淡くも確かなつながりを 13
午後を迎え、だんだんと空にかかる雲が増えてきたなと感じると、次に見たときには雲が空を覆い、その色を濁らせていた。そして時間が経つにつれだんだんと町に降り注ぐ光も弱くなり、午後四時を超えたころにはすっかり曇天になってしまっていた。それでも淡い期待を抱きながらどうにか天気が持ってくれることを祈っていたのだが、それをあざ笑うかのように予報よりもだいぶ早く雨は降りだした。
「みんな忘れものないな?」
全員が部室から出て、鍵を閉める前に最後の確認とばかりにソウがみんなに訊く。それに俺たちはうなずきだけで返すとガチャンと大きめな音を立てて部室が施錠される。
各々が別れの挨拶を口にしたりして解散すると俺とソウもその後を追うように階段を下って行った。
「結局降ってきちまったな」
「そうだね」
俺はそう言いながら階段の踊り場の窓から黒く塗られた校庭を見下ろす。
まだ豪雨と呼ぶには雨量が足りないが、もう小雨とは呼べないほどには雨脚が強くなってきていた。この調子ならば時間が経つのに比例してだんだんと雨脚も強くなっていくのだろう。
「自転車は置いて帰らないとだね」
「だなー」
そう言いながら俺よりも数段先の階段を下っているソウに若干申し訳ないと思いながらもお願いをしてみることにする。
「ソウ、傘入れてくれない?」
「ん、いいぞ」
ソウは言いながら残り数段を飛ぶようにして降りる。
「男と相合傘っていうのも気持ち悪いけどな」
「そんな意識するようなことでもないでしょ」
振り返ってニカッと笑ったソウに興味なさげに言う。
「あれ、ハルはそういうワードが好きなんだと思ってたんだけど」
「別に何でもいいわけじゃないよ」
そう言いながら俺は階段を降り切ってソウと目線を合わせる。
相合傘。その言葉自体でも俺はそれなりに興奮するし妄想の種火にはなってしまう。けれどそれは男女でのそれを妄想するからだ。男子同士の相合傘を見ても、ああどっちかが傘を忘れてしまったんだな程度の感想しか抱かない。
俺の妄想はあくまでボーイミーツガール。同性での恋愛を描いた物語もあることは知っているが、そちらにはいまいち興味が持てない。もちろん、ソウと立花さんが相合傘をして帰るなんて言う現場を見てしまったら気まずさを感じながらまじまじと観察してしまう確信があるのだが。
「こだわりがあんのか」
「こだわりっていうようなものじゃないけど」
俺はそう言いながら下駄箱に続く廊下を歩いていく。空が曇っているせいで夏場だというのに妙に暗い。いつもであればこれくらいの時間はまだまだ明るいのに。
「んじゃ、鍵返してくるわ」
「行ってらっしゃい」
下駄箱の前まで行くとソウがその先にある職員室へ向かって歩いていく。
俺は鉄でできた下駄箱の群れを透かしてその先にある外に視線を向ける。見ればもう雨脚はすっかり強くなってしまっていて、豪雨と呼ぶほどではないにしろあまり外に出たくはない天気になってしまっていた。
ザァという雨音を聞きながら俺は噛み合わせの悪い下駄箱を開けて靴を履き替える。
靴を履き替えて下駄箱の出口から顔を出して、屋根のあるところで空をのぞき込むように見上げる。
「……ゲリラ豪雨、って感じなのかな」
もしそうならば少し待っていれば弱まってくれるかもしれない。そうは思ってみるが、空を覆う黒い雲には入れ目など一切見えす今日は青い空を見ることが叶わないのだと実感させられる。
なんとなく手持無沙汰で校門のほうに目を向けると大きめの黒い傘のシルエットと男女で一つの傘をシェアしている人影が見えた。
おそらく黒い傘のほうは真琴だろうが、もう一方は先輩とも後輩ともわからない、顔も名前も知らないカップルだろう。
