単に告白できたわけじゃないけどね。…………卒業式の日の放課後に総に好きだって伝えようっていろいろ考えてたんだけど、結局どうにもできなくてさ。告白しないまま帰っちゃったの」

 今よりも少し幼かった頃の、自分と思い人を映しているのだろう。その瞳はとてもやさしく、それでいてとても切なく今にも泣きだしてしまいそうな脆さがあった。

「でも、その後どうしても伝えたくなって、総の家に直接行って告白したの。……卒業式は午前中で終わったはずなのに、告白したのはもう夜だった」

 その時も、今と同じように空を見上げたのだろうか。そう思いはしても、言葉にはならない。余計なことを言ってはいけないと思ったから。

「馬鹿だよね。自分でも思うよ。普段のあたしならもっと軽々とこなせたって。普段から仲良かったんだから、いつもと変わらないテンションで告白しちゃえばよかったのにって。明るくちょっと冗談めかしてさ。好きだよなんていればよかったのかもしれない。…………でも、それじゃ嫌だったんだよきっと」

 間城は自分のことなのに、憶測を立てるような話し方をした。それは今の自分に起きていることではないから、昔の自分のことだから、本当のことは断言できないのだろう。その時の気持ちはきっと、その時の置いてきたのだろう。

「ちゃんと、女の子らしく告白して、それで付き合いたかったんだと思う。軽い感じで好きって言っても、それは違う気がして。そんな安っぽい気持ちじゃない気がして。だから、ちゃんと告白したんだと思う」

 そこまで言うと間城はまた自分を落ち着けるように息を吐いた。そして最後に付け足す。

「だからありがと。私が逃げないようにしてくれて」

 そこで間城がようやく俺のほうを見る。間城は笑顔だったけれど、やっぱりそれは張りぼてだった。けれどそれには哀愁や後悔といったものは感じられず、清々しいものだった。

 間城が協力してといった理由が、協力者を求めていた理由が今わかった。

 間城は俺を、自分が逃げ出せなくなるための枷として使ったんだ。いつかのように逃げ出して後回しにしてしまわないように、自分が決めたことをちゃんと成し遂げれるように。そのために俺に協力してほしいと言った。自分が告白しようとしていることを話したのだ。

 間城にとっての協力とは、自分が告白するということを誰かが知っている、そのこと自体だったのだ。

 間城の昔の話を聞いて、ようやく合点がいく。協力なんて必要なのかと疑問に思っていたのがようやく晴れる。

 間城の過去を知ったから理解できた。

 けれど、間城の話を聞いたからこそ、疑問が生まれる。

 間城の過去の話を聞いてしまったからこそ、理解できないことがあった。

「……なんで……」

「え?」

 呟くように言った声は、間城にうまく届かなかったのだろう。俺の言葉の途中で間城が遮ってもう一度聞いてくる。俺は一度息を吸ってからなるべく聞こえやすいように意識しながら間城に尋ねる。

「なんで、告白したの?」

「…………」

 聞くと間城は黙ってしまう。聞いてはいけないことだったのか、そう後悔した。けれど自分の問いを無かったことにはできずに間城の答えを待つ。すると間城は少し困ったように笑った。

「まぁ、うち自身無理だってわかってたよ。多少時間が経ってるにせよ前に告白して一回振られてるわけだしね。見込みがないことくらいわかってた」

「じゃあなんで」

 それを聞いて余計になんでと思ってしまう。何かしら期待するものがあったわけじゃないのに告白した。なぜなのか理解できなかった。

 すると間城は自分の顔を隠すようにまた夜空を見上げて言った。

「仕方ないんだよ」

 隠そうとした顔は、達成感に満ちた笑顔を浮かべていた。

 俺が何がと問い返すよりも早く、間城は言った。

「好きなものは、仕方ないんだよ」

 自分自身に呆れたように、間城は笑った。それを見て、俺は黙ってしまう。

 呆れたわけじゃない、同情もしない。同情できるだけのものを、俺は持ち合わせていないからできるはずもない。

 けれど、だからこそ。俺に持ちえない気持ちを持っている彼女のことが――。

 羨ましい、と感じた。間城が口にしたそれは、いつからか俺が憧れ続けているものだと思ったから。

 付き合ってくれそうだからなんて不純な動機じゃない。告白されたからなんて流された結論じゃない。誰でもいいからなんて汚れたものじゃない。

 好きだから仕方ない。気持ちが先行してしまったからどうしよもない。

 間城が言った言葉は。間城が今胸に秘めている想いは。

 紛れもなく俺が憧れた恋そのものだと思った。

「勝ち目があるから告白するんじゃないよ」

 間城が達観したように言う。

「好きだって気持ちが、抑えられないから告白するの」

 間城が自分の胸に手を当てて、自分の思いを確かめながら言う。

「抑えられないから、勝手に言葉になっちゃうんだよ」

 自分の胸にあるそれを愛しそうに握りしめる。

「告白する理由なんて、そんなものだよ。好きって気持ちが、自分の中に貯めきれなくなって、言葉にしちゃうんだよ。…………言葉になっちゃうんだよ」

 間城は最後には自嘲気味に笑った。恥ずかしいことのように言いにくそうに。決して、そんなことはないのに。

「……なんか、すごいね」

 俺はそんな風に言った。ほかにも言いたいことがあったのに、そんな言葉しか出なかった。何を口にするのもはばかられて、俺の持ちえる言葉じゃ何も言い表せないような気がして。

