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Primula  作者: 澄葉 照安登
第三章 淡くも確かなつながりを
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淡くも確かなつながりを 14

 水色の傘に二人で入って校門を出る。気付けばあたりはすっかり暗くなっていて、いつの間にやら街灯も灯っていた。

「なんかごめんね、遠回りさせることになっちゃって」

「あ、いえ、気にしないでください」

 俺が言うと彼女は顔を上げて少し慌てたように言う。ふいに交わった視線を意識してはなぜだか恥ずかしく思って顔を逸らしてしまう。

 別にそんなに焦ることでもないはずなのだ。前に俺はこうやって永沢さんと二人で帰ったこともあった。それに同じ傘に入って駅まで送って行ったことだってある。今更何を焦ることがあるのだろう。そう自分に言い聞かせては見るが熱を帯びた頬が冷めてくれる気配はない。

 昇降口を出てから急にその存在をアピールし始めた俺の心臓はドクンドクンとうるさいくらいだし、本当にどうしてしまったんだろう。

 俺は自身の挙動を意識してしまわないようにちらりと永沢さんのほうを見る。

「……ッ」

 視線を向けた瞬間、同じように俺のほうをちらりと振り返った彼女と再び視線が交わって心臓がドクンと飛び跳ねる。それに影響を受けたように俺の顔もバッと逸らされた。

 落ち着け、なんでこんなにも動揺しているんだ。動揺することなんて何もない。初めての経験ではないし、彼女と前にこうして二人きりになるシチュエーションは何回もあった。だから早く落ち着くんだ。

 必死に自身の胸を鷲掴みにしながら鼓動を落ち着けようと瞼を閉じる。

 しかしそれがまた逆効果で、視界が閉ざされればそのほかの器官が敏感になってしまう。雨粒が傘を叩くぽつぽつという音に交じって彼女の熱っぽいため息のような吐息が聞こえ、ふいに彼女との歩調が合わなくなればその足音に気を取られ、さらにはすぐ横に女の子らしいほのかに甘い香りを感じる。

『…………はぁ』

 自信を落ち着かせるために吐息を吐いたはずなのに、すぐ横から自分のものとは違うため息が聞こえて反射的にそちらを振りむいててしまう。そして三度彼女と目があった。

「……あはは」

 また視線をそらしてしまうのも悪いと思いなんとなくそんな風に笑って見せる。そのぎこちない笑顔をどう思ったのか彼女は俯いてしまう。

 何か話題を探そう。そう思い視線を前方に向け、後方に向け、左右を見渡す。けれど視界に入ってくるものなど少し先に見える交差点に後方にはさっき出たばかりの校門、あたりは閑静な住宅街と話題になりそうなものはなかった。