しかし俺の視線は真琴のほうではなくそのカップルのほうへと向けられている。
やっぱり相合傘はあんな風に仲睦まじくするものだろう。お互い触れ合ってしまうほどに寄り添い、時たま顔を合わせてはにかんで見せたりとイチャイチャと。
…………いや、ほかにもいいシチュエーションはあるな。同じ相合傘でもぎこちなくお互いが何とか傘に入るギリギリの距離を保ちながらうまく会話することもできず目も合わせられず、しかしお互いのことを気にしてやまない。ふいに視線が合ってしまえば頬を赤らめてまた視線を逸らす。恥ずかしさで距離が開きそうになるが雨に濡れないようにと離れるわけにはいかない。それでもやっぱり近づくことはない。そんなじれったくも感じる甘い空気もいいのではないだろうか。
ああ、それすごい良い。思わず口元がゆがんでしまうくらいにはいい。
「先輩?」
「うぇっ!? 永沢さん!?」
突然背後から聞き覚えのある声が聞こえて反射的に振り返ってみればそこには永沢さんの姿があった。俺は自分の歪んだ顔を見られたくなくて素早く腕で隠す。
「あ、すみません。驚かせちゃいましたか?」
「あ、いや、大丈夫、ははは」
俺は腕で口元を隠しながらぎこちなく笑って数回深呼吸をする。沈まれ俺の妄想、消え去れ俺のにやけ顔。
「……永沢さん、まだ帰ってなかったんだね」
「あ、はい。ちょっと教室によってました」
「そうなんだ」
夏休みの期間中になぜ教室に寄ったのだろうという疑問はなぜか抱けなかった。その代わりにさっき飛び跳ねた心臓がどきどきと脈動している。妄想をしている瞬間を見られてしまったのではないかという焦りのせいでここまで心臓が暴れるものなのだと思い知らされる。
「先輩は、何してたんですか?」
「俺はソウを待ってるんだよ。今鍵返しに行ってるからさ」
「あ、なるほどです」
永沢さんはそう言いながら視線を自分の手元へもっていき自身の傘を持ち直す。そして傘を広げようと傘のバンドを外そうとしたとき、ピタッと永沢さんの視線が何かをとらえた。
「……先輩、傘持ってないんですか?」
「え、ああ」
その視線は俺の手に向けられていて、永沢さんは俺の手に何も握られていないことに気付いたらしくそんな質問をしてくる。
「今日雨降るって知らなくて、持ってきてないんだよね」
「そうなんですか……」
「うん。だからソウに入れてもらう予定なんだけど」
俺は言いながらカギを返しに行っているだけにしては帰りが遅い幼馴染の姿を見つけようと下駄箱のほうへ視線を向ける。パラパラと人は見えるもののそこに俺の探す人の姿はない。
「ちょっと戻ってみてくるよ。またね」
「あ、また、です」
俺はそう言いながら先ほどくぐったばかりの昇降口をまたくぐって左右に下駄箱の大軍を見ながら土足で行けるぎりぎりの位置まで行って廊下の先を見る。
「おっ、ハル悪い。待たせたな」
するとすぐ目の前、目と鼻の先にソウの姿があった。ちょうど戻ってきたところに鉢合わせる形になったらしい。
「遅かったね」
「ああ、カギ箱のとこが混んでてな」
そう言いながら俺の横を通ったソウは急いで靴を履き替える。少なからず待たせてしまったことを申し訳なく思っているのだろう。
上履きをしまいながら靴を取り出して、それを地面に放るように置いてつっかけるようにして無理やりに履く。そしてそのまま傘立てのところまで行って朝自転車に引っ掛けられていた見覚えのある傘を引き抜く。
「男二人が入るにはちょっと厳しいかも知んねーけど我慢してくれ」
「傘に入れてくれるだけでありがたいよ」
俺はソウと二人並んでまた昇降口をくぐる。こんなに昇降口を行ったり来たりすることはなかなかないだろうなと思いながら。
「あれ? 楓ちゃんまだ帰ってなかったの?」
