淡くも確かなつながりを 12
学生の姿が見えない通学路にミンミンと蝉の声が響いている。しかし八月上旬の夏本番だと騒ぎ立てるようなものではなく静かにすら感じる声だった。大勢の仲間たちと合唱するわけでもないその声は、夏が終わってほしくないと惜しむようにも聞こえた。
日の出からしばらくたち、だんだんと熱を持ち始めた町の中、ソウと二人でゆっくりと自転車をこぎながら学校へと向かう。わずかながらに感じる風がだんだんと熱せられていく自身の体を落ち着かせてくれる。
気付けば夏休みも一週間を切り、夏休みの間に部活で集まる機会も今日を含めてあと二日となってしまった。
「夏休みもあっという間だったな」
「そうだね」
俺の前方で自転車を漕ぐソウが、この夏にあったことを思い返すかのような妙に懐かしさのにじむ声で呟く。俺もその呟きの同意しながらすっかり見慣れた夏の青空を見上げる。
夏休みの間に何かをしていたというわけではないが過ぎてしまえばあっという間だったと思わされる。ただ部室にみんなで集まり一向に進む気配のない白紙同然の原稿用紙を広げながら、それには全く手を付けることなくみんなでしゃべって過ごした記憶ばかりで文芸部の部活動らしい活動などみじんもなかったように感じる。結局江之島への取材もみんなで遊んで観光して解散しただけ。普段と何にも変わらなかったのだから。
しかし妙に満足そうなソウは鼻歌を歌いながらペダルを元気にこいでいる。自転車に引っ掛けてある傘がどちらに進めばいいのかわからず振り回される。
「そう言えば、なんで傘なんて持ってきてるの?」
俺はなんとなく視界に入ったそれを見ながらソウに尋ねる。
「あん? 今日夕方雨降るって言ってたからだよ」
「え? そうなの?」
ソウに言われて俺は頭上を見上げる。けれど見上げた空には灰色の雲などわずかほども見て取れず、本当に降るのかと疑問を抱いてしまう。
「天気予報で言ってた」
ソウが言いながら点滅し始めた信号を渡り切ろうとペダルを強く踏み込む。俺も置いていかれないようにと思いぐっと膝に力を込めた。
二人して何とか赤になる前に信号を渡り切り動かしていた足を止めて減速させる。そのまま二人ともゆっくりとしたスピードまで落とすと惰性に身を任せて学校へと進んでいく。
「ならなんで自転車で来たの?」
「ハルが自転車で来たからだろ」
「確かにそうだけど、言ってくれれば歩いていったのに」
そう言いながら減速してバランスが危うくなってきた自転車を自身の足で動かし始める。
「いや、別にそんな確率も高くなかったし、降らなかったらチャリのほうが楽じゃん?」
「降ったら自転車置いてくの?」
「まぁ、別にそんな離れてないしいいだろ」
「次の部活数日後なんだけど」
「別に使うようならとりくりゃいいし」
「テキトーだなー」
夏休みの期間中に脳内まで休暇を取ってしまったのか、行き当たりばったりなことを言うソウ。そんなになるまで自堕落な生活を送っていたのだろうか。
とそう思っていると目の前のソウが目元に涙を浮かべながら大きなあくびをする。
「……そう、もしかして昨日小説書いてた?」
「んー、まぁ少しだけなー」
そう言いながら俺の幼馴染はもう一度大きなあくびをした。なるほど、だからいまいち頭が回っていないのか。
俺の親友はうっすらと目元に涙を浮かべて数割ほど閉じた目で未知の先を見つめている。先日のように今にも眠りこけてしまいそうとまではいかないが、寝不足なことに違いはないようだった。
と、そんな風にソウのことを観察しているうちにいつの間にか目の前には見慣れた校舎がたたずんでいる。そしてその校門には今まさに学校の敷地内に侵入しようとしていた男子生徒の姿が見えた。
「マコ、おはよー」
ソウが言いながら減速もさせずに真琴のほうへと一直線に向かっていく。キィと嫌な音を立てて止まったソウの自転車に続いて俺もその後ろでブレーキを握りしめる。
「おはよ」
「ん」
俺が言うととても朝の挨拶とは思えないうめき声にも似た返事が返ってくる。けれどそれに何か言うでもなく俺とソウは自転車から降りて三人で校内へと足を踏み入れる。
「マコ、今日は早いのな」
ソウが先に校門をくぐった真琴に向かって声を投げかける。
「熱いからな」
真琴は顔だけをこちらに向けてそんな風に言う。単語だけで会話をされるのではたから見ればいまいちかみ合わない会話にも見れるかもしれないが、俺たちにとってはそれは平常運転。真琴が何を言いたいのかおおよその検討はつく。
「確かに、九時近くになると熱いもんね」