 ぎこちない。自分のことながらそう思ってしまった。

 少し前までこんな関係ではなかったはずなのに、なぜか今そう感じる。別に俺たち二人の間に何かが起きたわけではない。何も変わらないのに、なぜかぎこちない。

「ふぅ」

 このままではいけないと思い大きく息を吐いて気分を切り替える。

 別段仲のいい相手というわけではないにしろさすがにこのままではいけない。何よりぎこちなさを意識してしまったせいで気まずいとまで感じるようになってしまっていた。

「永沢さん」

「あ、はい……」

 だから俺は話題を必死に探しながら彼女の名を呼ぶ。永沢さんは小さく返事をしてくれたが、うつむいたままだ。

「えーと、なんか、前の時とは逆だね」

 そして出てきたのは、そんな言葉だった。いったい何のことを言いたいのか、口にした自分ですらわからない。主語は一切ない曖昧な言葉だった。

「……ほら、前に永沢さんを駅まで送って行ったよね」

 俺はなるべく自身の動揺を表に出さないようにいつもと変わらない声のトーンを意識しながら言葉を紡ぐ。

 気付けばいつの間にか交差点の手前までやってきていた俺たちは赤く灯っていた信号機に道を遮られて歩みを止める。

「そうですね。あの時は、ありがとうございました」

 彼女は少しだけ俺のほうに向きなおって小さく頭を下げる。それとほぼ同時、目の前で赤く光っていた信号機が青く変わり通行を促してくる。

「あ、いや、お礼を言ってもらおうとかじゃなくてさ。今回は立場が逆だねって思っただけだよ」

 どちらからともなく歩き始めると停車中の車のヘッドライトに照らされる。まぶしくて視線を逸らせば俺たち二人の影が重なって見えた。

「あの時は、私が傘持ってませんでしたね」

「そうだったね」

 二人で横断歩道を渡り切り永沢さんが体の向きを九十度変えて駅のほうへと続く道を歩こうとする。

「あ、ごめん。俺の家そっちじゃないんだ」

「え、そうなんですか……?」

 俺が呼び止めると永沢さんが振り返って俺に尋ねる。

「うん。俺の家はここをまっすぐなんだ」

 そう言いながら俺は自身の家へと続く道に視線を向ける。永沢さんも同じように視線を向けている。

「えっと、無理に送ってもらわなくても大丈夫だよ? 遠回りになっちゃうから、ここまで送ってくれただけでも十分だし」

 学校から出てまだ大して歩いていないのにそんな言葉が口をついて出る。

「……ちゃんと送ります。……送らせてください」

「あ、うん。じゃあお願いしようかな……?」

 妙にはっきりとした意志を感じて俺は首をかしげながら言った。

 先ほど少し開いてしまった距離が、また縮まる。けれど必要以上に近くなることはなく、お互いが濡れないよう最低限近づいているだけだ。

「……全然、違ったんですね」

「え? 何が?」

 不意に永沢さんが呟くものだから、俺は反射的に聞き返してしまった。

 永沢さんは真っすぐとこれから歩いていく道を見つめながら説明を加えた。

「先輩の帰る方向、です」

 言われて、俺は永沢さんと出会ったばかりに事を思い出す。まだまともな会話すらしていなかった頃のことを。突然降り出した雨の中、傘も持たずに歩いて帰ろうとする彼女を、駅まで送って行ったことを。

 俺はあの時、彼女に帰り道は同じだから駅まで一緒に帰ろうと言っていたのだ。まぁそれはすぐに嘘だとばれてしまったのだが、だから当然彼女は今まで俺の帰り道を知らなかったのだ。

「あの時は、嘘ついてごめんね」

 俺はその時のことを思い出しながらそう口にした。

「あ、いえ、そうじゃなくて……! その、あれは先輩が気を遣ってくれたっていうのはわかってますから」

 焦ったように言った彼女は住宅街に反響した自分の声が恥ずかしかったのか言葉尻をすぼめて俯いてしまう。けれど彼女はそのまま言葉を紡いで、とてもやさしい吐息で呟くように言う。

「先輩の、優しさだってわかってますから」

 思いがけない言葉に彼女のほうを見れば、その言葉を口にしたのが恥ずかしかったのかほんのりと頬を桜色に染めていた。

 俺はなんとも言えない気恥しさを感じてまた顔を逸らしてしまう。

 優しい、なんていわれるとは思わなかった。別に優しくしたつもりなどみじんもないし、優しくしようとしていたわけでもない。だから、彼女のその言葉はあまりに予想外だった。