と、昇降口を出るとそこには永沢さんの姿があった。永沢さんはさっき俺と話していた場所から動かずに今やってきた俺たちのほうへ視線を向けていた。
「……おつかれさまです」
俺たちに気付いた永沢さんがぺこりとお辞儀をする。
見ればさっき持ち直していた傘はまだバンドすら外されていなかった。俺がソウの様子を見に戻ってここに戻ってくるまで一分とかかっていない。だからまた鉢合わせしてしまうのに不思議はない。けれど傘を開こうともしていなかった彼女を見て首をかしげてしまう。
「永沢さん、もしかして立花さんを待ってるの?」
なんとなくそんな気がして尋ねてみた。
「え、あ、そういうことじゃない、です」
「あ、そうなんだ」
俺の問いが予想外だったのか少し慌てたようにして答える永沢さん。
「ハルのこと待ってた、とか?」
『えっ!?』
ソウが変なことを言うものだから永沢さんと一緒になって声を上げてしまった。
それがソウにとっては面白い反応だったらしく、ニヤリと笑うとソウは俺たちから若干距離を取って自身の傘のバンドを外した。
「いやーごめんよ、邪魔する気はなかったんだ。いやーそうかそうか、ハルも先に言ってくれりゃいいのに」
「え、ちょっ」
勝手なことを言いながらソウが傘を開く。焦りながらもソウのことを止めようとするが距離を取られてしまっているせいで伸ばそうとした手も届かない。
「んじゃ俺先帰るから、幸せになー」
そう言うとソウは自分の頭上に傘をさして雨が降り注ぐ屋外へと出て行ってしまった。
「え、ソウ待ってっ……」
ソウを追いかけるように飛び出そうとするが屋根から出てしまえば濡れてしまうのも必然。俺の足はそこから動くことなくソウに向けて伸ばしたはずの手は虚空すら掴むことなく垂れ下がった。……え、ちょっと待ってよソウ。変な誤解は後でどうにか弁解するからいいにしても、俺を置いて帰るのはやめてくれよ。俺は今日傘を持ってきてないんだから。
俺はソウの背中に恨めしい視線を送ってからため息を吐く。
「…………あの、先輩……?」
「え? あ、なんかごめんね変な誤解されて! ちゃんと後で誤解解くから!」
永沢さんに話しかけられ、あらぬ誤解をされてしまったことを謝罪する。いきなりありもしないことを言われてしまっては永沢さんとしても気分が悪いだろうしね。……そう思うならば自身の普段のを庫内をよく見たほうがいい気がした。俺もよく他人を見て変な妄想してるしね。
とてもソウのことをどうこう言える行いはしてきていないなと苦笑いを浮かべる。
「あ、いえ違うんです。その、先輩、傘持ってきてないって……」
「え、あー、そうなんだよね。ソウに入れてもらおうと思ってたんだけど」
そう言いながらもう校門を潜り抜けてしまっていたソウに視線を送る。そんなことをしたところでソウが戻ってきてくれるわけもないし、今スマホでメッセージを送ったところで気づいてくれないだろう。仮に気付いてもニヤニヤしながら返信しない可能性だってある。となればだ。
俺はわずかな希望を抱きながら自身の肩から掛けていた学生かばんに手を突っ込む。前は鞄の中に折り畳み傘を入れっぱなしにしていた。なので今回ももしかしたら入っているかもしれない。そう思いながらごそごそと中身の入っていない鞄をあさるが、そんな都合よく折り畳み傘が出てきてくれることもなく俺は鞄の口を閉じる。
「仕方ないか……」
俺はそう呟きながら自身の肩から掛けていた鞄を下ろす。
「永沢さんなんか引き留めちゃってごめんね?」
「あ、それはいいんですけど、先輩、どうやって帰るんですか?」
「え、どうやってって…………走って、かな」
そう言いながら下ろした鞄を両手で持って頭に乗っける。そうした俺を見て目を大きく見開く永沢さん。まあ驚かれてしまっても仕方ないのかも。女の子からすれば考えれられない手段だろうしね。おもにワイシャツという服装のせいで。
