表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Primula  作者: 澄葉 照安登
第三章 淡くも確かなつながりを
34/139

淡くも確かなつながりを 11

 俺たちが丘の入り口に戻ると続いてソウと間城が、そして最後に真琴と永沢さんが鐘を鳴らしに行く。丘の入り口にいると案外その音は聞こえてこないもので、本当に鳴らしているのかどうかはわからなかった。

 そしてだんだんと日も傾き空がオレンジ色になってきたころ、俺たちは今日の締めくくりとして展望台に上っていた。

「ベストタイミング、だな」

 エレベーターから出るなりソウがつぶやいた。

 確かにソウのつぶやき通り、まさにベストタイミングだった。

 海の向こうにはもう沈み始めようとしている太陽が見える。その太陽が入道雲をオレンジ色に染め上げ、その上に見える青かったはずの空を暖かく色づかせている。そして町のほうを見ればだんだんと暗くなり始めた空に星々が見え隠れしている。

 それはまるで昼と夜の境界線にいるかのような景色だった。

「綺麗じゃん!」

「ですね!」

 間城と立花さんが目を輝かせながら言うと展望台のガラスへと張り付く。永沢さんもわぁと小さな歓声を上げるとその二人に続いていく。真琴も声を上げはしなかったがこの景色を気異例だと思う気持ちは同じだったのだろう。ガラス張りの窓まで寄っていくと海の上に浮かんでいる太陽を写真に収めていた。

 俺は窓のほうには寄って行かずにエレベーターをよけて、空を見上げ町を見下ろす彼ら彼女らを見つめていた。

 景色だけでもとてもきれいであるのは疑いようもない。しかし、それを楽しんでいる人もセットで見るとまたその良さが際立って見える。茜色の空がみんなを暖かく包んでくれている、そんな気がして。

 そんな俺の視線に気付いたのか、同級生に引きずられる様に連れられて行った永沢さんが俺のほうをちらりと見る。

 視線が交わりドクンと心臓が嫌なはね方をする。俺はそれを隠すように視線を逸らそうとして、それをも隠すように苦笑いを浮かべた。

 昼間の出来事があってからというもの、俺は永沢さんと会話をするどころかまともに目も合わせられなくなってしまっていた。別に彼女が何かをしたということはない。彼女の姿ははたから見れば普段と何の変りもないように思える。だから距離を開ける必要はないはずなのだ。

 けれど、怖がらせてしまったという事実が俺の体を縛り付けて、まともに彼女の目を見ることすらままならなくなってしまっていた。

 ほんのわずかにそらした視線を彼女に戻せば、彼女はどこか寂し気に視線を落としていた。俺の態度のせいでそんな顔をさせてしまったのだろうか。そう思うと胸の中が申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「なぁ、屋上出られるみたいだぞ」

 そんな俺たちの様子にも気づかないままにソウがそんな声を上げる。そしてその声に引き寄せられるように女子たちの視線がソウのほうへと向かう。

「えっ、マジで! 美香ちゃん行こうよ!」

「はい! 楓も行こう!」

「え、ちょと……」

 そう言って二人は戸惑う永沢さんを置いては屋上階へと続く階段を駆け上がって行ってしまう。まだ人が少なくなったとは言い難いのにそんなにはしゃいで迷惑にならないかと困り笑いを浮かべながらも、楽しそうで何よりだと思う自分もいる。

「ハルも来いよ」

「わかったよ」

 ソウに呼ばれて俺は屋上へと続く階段のほうへ向かう。見れば真琴もみんなに続いて階段を上っていた。なんだか妹弟に振り回される兄になったような気分だ。

 俺は苦笑いを浮かべながら置いていかれないようにみんなの後を追う。置いていかれて一人きりになるのは寂しいからな、なんてわざとらしく自分に言い訳をして。

俺自身、それは何かから逃げる様にすら感じられるほどだった。

「……あっ、あの先輩っ」

 皆に続いて外へと続くのぼり階段へと足をつけようとしたときに、緊張で裏返った声が俺のことを呼び留めた。

「え、あ、永沢さん…………」

 振り返ってみるとそこには不安げに俺のことを見上げる永沢さんの姿があった。俺が階段に足をかけているため永沢さんが俺のこと見上げている視線が上目遣いに見えて一瞬ドキッとしてしまう。