「……そう言えば先輩。小説は進んでますか?」

 俺が首を捻って黙ってしまったから、彼女は唐突にそう切り出した。

「え、あー。あんまり進んではいない、かな」

 俺は苦笑いしながら返すと永沢さんはそうですかと呟く。そしてそれだけ口に知るとまた黙ってしまう。

「永沢さんは書いたりしないの?」

 なので俺はそう尋ねた。そして口に出してから思う。立花さんには聞いたことがあったが永沢さんに小説を書かないのかと尋ねることは初めてだと。

「そう、ですね……。書きたい物語がないわけじゃ、ないですけど……」

「え、そうなの?」

「……はい」

 俺が訊き返すと永沢さんは少し恥ずかしそうに頬を染める。しかし相も変わらず永沢さんの視線は俺ではなく地面へと向けられている。

「……えっと、どういうのか聞いてもいい?」

「えっ、私の書きたい物語を、ですか?」

「あ、そうだけど……」

 そこで初めて彼女の顔が俺のほうへと向けられる。

いきなり瞳を向けられたものだから驚いてしまって言葉に詰まる。

誰かの視線をまざまざと感じるとこんなにも焦ってしまうものなのかと思う。

「えっと、教えてもらえると嬉しいかな。俺の執筆のためにも」

 なるべく平静を装いながらそう告げる。

 彼女は俺の言葉を聞いて、少し言いにくそうに、恥ずかしそうにスカートの前で組んだ手をもじもじと動かす。その恥ずかし気なしぐさがあまりにも可愛らしく感じて、ありえないことなのに告白でもされるんじゃないかと錯覚してしまう。

「えっと、笑わないでくださいね……?」

「う、うん……」

 不安と恥ずかしさを混ぜた瞳で上目遣いに俺のことを見上げる永沢さん。それを見てまた俺の心臓がドクンと跳ねる。俺の体はどうしてしまったのだろうか。

 動揺を隠しながら永沢さんの言葉を待つと、彼女は絞り出すような小さな声を発した。

「……女の子が、男の子に助けてもらって恋をする、物語です……」

 永沢さんのその言葉を聞いて、俺はピクリと反応してしまった。

 それは、とてもありきたりで、少女漫画では使い古されてしまったようなシチュエーションだろう。しかしだからこそ永沢さんが口にしたそのシチュエーションはとても俺の好みに合っていて、すぐにでも語りだしてしまいたくなるようなものだった。

けれど、俺が反応したのはそれが理由ではなかった。

話の中身に反応したわけではない。俺が反応したのはたった一言。恋というたった二文字の言葉に反応してしまった。

 もちろん、俺自身その言葉が好きだし憧れを抱いている。だから反応してしまうことは当然と言えば当然だ。けれど、そうじゃない。恋という単語に反応したのは事実だが少し違うのだ。

 俺は永沢さんの口から恋という言葉が出てきたことに反応してしまった。

 ありえないことなど何もない。高校生であれば恋くらいいくらでもするものだろう。だからそんなに過剰に気にすることでもない。そんなことはわかっていた。

 けれど、やはり彼女からその言葉が出たのは少しいや、かなり意外だと感じた。

「え、あの、その、やっぱり変ですか……? ありきたり過ぎましたか?」

「あ、ごめんそうじゃないよ。その、ただ……」

 焦るように言った彼女に俺は一度自身の中で言葉を整理して選んでから口にする。

「永沢さん、あんまり男の人にいいイメージもってなさそうだったから」

 そう、俺が彼女の口から恋という言葉が出たのが意外だと感じたのはそれがあったからだ。

「あっ……」

 その一言で俺の言わんとしていることを理解したらしい永沢さんが思い出したように声を上げた。

「あ、いや! 別にその時のことを言っているわけじゃなくてね?」

 慌てて弁解しようとするが俺は見事に逆効果。俺が何を思ってそれを口にしていたのかがまるわかりだった。

「……先輩?」

「え、な、なに?」

 しかしあわあわと慌てる俺とは違って彼女の声は落ち着いていた。そして不思議そうに俺のことを見上げながら彼女は当然のことのように言ったのだ。

「私、男の人が嫌いなわけじゃありませんよ?」

「へ?」

 当然だとでも言いたげに言った彼女に対して俺はきょとんと眼を見開いたまま固まってしまう。彼女が口にした言葉が、あまりにも意外過ぎていて。

「……確かにその、触られたりするのはちょっと怖いです」

 それは今更言われなくてもわかっているし実感している。先日だって俺が彼女の手首を掴んてしまったときは震えていた。だから俺はてっきり男性が苦手なのだと思っていたのだ。