 すると間城は苦笑いを混ぜた挑発的な笑みを浮かべた。

「松嶋だってそういうのあるでしょ?」

「いや、俺ってまだ恋したことがないから」

 間城のからかうような言葉に苦笑いで返す。

 そう、恋をした事がない。だからこそ羨ましいと感じているんだ。こんな恋をしたい、そういう理想はある。けれど何より恋がしたい。相手から思われなくとも、誰かを好きになりたい。一方通行でも構わない。そんな利己的な願望がある。

 きっと恋はしてみないとわからなくて、恋をしてからじゃないと見えないものもきっとあって。だから俺はそれを求めているんだと思う。

 どこかで見たことがあるようなベタな恋愛を。使い古された王道と呼べる物語を。

 いつか、そんな恋ができますように。きっとこの星空に流星が零れたらそう願う。そう思いながら俺は遥か彼方を見上げた。

すると間城は、そんな俺を見て笑顔を浮かべた。

「そんなことないでしょ。好きな人の一人くらいいるでしょ」

「本当にしたことないんだよ」

 俺が苦笑いで言った。恋をした事がある人、している人にはわからないかもしれない。その人にとって恋は日常的なもので、したことがない俺にとっては非日常だ。だから俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。

 けれど、彼女はふうと息を吐いた。

「そんなことないと思うよ?」

「…………えっ?」

 笑顔で、妙に自信満々に間城は言った。あまりに堂々とした口ぶりに、俺は思わず黙ってしまった。

 情けなく口を開いたまま硬直する俺を見て間城は優しく目を細めながら言う。

「好きな人って、簡単にできちゃうものだから。だからたぶん松嶋は気付いてないだけだよ」

 達観したように、悟ったように。夜空を見上げながら自信満々に言った。

 恋をしていることが日常で当たり前の彼女は、そうではない俺に向かって確かなものを突き付けるような瞳で告げた。

 思えば、間城はいつだって聞いてきた。しつこいくらいに、俺に尋ねてきたのだ。

 誰が好きなのか、と。

「松嶋、今好きな人はいないの?」

「…………」

 いるともいないとも言えなかった。今どころか過去にすら好きな人がいた経験などありはしないのだから当然答えられない。

「美香ちゃん?」

 俺は首を振る。

「じゃあ楓ちゃん?」

 もう一度首を振る。

 夏休みから幾度となく聞かされてきたからかい文句。俺の反応が面白いと言って間城が口にしていたその言葉。

 それが、今だけは焦ることや否定することはおろか、あしらうことも聞き流すこともできなかった。

 間城の声はいつになく真剣で、諭すようにやさしかったから。

「……松嶋にはいないの? 好きな人」

 からかっているように聞こえるのに、とても真剣な話のようにも感じてしまう。だから俺は黙ってそれを聞いていることしかできない。

「人ごみの中でも見つけられたり、なんでかわからないけどその人のことを探しちゃったりとか」

 それは間城自身の経験だろうか。間城は俺のほうをまっすぐに見つめながら言葉を続ける。

「突然誰かのことを考えちゃったりすることない?」

 恋をしている人からしたら、恋していない人のほうが異常に映るのかもしれない。だから、間城が何か疑問に思ったりするのは当然なのかもしれなかった。俺にはわからない、知らない何かが間城の瞳には映っているのだろう。

けれど、それは俺には見えないものだ。だから俺には理解できない。

けれど、だからこそ。

 恋をした事がない人間が、どうしてその気持ちに気付くことができるのだろう。

 知りもしない感情に、何の戸惑いもなく気付けるだろうか。見たこともない、知りもしないものを目の前に出されたところで、それが何なのかなど、分かるはずがないのに。

 疑問に思う瞬間が確かにあった。なぜなんだろうと思う瞬間が。けれどわからないから後回しにして忘れてしまおうとしていた。

 気にかけた理由も、探した理由も、考えてしまった理由も。

 俺にはわからなかった。どうしてなのかが。けれど間城はわかっていたのだ。間城は知っていたから。恋がどんなものなのかを。

 間城はじっと見つめている、逃げるように顔を逸らした俺のことを。俯けた視線が、いつしか間城にとらえられていた。

逃げる気などなかった。けれど直感的に思った。もう、逃げられないと。

 視線を彷徨わせながらうろたえる俺を見ている彼女は、笑顔だった。張りぼてではない、幸せそうな、嬉しそうな、けれどどこか挑発的な優しい微笑みだった。

 言葉を失い、体も動かなくなった。薄手のジャージ越しに感じる砂浜の感触も、わからなかった。

 そんな俺に向かって、彼女は膝を抱えた腕に頭をもたれて俺のことを見た。そのしぐさはまるで、何かを問いかけているように見えた。

 そして間城は最後に、なおもうろたえる俺に向かって、試すかのような口ぶりで言い放ったのだ。


――誰かに、恋してない?


 心当たりは、確かにあった。


最近更新が遅くて申し訳ございません。

なるべく自分で定めた金曜日更新を続けたいとは思いますので見守ってはいただけないでしょうか。


今回の章はとても長くなってしまいますがなにとぞよろしくお願いします

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