「あー、えっと……」

 けれどそんな鼓動も瞬きの間に霧散してしまい、残ったのはうまく言葉を紡げない自分の口だった。

「…………」

「…………」

 永沢さんもどう言葉を紡げばいいのかわからないのだろう。俺を呼び止めた彼女は口を噤んだままきょろきょろと視線を動かす。

 そんな様子を見て何かを口にしなくてはいけないと思って必死に考える。言葉を交わすことなんて簡単なことのはずなのに。今までもずっとしてきたはずなのに。今だけは、今目の前にいる彼女とだけはうまく言葉を交わせる気がしない。

 どうしたって、昼間のことを思い出してしまうから。

 だから俺は逃げるように、階段の先にある屋上へと視線を向けた。

「…………みんなのとこ行こうか」

 そんなさび付いたようにぎこちない言葉しか出てこなかった。彼女が俺を呼び止めたのは何か理由があるはずなのに、そんなことにも気付くことができずにそう告げた。

「あっ…………はい……」

 永沢さんは戸惑ったように返事をすると、俺の横を通って屋上へとあがって行った。

 その背中を見送ると、俺は少し遅れてその後を追った。

 屋上に出ると、ガラス張りの屋内では感じなかった夕方の風を肌で感じる。展望台の上ということもあってか少し強い風のせいで夏にもかかわらず冷たさを感じられる。けれど、その程度でみんなのテンションが下がるわけもなく、ガラス張りの屋内と違って人の少ない屋上階でワイワイと声を上げている。

「……騒がしい」

 俺よりも先に屋上にいた真琴が階段のすぐ横でそんな風に呟いていた。

「本当に、元気だよね」

 別に返事など求めていないだろうに俺は真琴に呟きに相槌を打っていた。

 ちらりと真琴が俺のほうを見る。俺はそれに笑顔を返しながら望遠鏡の設置されている屋上階の端のほうまで歩いていく。

「……聞けたか?」

 すると俺の後をついてきていたらしい真琴が俺にぽつりと尋ねる。主語はなかったが何のことを言っているのかは理解できたので尋ねることなく答える。

「まだ聞いてない」

 若干沈みながらそう口にした俺を見て真琴が呆れたため気を吐いた。

 今日一日、チャンスがあれば聞こうと思っていたのだがものの見事にそれらしいチャンスを逃してしまった。最も憎むべきは付与言うに永沢さんの手首をつかんでしまったあの時の自分だ。あの後からとても永沢さんと二人きりで話ができる雰囲気ではなくなってしまった。もしもあの時の戻れるならと思いはするものの、結局同じようなことにはなっていたのではないかと思い至る。

 屋上のふちに設けられた手すりのような柵に背中を預けてはしゃいでいるみんなのほうに視線を向ける。

「……ま、知らなくても問題ないだろ」

 俺の後に続いてやってきた真琴が同じように柵に寄り掛かって口にする。

 確かに連絡先を交換したからと言って四六時中連絡を取るようになるかと言われればそんなことはない。けれど知らないと知らないで何かあった時に困ってしまうのだ。何より、やはり部員の中で俺だけが知らないというのがいたたまれない。

 俺は柵に手をつきながら眼下に広がる庭園を見る。

「お前、よく見れるな」

「あ、真琴って高所恐怖症だっけ?」

「真下が見れないだけだ」

 すねるように言った真琴に思わず笑みが浮かんでしまう。

「まぁ、確かに柵があるとはいえ押されたりしたらかなり怖いよね。…………はっ!」

 俺は口にして、背後から妙な気配を感じて振り返った。振り返るとそこには手の平を俺に向けて今まさに俺の背中を押そうとしていたのであろう立花さんいた。

「…………」

「…………フリじゃないよ?」

「えー」

 俺が言うとにじり寄ってきていた立花さんが不満げな声を上げて踵を返す。まったく、自称純粋じゃない子は悪ふざけが大好きなのだろうか、ことあるごとに俺をからかおうとしてくる。