 けれど、彼女は恥ずかしそうに横目で俺のほうを見ながら、常識を語るかの如く平然とした声音で言った。

「でも、私だって女の子なのでそういう……恋とか、そういうのに憧れたりするんですよ?」

 聞いて、ああそうか、と思う。

 現実として男性に触れられたりするのはまだ抵抗がある。これは彼女の中これからゆっくりと変わっていくものなのだろう。

 けれど、今話していたのは小説の物語の、空想の世界の話だ。

 俺だって現実では恋をした経験がない。けれど、だからこそ恋というものに強いあこがれを抱いて、理想の恋愛を思い浮かべては一人で満たされた気持ちになっている。彼女もそれと同じなのだ。

 まだ男性に触れられたり、距離を縮められたりということに少なからず抵抗を感じてはいるのだろう。けど、だからこそ、自分の理想とする相手を幻想し、自身の思い描く理想の男女関係を妄想するのだ。

 その気持ちはとてもよく理解できた。

「でも先輩にとって私は、異性とは映らないみたいですけどね」

「え、ああ、それは……」

 彼女が皮肉っぽく、それでも立花さんのような少し挑発的な声色にはならずに少し自虐的に口にした。俺は自身が過去に何度も彼女に対して口にしてしまったことを思い出しながら慌てて弁解する。

「その、永沢さんは一般的にはかわいいと思うよ? ただ俺はまだそういうのがよくわからないというかそういうだけで」

「先輩、フォロー苦手ですよね」

 永沢さんは口元に手を当ててふふふと笑う。それがなんとも申し訳なく思えて顔を逸らした。

「……でも、今はそれがありがたいんです」

「えっ、そうなの? フォロー苦手なのが?」

 またしても彼女が予想外な言葉を口にして俺はまたも聞き返してしまう。

「違いますよ」

 彼女は口に手を当てて「ふふふ」と微笑むとそれを落ち着けるように一度深呼吸をして口を開いた。

「私を、そういう目で見ていない先輩だから、こうやって二人きりになれるんです」

「あー、そういう」

 なるほど、と合点がいく。

 確かに異性からのスキンシップを敬遠して、下心を向けられることを嫌う彼女にとってそれはありがたいと感じることなのかもしれない。

「……じゃあ、文芸部の男子は大丈夫なんじゃないかな……」

俺は呟くように口にした。

別に文芸部にいる男子全員が永沢さんに魅力を感じていないわけではないだろう。けれどやっぱりそれは下心の混ざるようなものではない。

俺は彼女に対する気持ちは先輩と後輩、同じ部の仲間という枠組みがあるからこそのものだ。

ソウだって俺と同じようなものだろうし、そもそもソウには立花さんがいる。

真琴に関しては恋愛を敬遠している節があるし、普段の様子を見る限り永沢さんが心配するようなことは起きないだろう。

そもそも、文芸部にいる全員が彼女の嫌がることをするわけがない。

「そうですね。先輩たちは、みんないい人だと思います」

 それは彼女も感じているのか慈しむような瞳で自分の足元を見つめる。

「……まぁ、真琴は人当たりよくないけどね」

 そんな彼女を見て早くなった動悸を誤魔化すように俺は横槍を入れた。

 そうしたところでふと真実の江之島での出来事を思い出して何の気なしに尋ねてみた。

「そう言えば、真琴と鐘鳴らしに行ったときに何かしゃべったりした?」

「あ、えっと、あの時は特に何も……」

「……まぁ、そうだよね」

 俺は予想を裏切らない答えが返ってきて苦笑いを浮かべる。

 予想通りと言えば予想通りだけど、それでも何かしら話したりしてもいいだろうに。わが友人ながらによくわからない。

「でも、あの日原先輩と話を、しました」

「あ、そうなんだ」

 そういえば俺と立花さんが神社の参拝堂の前にある縄をくぐっているときに何か話しているような様子が見て取れた。真琴もさすがにずっと口を開かないわけではないらしい。

 けれど、永沢さんと真琴が二人で話というのもあまり想像できないものだ。真琴のあの雰囲気のせいで女子からはあまり話しかけずらいだろうし、真琴自身もあまり言葉数が多いほうではない。