そう言いながらカチャカチャとチェーンの音を鳴らす自転車を引いて下駄箱へと続く道を歩く。決して久しぶりではないのにこうして歩くのが妙に懐かしく感じてしまうのは先日の江之島での一件が色濃く記憶に残っているからだろうか。
「……陽人、結局聞けたのか?」
唐突に、真琴がそんな風に切り出した。主語は存在せず何が言いたいのかわからないような言葉だったが昨日の今日の出来事だ、何をなどと野暮なことは行ったりしない。代わりに俺は苦笑いを浮かべて小声で言う。
「聞けてない」
「……はぁ」
真琴が、もはや耳慣れてしまった溜息を吐く。俺も自分のことながらため息を吐きたくなってしまう。
結局あの日は展望台に上った後は暗くなってきたので解散という流れになった。とはいっても全員帰る方向は同じだったのでそれぞれの駅までは電車内で一緒だった。しかしほかにのみんなもそばにいる状況で連絡先を教えてくださいなどと切り出せるわけもなく、結局その日は展望台での会話が最後となってしまった。我ながら情けない。
そもそも、展望台にいるときには二人きりになれていたのだからその時に訊けばよかったのだ。あの時は永沢さんが俺の失態を気にしなくていいと受け入れてくれたのだし聞くタイミングはどこかと言われればあそこしか無かったようにすら思う。しかし、あのときの俺は永沢さんから平気だという言葉を聞いただけで妙な充足感を感じてしまい話を切り出すことを忘れてしまったのだ。
「お前ら馬鹿だな」
真琴がそう呟きながらもう一度ため息を吐く。そんな真琴に反論もできずに苦笑いを浮かべた。というか、なんで複数形だったのだろう。
ふと疑問に思いはしたもののそこまで気にすることでもないのでその疑問は煙のように消えてなくなってしまう。
「てか、お前らなんで自転車?」
「え、ああ。ちょっと天気予報見てなくて……」
真琴の問いかけに答えながら悪友の顔から視線を下げるとそのの手には大きめの黒い傘が握られていた。
「今日ってそんなに雨降る確率高いの?」
さっきソウにも聞いたことだが、寝不足状態のソウに訊いただけではいまいち信用できずに確認の意味を込めて真琴に問う。
「一応六時から雨の予報」
「あー、なんとも言えないな……」
文芸部の終わる時間は六時少し前が通例だ。なので予報通りに振るのだとしたらちょうど俺たちが帰宅する時間に当たってしまうということになる。もちろんその時間ぴったりに降ると決まっているわけじゃない。あくまで予報なのだから前後することもあるだろうし外れることだってあるだろう。もし仮に降る時間が遅れてくれれば急いで帰るという方法も取れるのだが。
真琴の答えを聞いてうーんと悩む。悩んだからと言って今更帰って傘を持ってくるわけでもないのだが。
「結構強く振るの?」
天気予報を全く耳に挟んでいなかった俺はもう一度真琴に尋ねる。
「まぁ、普通に降るんじゃない」
「んー、そうなのか……」
真琴は興味なさげに言うとワイシャツの胸元をつまんでパタパタと仰ぐ。
別にいくら聞いても傘を取りに行くわけでも買いに行くわけでもないのだが、とりあえず帰宅時のことに思いをはせてみる。
もしもあまり強く降らないのであれば多少濡れるのを覚悟で自転車で帰っても構わない。学校から自宅までは自転車で十分ちょっとの距離だし、急げば十分とかからずに帰宅することができるかもしれない。
「別に降るって決まってるわけじゃないだろ」
「……それもそうだね」
真琴の言うようにわかりもしない未来の出来事を思い浮かべたところでそれはその時になってみないとわからないだろう。雨が降るかもしれないし降らないかもしれない。それは豪雨かもしれないし霧雨のような弱い雨かもしれない。
いくら考えて予測し想定しても自然の出来事だ。その時にならなくてはわからない。
「とりあえず自転車置いてくるよ」
「ん」
そう言って俺たちは下駄箱を通りすぎた先にある駐輪場まで早足に向かう。
「ハル何の話してたん?」
「今日の天気の話だよ」
「ほー」
ソウに訊かれたから答えたのだが、いまいち頭が回っていないのか呆けたような返事をするだけで振り返りもしない。
俺はもう何度目かわからない呆れ笑いにも似た苦笑いを浮かべて空を見上げる。
真っ青な空にはそれにふさわしい真っ白な雲が浮いている。雲は汚れを知らず、濁った色にはなっていない。
まだ雨の気配どころか曇天になる気配さえ感じられない空模様を見ながら俺はさっきの真琴と同じようにパタパタとワイシャツで自身の身を扇ぐ。ゆっくりと歩いているうちにわずかばかりに太陽がその高度を上げたのだろう。本当に雨が降るとは思えない。
だから俺は街を照らす火の玉を迷惑そうに見つめながら思った。
今日は一段と熱くなりそうだな、と。