「ずいぶんと仲良くなったな」

「だいぶ遊ばれてます」

 真琴のつぶやきに渇いた笑いを返す。俺をいじって何が面白いんだろうか。そう思いながら今一度空に目を向けると髪の毛を乱す強風にのって目の前にトンビが姿を現す。たぶんこういうのを見ていたほうが何十倍も面白いに違いないんだけどなと思う。

「ハルー、風強いし俺とユサ戻るわ」

 すると、屋上に出ようと言い出した本人がすでに値を上げてしまって戻ろうとしていた。

「あ、わかった。……俺らも行こうか、って真琴?」

 言いながら隣にいたはずの真琴のほうを見ると、忽然とその姿を消してしまっていた。

 目を離したすきにどこかに行ってしまったのかと子供を探す親のようにあたりを見回すと、俺を置いて真琴は一人で屋内へ戻ろうとしていた。

 俺は声もかけずに一人で行ってしまった友人の後を追うように屋内へと続く階段を目指す。

「永沢さん立花さん、先に戻ってるよ」

「あ、私たちも行きまーす」

 何やら内緒話をするようにしていた後輩たちに一応声をかけると二人が早足にこちらに向かってくるのが見えた。俺は一応二人を待とうとなんとなく水平線を見つめる。

 先ほど海に沈み始めそうだった太陽はまだ粘りずよくその光を町に届かせている。夏ということもあってか日の沈みがだいぶ遅い。けれどそのおかげか、水平線近くのオレンジ色の空から顔を上げるように視線を移動させると、だんだんと青くなって暗く変わっていく虹のような大空が目に入る。

 不意に目に入ったそれがとても綺麗で見とれてしまう。しかしそのせいで、注意力が散漫になってしまった俺は、奇襲に気付くことができなかった。

「え、えいっ……!」

 トン、と柔らかな衝撃を背中に感じてフリじゃないと言ったばかりなのにと呆れながら振り向いて文句を垂れる。

「立花さん、さっきも言っ…………あれ、永沢さん?」

「あ、その、はい」

 しかし振り向いた先にいたのは立花さんではなく永沢さんだった。意外な人物に首をかしげながら俺をからかいに来るだろうなと踏んでいた後輩の姿を探す。

 見ると、立花さんらしき人影が階段を下りていくのが見えた。あれどういうこと、と首を再度かしげると永沢さんが慌てたように説明をし始めた。

「あ、えっと、その。美香が先輩を押せって言って、その、美香が先に行っちゃって……」

「あ、ああ、そういうこと」

 立花さんのしどろもどろな説明を聞いてなんとなく察する。おそらく立花さんが自分で俺にちょっかいを出そうとすると感づかれると思ったのだろう。そこで疑われにくい永沢さんにその役目を押し付けて自分はさっさと離脱した、というところか。

「永沢さんも大変だね」

 今日一日からかられた俺としては永沢さんに同情を禁じ得ない。永沢さんのおとなしい性格上、無理やり押し付けられてしまうとうまく断ることができないのだろう。

「…………」

 そんなどうでもいいことを考えながら苦笑を浮かべていたが、それも数秒の間に消え去ってしまう。そして残ったのは沈黙と俺たち二人だけだった。

「あー、とりあえず戻ろうか」

「あ、はい」

 俺が昼間のことを思い出しながら、ついさっきのようにならないようにと急いで言うと永沢さんはためらいがちに頷いてくれた。

 先に戻ってしまったみんなの後を追おうと俺は踵を返して階段のほうへ体を向けたのだが、

「あ、あの先輩」

「え、なに?」

 急に背後から話しかけられて俺はぱっと振り向く。見ると立花さんが少し言いにくそうに俯いていた。

 いったいどうしたのだろうかと思いながら彼女のことを見つめれば、緊張をほぐすように深呼吸をする彼女の姿がある。どうすればいいのかわからず彼女の言葉を待っていると、彼女の口から意外な言葉が飛び出た。