「どんなことを話したの?」

 だから俺は少しご門に思って永沢さんにそう尋ねた。ほんの興味本位の、深い意味など何もこもっていない言葉だった。

 けれど、俺のその言葉を聞いた永沢さんはその場でピタッと足を止めてしまう。俺だけ歩いてしまうわけにもいかずに俺もその横で歩みを止める。

「あっ、変なこと聞いてごめんね。別に深い意味があったわけじゃないんだけど、忘れて?」

「あ、違うんです。えっと、その……それを説明するにはその、先輩に言わなくちゃいけないことがあって、その……」

 俺が少し慌てながらそう口にする。すると彼女も同じように慌てて言った。

 言わなくちゃいけないことがある? いったい何のことだろう。全く心当たりがない。もしかしてなんか変なうわさが……もしかして間城が言ってた二股だとかそういうのが出回っててそういうので俺の陰口を言っていたとか。

 心当たりがないせいで自分の思いつく話題になるような出来事を探した結果かなりネガティブな発想になってしまう。永沢さんがこうして普通にしゃべってくれている以上そんなことはあるわけないのに。

「……せ、先輩っ」

「えっ、なに?」

 急に呼ばれて反射的に聞き返してしまう。永沢さんは目をぎゅっと閉じて必死に、言いにくそうに口を動かす。

 もしかして本当に俺のネガティブな考えが的中してしまうのだろうか。そう思って内心びくびくしながら彼女の言葉の続きを待つ。

けれどそれは杞憂で、彼女の口から出てきたのは俺がずっと彼女に言いたかった言葉だった。

「連絡先、教えていただけませんかっ?」

「え……………………あっ」

 俺は予想外の言葉におどろき、そして数秒かけて納得がいく。

「もしかして、真琴と話してたのってその話だったりする?」

 俺が尋ねると彼女はこくりと頷く。

 なるほ、そういうことだったのか。永沢さんは真琴に相談していたのか。そう思いながら江之島の岩場で真琴が俺の悩みを言い当てたときに事を思い出す。

真琴は俺たちの中では最もまわりをよく見ている、その認識はたぶん間違ってはいない。けれど、だからと言って人の心の中まで事細かに理解できるわけじゃない。あの時真琴が言い当てることができたのも、永沢さんからそれを聞いていたからだったのだ。

 思えばあの時真琴は俺の問いに対して断定的な言い方はしなかった。まるで、もともと誰かに聞いていたことを俺に確認するかのような言い方をしていたことに今になってようやく気付く。

「先輩方が縄をくぐりに行った時、原先輩に松島先輩と何か話したいことでもあるのかって聞かれて、その、ずっと先輩と連絡先を交換できてないって話をしたんです」

 やはり、俺の思った通りその時に真琴は知ったのだ。そしてその時に永沢さんにそんなことを尋ねられたということは、その前から何かしら疑問に思うところがあったのだろう。思えば江之島にいる間妙に真琴のため息の数が多かった気がする。あれは俺たち二人のうまくかみ合わない動きを見て呆れていたからだったのかもしれない。

「それじゃあもしかして、江之島に向かってる時に何か言いたそうにしてたのって……」

「……はい、そうです」

 やっぱり、そういうことか。

 あの時は永沢さんが自身の空腹を訴えようとしていたのだと思い込んでしまっていたが、それにしては納得のいかないといった表情をしていたし、自身を責めるようにため息まで吐いていた。あれは言いたいことを口にできなかった自身に対して吐いたものだったのだ。

「なんかごめんね。気付けなくて」

「いえ、私が言えなかっただけなので……」

 そう自身を責めるようにいう永沢さんだが、自分を責めることなんてない。だって言えなかったのも気付けなかったのも永沢さんだけではないのだから。

 俺だって彼女の連絡先を訊きたいと思っていたはずなのにいつの間にかそんなことは忘れてしまっていたし、思い出したころにはもう永沢さんを怖がらせてしまった後だった。そしてそれが解決してからも俺は結局永沢さんに訊くことができなかったのだ。