しかし俺にはこれしかとる手段がないのでこうせざる負えない。俺は今一度空から落ちてくる水滴を見上げながら飛び出すタイミングを計る。
「じゃあ、永沢さんまたねっ」
待っていたところで雨脚が弱まる気配はないので覚悟を決めて飛び出そうと振り向いて別れの挨拶をすませる。帰ったらすぐに風呂に入らなきゃなと思いながら足に力を籠める。
「あのっ、先輩! なら一緒に帰りませんかっ?」
「ふぇぃ?」
今まさに飛び出そうとした瞬間、思いがけない言葉に奇声を発しながら振り返った。
俺の聞き間違いだろうかと首を捻りながら彼女の顔を見る。
「あ、その、もしよかったらなんですけど。家まで送っていきます、けど……」
「え、本当に?」
いまだに信じられずに聞き返してしまう。しかしそれは気のせいでも聞き間違えでも妄想や空想の類でもなく現実のようで永沢さんはこくりと頷いてくれる。
思いがけない申し出に驚くと同時にその申し出がとてもありがたいと感じる。いくら自転車で普段通っている距離とはいえ、学校から自宅までは目と鼻の先の距離とは言い難い。夏場とはいえ雨に打たれてびしょぬれで帰れば風邪をひくかもわからない。
俺は頭にのせていた学生かばんを下ろしてその申し出を快く受けようとする。
「……いや、でも悪いよ。方向も違うし」
しかしそこで彼女のことを考えてそう口にした。俺の家と永沢さんの帰り道である駅は真逆とは言わないまでも方向が大きく違う。俺のためにわざわざ大回りさせてしまうのも悪いし、帰りが遅くなってしまう。
今日は曇っているせいもあって暗くなるのが早いのだから付き合わせてしまうわけにはいかないだろう。
そう思って俺は下ろしかけの鞄をもう一度頭の上に乗せようとする。
「わ、悪くないです!」
しかし彼女は、大きな声でそう言った。俺は少し驚いて反射的に振り返ってしまう。
両手を胸元の前で組み、彼女の持つ水色の傘を握り占めている。肩にかけている俺と同じ学生かばんの持ち手が肩からするりと落ちる。彼女の声が雨音よりも大きかったせいか、彼女を見つめている間雨音が遠のいたように聞こえる。
「あ、その…………っ」
俺に見つめられていることに気付いてか、それとも大きな声を出してしまった恥ずかしさからか彼女は少し頬を赤らめながら視線を落とす。
「もしよかったら、私に送らせてもらえませんか……?」
彼女が、少し恥ずかしそうに俺のことを見上げてくる。その瞳は真剣そのもので、けれど不安げに揺れている。そのせいか強請られているように感じてしまって心臓がはねる。雨音が遠のいたせいで彼女の吐息が聞こえてきて顔が熱くなる。
「あーっと……」
妙な気恥しさを感じて視線を泳がせる。頭の後ろを掻きながらも意識は彼女のほうに向けたままに視界には雨で黒く変色したアスファルトが映り込む。
もうすっかり本降りになっている雨はいつの間にか大きな水たまりを作っていた。その水たまりに雨粒が当たっていくつもの波紋を描き、それがお互いを歪めて水面を波打たせる。
学校もすっかり明かりが落ちて人の気配もしなくなってしまった。そのせいで永沢さんの呼吸を感じて気恥ずかしさが増す。
いつになく心臓がうるさい。彼女の真剣なまなざしを見て動揺してしまっているのだろうか。心当たりのない脈動を誤魔化すように耳を澄ませるようにして雨音に意識をやる。ほかのものに意識を向ければ聞こえなくなるだろうと思って。さらに俺は一度深呼吸して自分を落ち着ける。そして俺の答えを待っていた永沢さんに申し訳なく思いながらも笑顔を浮かべて言った。
「じゃあ、お願いしようかな……?」
心臓の音は、雨音では消えてくれなかった。