「……あの、今日は、ありがとうございました」

「へ? なにが?」

 急に謝辞を述べられて何が何だかわからず聞き返してしまう。何かお礼をされるようなことなどあっただろうかと思いながら首をかしげると、立花さんが静かな調子で説明してくれた。

「その、転んだとき、助けてくれたので」

「あ、ああ。そのことか。いやいいんだよ? こっちこそごめんね?」

 俺はあの時のことを思い出して反射的に彼女の手首を見つめてしまう。しかし永沢さんが守るように自分の手首を握っているのを見て顔を逸らしてしまう。

「あっ、違うんです! 本当に、助かったので。本当にそれだけなんです」

 そんな俺の視線を見て永沢さんが焦ったように言う。

「…………本当に、それだけなんです。大丈夫なんです」

 永沢さんが、ぽつりとそう言った。俺はその言葉に引かれるように永沢さんを見つめる。永沢さんの、申し訳なさそうな瞳と視線が交わる。

「ごめんなさい。先輩が怖かったわけじゃないんです。ただ、あの時のことを思い出しちゃっただけで、それだけなんです」

 そう、彼女は言った。申し訳なさそうに、視線を落としながら。

 その様子を見て、やっぱり彼女の傷をえぐってしまったのだろうと実感させられてしまう。彼女の傷に触れてしまったという罪悪感のせいで、それだけだと口にした彼女の言葉を素直に受け取ることができない。

 無理してそう言っているのではないか。俺のためにそう言ってくれているのではないかと考えてしまう。

「……とりあえず、戻ろうか?」

 だから俺は罪悪感を消しきれずにぎこちない笑顔を浮かべた。目の前にいる永沢さんは、自分の気持ちをうまく伝えられなかったことを悔いるように俯いている。

 俺がここで、もう気にしていないよと口にするのはたやすいことだと思う。けれど、それを真実たらしめる行動ができるかと言われれば、そんなことは約束できなかった。きっとそれを口にしても、永沢さんと言葉を交わすときになればぎこちなさが出てしまう。そんな気がして。

友人に観察されただけで簡単に胸中を察せられてしまうような俺だから、きっと永沢さんにも伝わってしまう。負い目を感じ続けていることに。

「……行こう?」

 だから、俺はそんな風にこの場から逃げるようなことを口にした。情けなく、女々しい。けれど、そんなことしかできなかった。

 俺は彼女の手を引くこともできずに、視線を泳がせる。そうやって逃げている。逃げても何も変わらないのに逃げることしかできなかった。

 でも逃げようとする俺とは違って、彼女は声を上げた。

「……先輩……ッ」

「えっ? 永沢さん?」

 彼女が俺の名前を呼んだと同時、俺の右手が熱のある柔らかいものに包まれる。

 驚きながらもそれを見ると、永沢さんの両手が優しく捕まえるように俺の右手を掴んでいた。

「え? えっ?」

 予想外の出来事に俺は疑問符を口にすることしかできない。本当はすぐにでも永沢さんの手を離してあげなくてはいけないはずなのに。だって彼女は男性に触れられるのが怖いのだから。

 けれど、彼女自身が逃がそうとしない。いや、逃げないでほしいと縋り付いているように感じる。決して強くは握られていない右手から、彼女の絞り出した勇気を感じる。

「わ、私、先輩に触れます」

 永沢さんは、絞り出すような、今にも震えだしてしまいそうな声でそう言った。必死に、伝えたいことがあるのだと訴えた。

「だから……」

 彼女は、手を離さない。強く握ることもなければ、力を弱めることもしない。

 ダメだとわかっている。彼女は男性に触れることを一種のトラウマのように感じている。だから離さなくてはいけないはずだ。わかっているのに。

 顔を紅く染めながら、今にも泣きそうな不安げな瞳で、頼りなさげにも真っすぐに俺のことを見つめてくるから、振り払うことができない。

 彼女はこんなにも今、震えているのに。

「先輩、大丈夫……です」

「……え?」

 彼女のその言葉を聞いて、今更ながらに気付く。彼女の体は、震えてなどいないということに。

彼女の瞳も不安げではあるものの、そこには俺が彼女を抱きとめたときのような恐怖は含まれていない。あの時はあんなにも震えて、怯えていたのに。

 まっすぐに俺のことを見つめている彼女は決して強い口調ではないけれど、俺にやさしく諭すように、理解してもらえるようにと言葉を紡いでいる。今もなお、俺の右手を触れながら。