 あの日、連絡先を訊けなかったのは彼女だけではない。俺も、そうだったのだ。

「俺も、実は気にしてたんだ」

 俺は苦笑を浮かべながら言った。俺の言葉に驚いたように振り向く永沢さん。俺はそんな彼女に笑顔を向けてから思い出すように視線を上に向けた。

「なんか、みんな永沢さんの連絡先知ってて、俺だけ知らないみたいだったからさ。だから、今更だけど江之島にいる間に何とか交換できないかなって、ずっと気にしてた」

「私と……一緒……」

 永沢さんが状況を確認するようにつぶやいた言葉に俺は小さくうなずきを返す。

「うまく聞くタイミングがつかめなくて。やっぱり今更だと思うし、もし永沢さんがそのことでなんかなんか…………嫌われてるんじゃないかとか誤解してたらどうしようって思ってた」

「そんなこと、思いません。……私も、なんて言ったらいいかわからなくて、聞けませんでした」

「一緒だね」

「はい」

 二人して、同じ日に、同じ時間に、同じことを気にしていた。それなのにうまく歯車がかみ合わずそれを聞くことが叶わなかった。今になってそれを理解すると可笑しく思えてしまう。

 でも、それは終わったことだから。今はもう、お互いの気持ちを知っている。

「永沢さん」

 俺は彼女のほうへと顔を向ける。永沢さんも同じように俺のほうを見つめてくれた。気付けば足は止まっていた。

 俺は、ずっと言いたかった言葉を彼女に向けて言った。

「連絡先、教えてもらっていいかな?」

 それは彼女がさっき口にした言葉と何も変わらない言葉だった。同じことを繰り返すだけの、無意味ともいえる言葉だった。

 けれど、彼女は嫌な顔一つ見せずにぱっと顔を輝かせた。

「はい」

 そしてそのまま、心底嬉しそうに目を細めながら笑顔で返事をしてくれた。

 俺たちは歩みを止めたままお互いのスマホを取り出して連絡先を交換し合う。今のご時世、わざわざ直接連絡先を交換しなくても友達伝いやグループチャットなんかを使って登録できてしまう。けれどお互いそうしなかったのは、やっぱりちゃんとしたかったからなのだろう。お互いの了承を得て、ちゃんと交換したかったからなのだろう。

 ポコンという通知音が鳴って永沢さんの画面には俺の連絡先が、同じように俺の画面には永沢さんの連絡先が追加される。見れば永沢さんのプロフィール画面は愛猫と思しき猫の写真だった。

「ありがとうございます」

「こちらこそ」

 お互いに頭を下げあう。一秒にも満たない短い会釈を終えて顔を上げると二人の顔には満足げな笑顔が浮かんでいた。あたりは真っ暗で、雨を絡めながら走る車の音もノイズじみていて不快感を覚えるのに、今はそんなものも気にならなかった。

「……あんまり遅くなると悪いし、いこうか」

「はい」

 俺たちはそう言いながらまた歩みを進める。もう学校を出てからしばらく歩いている。数分と経たずに俺の家に着くことになるだろう。もう喋ることもほとんどない。お互いが口にしたかったことはもうすべて出尽くした。だから頃合いと言えば頃合いなのだろう。長く一緒に居る必要は、もうないのだから。

 けれど、俺はもう少し彼女と一緒に居たくて、一人で帰るのは危ないと適当な理由をつけて彼女を駅まで送って行った。

 やはりもう目立った会話はなかったけれど、いつか感じていた違和感のようなものはもうみじんも感じられず、むしろたまに訪れる沈黙が相手の呼吸を感じることができて、隣にいることを意識できて心地よかった。

 それでも駅まで送ってしまえばその時間も終わり、最後に俺たちはまた部活でと別れの挨拶をしてそれぞれの自宅へと向かって歩いていった。

 ずっと聞きたかったことを訊けて心につっかえていたものは何もなくなった。妙に軽くなった体を揺さぶりながら俺はさっき歩いた道を引き返していく。まだ雨は降っているけれど、俺の心は快晴と呼べるくらいに晴れ晴れとしていた。

 けれど、だからこそ、俺は自身の落ち着いているはずの心臓の音に気付いてはいなかった。

 胸の鼓動は、少しずつではあるが確実に早くなっていった。


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