「私、先輩に触れますよ」

 なぜ平気なのか。俺がそう尋ねるよりも先に彼女は言った。もう一度、そう言ったのだ。

 そんな風に言われてしまえば何のために、などと疑問に思うことなどない。

 彼女は、俺が手首をつかんでしまったことを悪く思っているということに気付いていた。だからこうして、気にしなくていいと、伝えようとしてくれているんだ。触れても大丈夫だと、怖くなどないからと。それを伝えたいがためにこうして言葉を紡ぎ、手を伸ばしているのだ。

 俺は自分に呆れてしまう。

 変に気を遣って気にかけてしまって。そのせいで逆に相手に気を遣わせてしまっていたんだ。そんな本末転倒な状態が情けなくて、そんなことに気付けなかった自分に呆れてしまう。

「気を遣わせちゃったね」

 俺は苦笑いを浮かべる。申し訳ないと自嘲気味に。

「あ、いえそんな。……先輩のほうが、気を遣ってくれてるのはわかってます。…………今日も、前も………。ありがとうございます」

 彼女は手を離して笑顔を向けてきた。先ほどまでの名残でほんの少し赤く染まった笑顔はあまりに綺麗で頬に熱が溜まったのが自分でもわかった。

 そしてふと思う。彼女に真っすぐ笑顔を向けられたのはこれが初めてなのかもしれないと。

いつだかの帰り道での笑顔はすぐに崩れてしまうような付け焼刃のものだったし、神社の花火の時は直接笑顔を向けられていない。花火大会の時は笑顔を見ることはかなわなかったし、その後の部室では涙交じりの笑顔だった。

 ほかのものが何も入っていない純粋な笑顔を見たのは、そんな笑顔を向けられたのは今日が始めただろう。

 だからだろうか、夕日はもう沈みかけているのに、妙に暖かく感じたのは。

 簡単には沈まないと粘っていた夕日も、もう半分が隠れてしまっている。見ればそれは、いつかの線香花火と被って見えた。そして、その線香花火の向こうで、もう一度彼女の笑顔がちらりと顔をのぞかせる。

「……みんな待ってると思うし、戻ろうか」

 俺は、不思議な満足感を感じながら笑顔を浮かべる。先ほどまでのような逃げるための言葉ではなく、進むための言葉を。

「はい」

 俺の言葉を聞いた彼女は静かにうなずいてくれた。

 永沢さんは、恋人の鐘の時の立花さんのようにすぐ隣には来てくれなかったけれど、背後に感じる永沢さんの気配に妙な安心を覚える。きっとそれは、右手に残ったぬくもりが何かを後押ししてくれているのだろう。

 自分の右手に意識を向けてしまったせいか、さっき見えたはずの線香花火越しの笑顔が消えて行ってしまう。代わりに夏の熱気を帯びた風が屋外にいることを思い出させるようにびゅうと髪の毛を揺らす。

髪の毛が少し暴れるが、熱を帯びた風が何だか心地いい。後ろにいる永沢さんは背中まである黒い髪の毛を手で押さえたりしているのだろうかと勝手な想像をする。振り返れば確認できるというのにそれをしないままに。

 俺は今一度確かめるように自分の右手を見つめる。

 そうして残ったぬくもりと、夏の風を感じながら夏ももう終わってしまうんだななどと名残惜しく思う。

 なぜ名残惜しいのか、なぜ唐突にそんなことを思ったのか。そんな風に思うことなく俺は自分の胸中を満足感でいっぱいだと勝手に結論付けて勘違いしていた。

……だから、俺は気付けなかった。

決して安心感でも充足感でもない、まったく別のものがあったことに。今まで感じたことのないものが、いまだ俺の知らない何かが、そこにはあったのに。

 俺の胸には、何か熱を帯びたものが芽生えていたのに。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